さて、こうやって逐一書き出してみると、おぼろげながら自分の最初の疑問が瓦解しました。
なぜに高倉兄弟の命の返却と、荻野目苹果の呪文発動とが重なっているかといえば、それはこのアニメの主題に気づかせるためなんですね。気づくの遅いです。
荻野目苹果が発した呪文──「運命の果実を一緒に食べよう」は、「輪るピングドラム」第二十二話で高倉家を突撃訪問したダブルHのCDのタイトルからとられたものでした。ところが彼女たち曰く、それは陽毱がたいせつにしていた言葉だったとのこと。そして、「第二〇話で明らかになったように、その言葉を陽毱は自分を家族に加えてくれた晶馬から受け取ったのです。さらに、晶馬はすっかり忘れていたのですが、もともとは飢えて死にそうになっていたところを、冠葉によって救われていた。半分になった林檎をあたえられて。
以上のことを、苹果が呪文を発した瞬間と、幼い冠葉と晶馬のやりとり──二人が箱のなかにいたのは、じっさい監禁されていたというより、眞悧のいう疎外的な「箱」を越えても人はつながることができる、という暗喩だったのかも──をオーバーラップさせることによってみごとに表現しているのです。このことに気づかされたとき、私はこの最終回をまったくもってすごい演出だと思わざるをえませんでした。細切れに時系列をばらばらにしてストーリー上にばらまいている、最後になればピースが嵌まっていくようにしてみごとな全体像ができあがる。そんなわかりにくいゼロ年代によくある洋画の手法を模したかのようにも思えますけれども、それが伝えるところは明確にして明敏。これがよくある脚本家のお手並みであったなら、ピングドラムが命のやりとりでつむがれた絆たることを、詩趣こまねいたボキャブラリーの限りを尽くしてくどくどとキャラに語らせて終わったことでしょう。
そうはいっても、この最終回、いやシリーズ全話を通して不満がないわけではありません。
生存戦略のBGMに乗って陽毱が蘇生する場面はAパートの最高潮でありましたが、いっぽう、そのあとの晶馬と陽毱の日常がたりは、あまりに映像とのギャップがありすぎて笑いを誘われてしまいました。晶馬が胸から引き抜いたピングドラムも、林檎をイメージさせるために赤く茹だったボールにしてあったのも、鬼才演出家幾原氏にしては芸がなさすぎるというべきか。探していたエモノが実は主人公たちの体内に隠されていたとは、「美少女戦士セーラームーン」の記憶をひきずっているとさほど目新しいとは思われない。なので、その事実は構成の核として必要であっても、もうすこし華々しい見せ方をしてほしいものだとも。しかし、監督はこれがアニメのうちに登場する特別なアイテムではなくして、現実の人の心の有り様をしめすメタファーとして伝えたいがために、わざと素っ気ない演出にしたのかもしれません。でも、これってね、私の好きなアニメでいうと、運命の人と結ばれるシーンを二人の手のひらにある貝殻をくっつけたことで暗喩させるようなものだと思いますけど。
もうひとつの不満は、晶馬の最期とその遺した言葉。
苹果の炎を身に受けながら、「愛してる」とささやきますけれど、後半で陽毱にこころ傾いた場面が多々あったおかげで、告白が軽いものに思われてならなかったこと。そして、苹果が列車に乗り込んだときの晶馬の説得があっさりしすぎていたこと。「あたし、決めたから」に「そうか」で引き下がる。そして、苹果をもまきこんで、僕たちは最初から呪われていただのなんだのネガティヴ思考を垂れつづける。最終回までこの調子をひきずっていたために、いきなり土壇場で苹果の炎を引き受けたとしても、感動を覚えることがむずかしいものでした。なんだか、ストーリーの先を読ませないために、わざと右折すると見せかけてハンドルを急に左に切った横暴な先行車両のようではありませんか。
そうした意図的に誘導するトラップをストーリー上いくつもしかけていたために、視聴者がいささか疲弊したのは否めません。前回、急に喋れるようになったペンギン帽が、今回、冒頭から眞悧の真横でだんまり決め込んで傍観していたのが、その最たる例でしょう。ですので、私としては本作を人生史上いちばんとすることはできませんが、すくなくとも五指にははいるほどの名作としたいところ。2011年でいえば、まちがいなくナンバーワン。とにかく映像で魅せる、音楽で感情を掻き立てるというアニメならではの醍醐味をたっぷり味あわせてくれました。
この作品のテーマが訴えたいことは、いわば映画「ペイ・フォワード」に近いのかもしれませんが、自分が他人にあたえる(ただし見返りを求めない)ことで世の中がよくなるという考えかた、すさんだ時代だからこそ広まってほしいものでもあります。幾原監督には、また数年以内に新作を手がけていただきたいですね。
【アニメ「輪るピングドラム」 レヴュー一覧】