陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

遠藤周作の小説『満潮の時刻』

2024-10-12 | 読書論・出版・本と雑誌の感想

サナトリウム文学というジャンルがありますよね。
主人公が療養生活を送っていて、病院内の人間模様が描かれた小説のこと。あるいは自宅療養でも同じなのでしょうけれども。原民喜の「夏の花」に所収だった短編だとか、堀辰雄の「菜穂子」だったか、そのあたりの。過去にいくつか読んだことがありますが、ほぼ記憶に残ってはいませんでした。当時は入院患者なんて他人事だと思っていましたから。

けれども、今年(2023年)の9月何気なく書店で手にしたこの一冊。今この時、私がぜひにも読み通すべき本でした。そして、自身が入院する前は、ぜったいに怖くて手にできなかったでしょう。主人公の病状がどう転ぶのか知るのが怖かったからです。

2023年は芥川賞作家の遠藤周作の生誕百年にあたる年。
くしくもそんな記念の年にこの物語に出会ったのも何かの導きのように私には思いなされたのでした。断捨離をしていて、遠藤作品を片付けようかと思った矢先に、やはり捨てられず、むしろ再燃してしまったという次第。


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時は1960年代の高度成長期。
およそ20年前、太平洋戦争を徴兵逃れで生き延びた中年サラリーマンの明石(下の名前は不明)。同窓会では軍隊生活を強いられた同期からの視線が痛い。そんな折、突然の吐血をした彼は急きょ入院することになる。病名は、当時不治の病とされていた結核だった…。

この主人公のモデルは、肺を病んで新人作家ながら挫折を味わった遠藤自身。
傑作の呼び声高いあの、キリシタン迫害に苦しむ宣教師の懊悩を描いた「沈黙」が生まれる少し前。二年半ほどの入院を余儀なくされた遠藤の、静謐なまなざしがそのまま活かされていることでしょう。

病室での仲間たちの友好関係と、退院者への羨望。治療方針がころころと変わって戸惑わせる医師への不信感。毎週のように院内のどこかで生じる死の痕跡。術後の病者のうめき声。そして、閉じた空間で寝起きしている不活動な日々での、精神の退廃。看病につとめる妻への気遣いと気苦労。

明石は病室を抜け出して、街をくまなく観察しだします。
病院の玄関先を行き来する蟻の群れのような人々。たえずくりかえされる夕暮れ時の空をまっすぐと立ち上っていく煙。それはあきらかに肉体の腐敗と焼却のイメージなのでしょう。

窓から眺めた別棟の白血病患者の、手を握りあう夫婦愛にほだされ。あるいは人工肛門をつけた男児と触れ合い。しかし、物言わぬながら闘病生活でひそかな同志愛を贈っていた彼らは、ひとり、ふたりと、あっけなく死んでいってしまいます。しかも、ある日名札を削られたかのように、それを看護婦の言づてでしか知ることができない。

やがて、いっときは楽観視していたはずの明石の病状もみるみる悪化。
二度の肋骨を数本摘出する手術を経て、一時は心臓停止までに至る。三度目の手術で持ち直した彼は二年の病院生活に別れを告げ、慰安旅行としてひとり長崎へ旅立つことに…。

明石が長崎で見出したものは、古びた踏み絵。
なんども踏まれて顔の潰れたキリストの目に、病棟で飼っていながら身代わりのように死んでしまった九官鳥のえもいわれぬまなざしを重ね、それは自身の、他者の哀しみを写しとり共感する目として会得していくのです。

タイトルの「満潮の時刻」とは、人生の悲喜こもごもを超えた再生の瞬間を喩えたもの。
人が死ぬときは干潮、生まれる時は満潮が多い。自分が死の危機に直面し、万が一の時は誰が悼んでくれるだろうかと嘆き、自分ひとりが死ぬのに世界はかわりなく動いていくことを呪い、虚妄にとらわれたとき、まさに肉体のまえに、人間はこころが乾いていくのでしょう。満潮は待つものではない、みずから引き寄せるものである。ぜったい生き延びてやるぞと腹を据えたときから、明石には起死回生のチャンスが与えられたのです。

明石は静かな日々の中で葉擦れの音や風のそよぎに、生命の躍動を感じとっていく。
忙しさにまぎれて働いた日常では気づかなかった、無価値な事物や風景。その動きこそが、自分に何かを語りかけているのではないかと感じとる。やがて、幾多の生と死の境をのりこえた彼は、新しく生まれなおした自分を見出していくのです。その救いを求めるために拝んだ踏絵のキリストの声に許されたような気がして。

過去に遠藤周作全集には収められたものの、未完として文庫化されなかった本作。
たしかにところどころ描写の繰り返しや、設定のこまかな矛盾が見られはするのですが。明石が完全恢復したとはいいがたいながら、かつての病室を訪れて女学生励ますくだりは、人間の優しさと愛に満ちています。自分自身が人の消えた病室に絶望しただけに、後続者には希望を与えたかったのでしょう。誰でもこの牢獄から無事に生還したいと願うのだから。

私が特に胸を打たれたのは、手術に失敗し、二度目ではよりひどい痛みをうける羽目になった医療体制に対する不満を妻の声によって、不測の事態に直面しながらも最善を尽くした医師への謝意に置き換えたところでしょう。私とて検査入院のあとは、結果の不満足にやりきれなさを感じ、怒りをぶつけたくもなかったのです。命を預けるのが名医だとしても見通せない事態があり、そこに全責任をかぶせることを恥ずかしく反省する気持ちを、この小説は私に教えてくれたのです。

キリスト教徒でもあり病者でもあった遠藤の一連作には、似たようなモチーフが登場します。
迫害され裏切られながらも神のような慈愛でひとびとを赦す男。人の命を預かる医術と仁愛のあはざまで苦悩する男。社会に溶け込めず、動物に親愛を寄せる不器用な男を描いた「彼の生き方」や、使節団でローマに派遣された武士の悲嘆すさまじい「侍」、あるいはイエスの足取りを追った「イエスの生涯」「キリストの誕生」「死海のほとり」など。小禽に自分の心象を仮託する面は、転生を信じてインドへ旅立った者たちを扱った名作「深い河」にも登場した覚えがあります。

この頃、私は派手派手しいドラマや劇的なバトルがあるものではなく。
心の安寧を求めて、宗教家のエッセイやら精神修養としての文学を求めたくなったのですが。本作はまさにそんな何を読んでも気持ちが晴れない自分に、光りをともしてくれた一冊だったのでした。まさに出会うべくして出会った一冊だったのです。ただし、病院内の描写や死の不安、未来への絶望などが真に迫っているだけに、今後入院することがあったにしても絶対に持ち込みたくはないのですけれど。

ところで、この物語を読んであらためて思ったのは。
病院で看護師さんはなぜ素敵に見えるかということでしょう。自分が餌を待つ籠の中の鳥のような生活を強いられていて、その外側で生き生きと立ち働く彼女たちは、たしかに生命力と温かみに溢れた天使に思えるもので。これは事実、私も感じたものでした。実際は医療者はかなりの苦労が絶えないのでしょうけれどもね。

(2023/10/08)


















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