陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

田舎ライフを満喫できているのか、いないのか

2022-10-30 | 自然・暮らし・天候・行事

高校時代の頃、図書館でヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』というタイトル(だった気がする)の本を読み、土いじりは苦手なのに、自然の中で暮らすことに憧れをもったものでした。ヘンリー・ディヴィッド・ソローの『ウォールデン/森の生活』の文庫本も大学時代に買ったのに、ついに読まないまま売り払い。そして、薪ストーブを自作したり、草木で染め物をしたり、自然素材でなにかをつくったという人の本を読んでは、田舎熱が沸騰したりもします。一時的なイベント消費としてのキャンパーになりたいわけじゃなくて、たくましく田舎で暮らせるのだという実感を得たい。ブログでも田舎の写真があるところばかり観てしまうのもそのため。

けれども、現実は厳しいわけで。
実際に空き家を受け継いでしまってからは、それはもう困ったことの連続でした。庭に蛇が出る、蜘蛛が巣を張る、車庫の裏でツバメが子づくりをはじめる。庭木はジャングルみたいになっていて、コンクリの上まで流れた土で松が育っていたりする。古い納屋には知らぬ存ぜぬな荷物がもりだくさんで、壊すのにもひと苦労。そして解体したはよいが、ああ、実はあれは捨てなければよかったのに、と思い返すこともしばしば。見晴らしのよくなった庭に新しく果樹を植えたはいいが、世話をする暇がなくなってしまう。田舎の暮らしは重い。けれども空は美しい。

家族が小さくなったのに、家だけが広くなった。
田舎ではよくあることです。買い物が不便だから車が必要で、近所づきあいは昔ほどうるさくはないが、ゴミ出しのルールはめんどくさく、隣家とのイザコザもないわけじゃない。自治会が機能しているから、しっかりと会費なども徴収されてしまう。さすがに地域の寄合への参加は控えているけれども。

空き家にかかずらわってばかりが嫌で、個人事業上の収入では乏しくて、フルタイム正社員との兼業に戻り、平日は地方都市の開けた市街地を、自宅と職場で往復。ただそれだけの毎日で、土日に経理作業をこなし、家事も片付け、そして週休二日あっても、かならず一日はこの空き家の管理のためと、個人事業上の契約交渉などでつぶれてしまう。そんなグッタリな生活がつづいて、仕事でもいろいろあって。

疲弊したので、ストレス発散がてらに空き畑の草刈りを早めに、夏終わりから行うことに。
それがこの十月末でやっと完成し、安堵しています。除草剤をつかわずに生えっぱなしにさせてみた土地。水が張って歩きにくい日もあり泥だらけになりつつも、絡まっていたつる草を引っ張れば雑草類は思ったほどばっさり抜けていったりもする。例年の極端に高く固すぎる萱はさほど繁殖してはいませんでした。一部は除草シートを敷いていて、そのうえにもはびこってはいたけれども、根が土に直に食い込んでいない分、剥がしやすかったですね。でも、雑草によっては、かなりトゲトゲしくなっていて、旺盛に栄養を吸い取ろうとするバケモノみたいで。

草を刈る作業はかなりの体力を奪われます。
農家さんが腰が曲がってしまうのも頷けるほど、長時間しゃがみこむので、背中が痛くなります。鎌も使い込み過ぎて柄がぐらついていました。

けれども、その作業を通じて見えてくるものがあります。
広い面積を片付けていくことの達成感。小動物とのふれあい。蛙やミミズ、沢蟹、バッタ、カマキリなど。うっかり潰さないように逃がしてあげます。植生によっては土の状態が変わってしまう。陽当たりのいいところは高く固く乾燥したものが生え、湿った日陰は横に広がる膝丈までの青々しい草が繁殖しやすい。

土日の一日だけこの作業をする習慣にして数箇月。
昨年からしたらかなり痩せました。以前は日課にしていた朝のウォーキングも不要です。作業できるのはせいぜい3,4時間ぐらい。それで数千歩歩くぐらいの運動はするでしょう。作業が終わったら、シャワーを浴びて、作業着を洗濯して、そして一時間ぐらいは空き家に保管した本を読む。もしくは近隣の書店やスーパーに買い出しに行ってごほうびを自分に与える。いつしか、それが会社員として働く自分の、休日の楽しみにさえなっていました。

生ごみを庭に植えているので、ゴミ袋が重くなく、室内ににおいも残らなくなりました。
前は、こんな汚れ仕事はぜったいにやりたくなかったものだけれども。いつしか、それが自分のあたりまえになってしまい。むしろ、作業が完了してしまったあとでは物足りなくなったぐらいです。とはいえ、寒くなる前に完了できてよかったのですが。十年ぐらいまえ、最初は茨だらけで足の踏み場もなく山のようだった空き畑も、少しずつ手入れすることで扱いやすくなってきたようです。手伝ってくれた同居人にも感謝です。

太陽光発電の外灯を増やし、夜も明るくしてみたら、空き家もずいぶん居心地がよくなりました。
やはり家は人が住みなじんでこそ、きれいになるものです。連休日があったら、丸一日泊りがけで過ごしたいぐらいなのですが、なにぶん、現住まいのほうが生活の便が良すぎるので。それでも、現実に嫌気がして逃げ込みたいと思う場所は、もはやここしかない!と思うまでになりました。

ひとつ処に住んでいたり、働いていれば、いつも同じ人と接触します。
そのため軋轢は生まれやすい。けれども、いつか環境は変わっていくもの。苦手だなと思っていた人がいつしか居なくなってしまい、小うるさい人だったけれどもいてくれたら境界線上の草刈りをしてくれたのに、と懐かしんでしまうこともありました。この社会に生きて誰かを顔合わせすれば、なにがしか、そのひとのなかに自分が残っていく。いい意味でも悪い意味でも。いつか自分がいなくなったときに、あの人はあんな人だったと言われるかもしれない。ごみを拾うとか、余分に隣の分まで刈るとか、ちいさな親切を誰かが褒めてくれるわけでもないが、やっておくことで自分が気分のいい週末を過ごせるのならばそれでよいのではないか。

詩人の石川啄木は、蟹とたわむれているうちに、海のなかへ吸い寄せられている自分を押しとどめることができたと、詩作に残しています。
ちょこまかと動く、その生きものを踏み潰すほど、詩人のこころは壊れてはいなかった。いきなりグロテスクですこし面妖なすがたが通りかかったがため、肝を冷やして正気に戻ったのでしょう。私も乱暴に草を刈り散らしているその腕を、ぴょんと遮った蛙にとどめられたことがなんどもあります。乾いたザリガニの抜け殻が散乱し微生物がはびこる土は、生と死とが隣り合わせの場所です。そして、雑に生えひろがる草にも生き延びる意思があり、斬っても一週間後にはすぐ再生してしまう草の生命力に、なんとなく勇気をもらえる気にもなるのです。私の邪気を祓うために、このめんどくさい野草ははびこってきたのではないだろうか、とさえ思います。

そんな私は来年の除草作業を楽にするのはどうすべきか検討中ですが。
固める土で草をなくしすぎてしまうのもどうか、と考えてしまうのでした。ほんとうは家庭菜園ぽく作付けしたいのだけれども、育てる余裕がないわけで。一年のサイクルで土地をうまく使って食べものをつくれる農家さんはほんとうにすごいのだと感心しきりです。

ところで、今月は懸念材料だった個人事業上の、行政機関への届出も無事済ませ、年末の決算に向けてそろそろ準備しておきたいところ。勤め先は繁忙期に入り、諸事情で休むひともいての人手不足、労務管理者の私も神経を使います。誰ひとり欠けることのないように新年を迎えられたらと願わずにいられません。休みなのに気が休まった気がせず、連休日が待ち遠しい今日この頃でありました。自分の性格の問題なのでしょうね、きっと。

(2022/10/30)



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