顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳(大洗町)

2022年12月21日 | 歴史散歩

幕末水戸藩の元治甲子の乱で攻防の舞台になった磯浜海防陣屋は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が領国の近海に姿を現した外国船に対処するために天保5年(1834)に設けました。

天保13年(1842)には与力2騎、同心20人、足軽10人が配置され、装備は大砲百匁玉筒を改めて五百匁玉筒とし、車仕掛けのもの三丁、玉は一丁に付20発計60発を常備したという記録が残っています。


陣屋は海を臨む標高約23m比高約15mの丘陵の先端に位置し、高さ約1.5m、東西約20m、南北約45mの平坦な土壇状の遺構が残っています。ここに望楼や砲台が置かれていたと思われます。


この土壇は、もともとあった「日下ヶ塚古墳」を崩した土で盛り上げたとされています。4世紀前半の築造とされる前方後円墳で全長103.5m、眼前に鹿島灘、背後に那珂川、涸沼川を控え、水上交通を掌握した大きな権力者の墳墓とされています。
もちろん当時の情勢では貴重な古墳の遺跡保存などという考えはなかったことでしょう。


前方後円墳の「前方」の部分が半分以上削り取られているのがわかります。


平成24年に行われた範囲確認調査の図面が案内板に書かれていました。方形の半分が消えています。


なおこの一帯は、日下ヶ塚古墳の他に古墳時代前期の約1600~1750年前の古墳が5基発見され、令和2年3月に「磯浜古墳群」として国指定史跡に指定されました。

この海防陣屋周辺が舞台になった元治甲子の乱(天狗党の乱)とは…。
尊王攘夷を掲げて旗揚げした水戸藩内の「天狗党」と門閥派の「諸生党」の争乱を治めるために、元治元年(1864)8月4日、水戸藩10代藩主徳川慶篤は鎮圧のため、名代として御連枝宍戸藩主の松平頼徳を水戸に向かわせますが、途中で榊原新左衛門率いる鎮派(大発勢)、武田耕雲斎の激派などが加わり総勢3000人を超えた一行は、市川三左衛門率いる「諸生党」の勢力下に置かれた水戸城への入城を阻まれます。

そこで大発勢一行は薬王院から長福寺を経て、物資の豊かな那珂湊を目指しますが那珂川の渡河船が対岸に引き上げられており、願入寺と海防陣屋からの砲撃に足止めされますが、8月12日何とか涸沼川を渡河し、海防陣屋を占拠し松平頼徳の本陣とします。海防陣屋を撤退した守備兵などは願入寺に退去しますが、追討の大発勢の前に那珂湊へ退却、この戦いで願入寺は山門を残して燃えてしまいました。

翌13日には、那珂川を挟んで那珂湊の日和山台場からは諸生党側が対岸の岩船山方面に砲撃し、これに応じて大発勢も祝町下の向洲台場から応戦しました。これらの台場は斉昭が外国船の襲来に備えて築いたものですが、皮肉なことに使われたのは、この藩内抗争が最初で最後になってしまいました。

翌14日には、潮来勢といわれる藤田小四郎らの天狗党の精兵500余人が松平頼徳からの要請で合流、勢力を増した大発勢は8月15日、那珂川を渡河しようと攻撃を開始し、砲撃や銃撃を掻い潜って川を渡り、華蔵院や反射炉の敵を破り、諸生党勢は湊御殿に火を放ち水戸へと敗走し、頼徳は焼けた御殿の跡に本陣を設けました。

一方、幕府の命で出兵した近隣諸藩の兵を主力とした幕軍は勢いを盛り返し、那珂川南岸の総攻撃を磯浜村などへ始めました。9月4日には長福寺を本陣にして、大砲を据え付けて磯浜海防陣屋などへも砲撃し、22日には磯浜海防陣屋、西福寺や民家の大部分が焼失しました。
磯浜付近に布陣していた潮来勢などは那珂湊に後退、民家の大半は消失してこの一帯での戦闘は終結し、幕軍が進駐してきました。


さて、その後ですが………9月26日に謀略により幕府軍陣営に誘い出された松平頼徳は、10月5日には切腹させられてしまします。10月23日の戦いでは鎮派の榊原新左衛門ら1,100余名が幕軍に投降し、武田耕雲斎、藤田小四郎、山国兵部ら天狗党強硬派約1000名は包囲された那珂湊を脱出し、当時京都に滞在していた一橋慶喜公を頼って西上の途に就きますが、頼みの慶喜が追討軍を率いていることを聞き12月20日加賀藩に降伏、翌年352人が斬首という近世史上稀にみる悲惨な結末になりました。



海防陣屋から冬の大洗港を見下ろすと、北海道航路のフェリーが2隻泊まっていました。
水戸藩は反射炉を造って大砲の鋳造をした数少ない藩ですが、技術では欧米諸国との差は歴然、実際外国船と砲撃戦になったら打ちのめされていたのは長州、薩摩の例を見ても明らかでした。


古墳の後円部分には散り際の紅葉にツバキ(椿)が寄り添っていました。
外国船に備えたこの砲台がただ一度使われたのは、藩内の仲間同士の戦いだったという、悲しくも哀れな出来事として伝わっています。

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