泣けた 泣けた こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘(こ)と別れた 哀しさに 山のかけすも 鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ
わが世代から前の方々にはお馴染みの「別れの一本杉」は、昭和30年(1955)春日八郎の唄で大ヒットしました。昭和歌謡不朽の名曲とされるこの曲は、数々のヒット曲で知られる船村徹が作曲し、作詞は高野公男、この早逝した男との深い友情が後々まで語られています。
かくいう仙人も大好きな曲の一つで、酒で羞恥心を薄めてよくマイクを握ったものでした。この高野公男は仙人の棲み処から30キロくらいの笠間市出身なので、その顕彰碑や墓所を訪ねてみました。
生誕地の笠間市大郷戸は県境の地で、北西約7キロ先から栃木県益子町になります。栃木県出身の船村徹とは、訛りの残る北関東の者同士の親しさもあり意気投合したのでしょうか。
集落の10数基の墓が並ぶ一番奥に高野公男の墓がありました。
一生を簡潔に述べた高野公男(本名 吉郎)の譜です。
さて、東洋音楽学校(現 東京音楽大学)の在学中に知り合った二人は、同じ北関東出身で気が合い高野の詞に船村が曲を付けた多くの曲は採用されず、苦しい生活が何年も続きます。
たまたま、三橋美智也の「君は海鳥渡り鳥」のB面に起用された春日八郎の曲を選んでいるときに、お蔵入りの作品の中から「泣けたっけ」という曲が目にとまり、「別れの一本杉」と題名をかえて出したところ昭和30年の大ヒットになりました。
しかし喜びはつかの間、高野は結核にかかり入院してしまいます。船村は作詞高野という条件付きで仕事を受けて治療費を稼ぎ病院にも通いましたが、翌年9月8日に26年の短い生涯を閉じてしまいます。枕元に残された3冊の作詞ノートを高野の母から託された船村は、その後も二人の作品として世に出し多くの曲がレコード化されました。
7年間の短い二人の交流ですが、船村は高野を生涯の友として、毎年の命日の墓参を欠かさず、また節目の年には追悼コンサートを行ってきました。そして平成28年9月、心臓病大手術後の船村は最後の供養として高野公男没後60年祭「友情無限」コンサートを水戸で開催しますが、その5か月後には友のもとに旅立っていきました。
船村徹の筆による「友よ」と呼び掛けている哀悼の詩です。暗い墓地の中、男の友情が切々と伝わり涙を誘います。
大郷戸の集落入り口には、大きなお地蔵さんと「別れの一本杉」の歌碑があります。
船村徹の直筆でしょうか「公男の歌魂よ、とこしえに ふる里の山海にねむる」 平成十五年秋 船村徹と彫られていました。
傍らにはどなたかが置いたのか、杉の木の根元に小さな地蔵さんも置かれていました。
冒頭の写真はこの「詩人高野公男之像」です。日本三大稲荷といわれる笠間稲荷神社の西側に建っていました。「友情無限」高野公男没後50年祭記念 平成18年9月8日 船村徹建立 と記されていました。
笠間陶芸の森公園の北西にある小高い丘にも、高野公男顕彰碑が建っています。
ここ笠間は石の町で知られ、採掘される花崗岩「稲田石」は、国会議事堂などにも使われたブランド石です。その大きな花崗岩の中に直筆で書かれた「別れの一本杉」の歌詞と船村徹手書きの楽譜がはめ込まれていました。
高野公男の譜と、ここにも船村徹の「友よ…」の哀悼の詩がありました。高野公男作詞、作曲船村徹の名曲「男の友情」…その冒頭の語りの部分にこの詩が入っています。
訪ね歩いた碑の周りは二人の友情を称えるように新緑が輝き、野茨(ノイバラ)も短い花期を惜しむように花を咲かせていました。世に出た歌に感じる独特の哀愁や郷愁と同じように、その作曲家の人柄が彷彿する友情のエピソードでした。
コメントありがとうございます。昭和は遠くなりにけり…ですが、
哀愁と郷愁を感じるこの名曲が、こんな熱い友情から生まれたと
思うとさらに胸が打たれるのは、昭和生まれのわれらの特権かも
しれないですね。どうぞよろしくお願いいたします。
船村徹の「友よ~」と高野公男に呼びかける詩には胸があつく成りました。
仙人さん、美しい心に触れさせて頂きました。有難う御座います。
ネット情報でこの場所を知り、そこから他の場所も調べて、何とか無事に
到達できました。ついつい「泣けた♪泣けた~♫」と歌いながらドライブして
来ました。コメントありがとうございます。
所に行ったことがあります。
https://blog.goo.ne.jp/classic555/s/%E5%88%A5%E3%82%8C%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%9C%AC%E6%9D%89
また行って見ようかなと思いました。