散歩に出たついでに、押切(おしきり)刑場跡に立ち寄ってみました。
刑場跡は芦川にかかる青洲橋を渡った笛吹川との間にある「富士川防災公園」内にあります。
刑場跡といっても今は説明板と石碑、それに割れて寝かせてある供養塔があるだけ、とてもここがその昔、死刑囚の首を斬ったところだとは想像できません。
江戸時代、今の山梨県である甲斐の国には刑場が二か所あったのだそうです。そのうちのひとつがここ押切の刑場(名前からして恐ろしい)。
市川大門の町の中に監獄のようなところがあって、処刑される人間はこの場所まで連れてこられたのだとか。
現在の大きな通りではなく、古地図に残っている「押切のみち」を通ってきたと言われています。
じつはその「押切のみち」、我が家の横を通っていて、私自身は何も感じませんが、霊感の強い方には引き立てられてゆく罪人の姿が見える、という話を聞いたことがあります。本当かどうかはわかりませんが。
厳密にいうとこの場所は、何十年か前に河川の改修があって、芦川の流れが変えられてしまい、今の場所に移されたのです。
小学生の時に訪れたことを記憶していますが、確かにここではありませんでした。
その頃にはまだ供養塔が割れずに立っていて、それを皆でスケッチした覚えがあります。
供養塔の側面には「安政三年十一月」の文字が読み取れます。
安政三年といえば1856年、今から160年近く前のこと。
有名な「安政の大獄」が始まる直前の時期ですね。
歴史に興味のある方に、説明板の写真を付けておきます(ネタバレもいいとこですが)。
刑場跡は芦川にかかる青洲橋を渡った笛吹川との間にある「富士川防災公園」内にあります。
刑場跡といっても今は説明板と石碑、それに割れて寝かせてある供養塔があるだけ、とてもここがその昔、死刑囚の首を斬ったところだとは想像できません。
江戸時代、今の山梨県である甲斐の国には刑場が二か所あったのだそうです。そのうちのひとつがここ押切の刑場(名前からして恐ろしい)。
市川大門の町の中に監獄のようなところがあって、処刑される人間はこの場所まで連れてこられたのだとか。
現在の大きな通りではなく、古地図に残っている「押切のみち」を通ってきたと言われています。
じつはその「押切のみち」、我が家の横を通っていて、私自身は何も感じませんが、霊感の強い方には引き立てられてゆく罪人の姿が見える、という話を聞いたことがあります。本当かどうかはわかりませんが。
厳密にいうとこの場所は、何十年か前に河川の改修があって、芦川の流れが変えられてしまい、今の場所に移されたのです。
小学生の時に訪れたことを記憶していますが、確かにここではありませんでした。
その頃にはまだ供養塔が割れずに立っていて、それを皆でスケッチした覚えがあります。
供養塔の側面には「安政三年十一月」の文字が読み取れます。
安政三年といえば1856年、今から160年近く前のこと。
有名な「安政の大獄」が始まる直前の時期ですね。
歴史に興味のある方に、説明板の写真を付けておきます(ネタバレもいいとこですが)。