日本近代文学の森へ (131) 志賀直哉『暗夜行路』 18 本の値段、そして遊郭への道 「前篇第一 四」その3
2019.10.12
頼んでおいた古本屋が来た。「総てで五十円ほどになった。」とある。
この50円という金額に驚く。昔の1円って今でいうとどのくらいにあたるのかは、ネットで調べればだいたい分かる。それによれば、まあ、だいたい「明治時代の1円は現在の2万円」となるらしい。明治30年頃の小学校の教員やお巡りさんの月給が8〜9円だそうだ。この部分の話はだいたい大正2年ごろのことなので、ちょっとズレるけれども、単純に計算して、50円という金額は、小学校の教員やお巡りさんの月給の約6倍ということになる。ちなみに、明治20年ごろの吉原遊郭での最高級遊女の「揚げ代」は3円だという。「1円=2万円」だとすると、6万円。まあ、そんなとこか。つまりは、小学校の先生や巡査は、逆立ちしたって吉原の高級な遊女とは遊べないということだ。まあ、それは現代だって、小学校の先生や巡査は。銀座の高級クラブでは遊べないわけで、遊びの相場というのは時代を超えて変わらないのかもしれない。
で、「古本を売った金」が100万円となる。すごい金額だ。それを「総てで五十円ほどになった。」とさらりと書くんだからびっくりする。
古本の他に、謙作は、「母方の祖父の遺物(かたみ)として貰った法外に大きな両蓋の銀時計と、それに附いている不細工な金鎖」を古本屋に見せる。後で金額を知らせるといって古本屋は「大きな風呂敷包を背負って」帰っていく。
銀時計と金鎖がいったいいくらになったのか、売ったのかやめたのか、書かれていないが、とにかく古本は50円で売ったらしい。しかも、その古本を古本屋は「背負って」帰ったらしい。背負えるのだから、古本の量はたかがしれている。それなのに100万円!
今から30年以上も前の話だが、やたらと買い集めた個人全集を引っ越しのついでにまとめて神田の古書店に売ったことがある。その時は、ワゴン車に段ボールで10個ほど(数は正確には覚えてない)だったが、確か50万円ほどだったはずだ。それがたぶん古書の値段がピークに近く高かったころだ。当時「平野謙全集」全12巻が、20万を超える値段を付けていたころだ。ちなみに今では2万円でおつりがくる。
今ならワゴン車一杯の本を売っても、銀座のクラブで遊べないわけで、遊びの相場は変わらねど、古書の相場は暴落したというわけだ。そういえば、この前、『志賀直哉全集全16巻』を3500円で買ったばかり。これをもし売ろうとしてもたぶん100円にもならない。つまりはバスにも乗れない。
銀座のクラブはどうでもいいが、「本を売る」ということは、明治や大正の時代には、それだけで、借金を返せたり、吉原で遊んだりする為の資金と十分になったのだということは覚えておきたいものだ。
朝から降っていた雨は、古本屋が帰っていったあとすっかり上がる。
夕方になって雨はすっかり上がった。
彼は風呂へ入って、さばさばした気持になって家を出た。美しく澄み透った空が見上げられた。強雨(ごうう)に洗われて、小砂利の出ている往来には、それでも濡れた雨傘を下げた人々が歩いていた。
彼は知っている雑誌屋に寄って、約束通り西緑へ電話をかけた。その後で石本へかけた。
「今用事の客があるんだが、もう帰るだろうと思う。早かったら是非行く」こういった。なお、石本は大門を入ってどれほど行くかとか、何方側(どっちがわ)かとか、西緑の字まで訊いて、電話を断(き)った。
三の輪まで電車で行って、其処から暗い士手道を右手に灯りのついた廓の家々を見ながら、彼は用事に急ぐ人ででもあるように、さっさと歩いて行った。山谷の方から来る人々と、道哲(どうてつ)から土手へ入って来た人々と、今謙作が来た三の輪からの人々とが、明かるい日本堤(にほんづつみ)署の前で落合うと、一つになって敷石路をぞろぞろと廓の中へ流れ込んで行く。彼もその一人だった。
大門を入ると路は急に悪くなった。彼は立ち並んだ引手茶屋の前を縁に近く、泥濘(ぬかるみ)をよけながら、一軒一軒と伝って西緑の前まで来た。
雨上がりの街並みを、謙作が吉原遊郭へと歩いていく様が実に見事に描かれていてうっとりする。「三の輪まで電車で行って」とあるが、まだ開業したばかりの今の「荒川線」のことだろう。
「三の輪」「山谷」「道哲」「日本堤」と続く地名をたどっていけば、そこに江戸からつづく歓楽街の姿が幻のように浮かび上がる。「日本国語大辞典」の説明をひいておこう。
【三の輪(三ノ輪)】
東京都台東区北部の地名。江戸時代は奥州街道の裏街道と日本堤の土手道との交差点にあたり、吉原の近くにあるところから遊女屋の寮などが置かれた。また、土器の産地として知られていた。目黄不動(永久寺)がある。三輪。箕輪。
【山谷】
東京都台東区北東部の旧地名。現在の日本堤・清川・東浅草の一帯にあたる。明暦三年(一六五七)江戸元吉原が火災にあい、代地の浅草日本堤(千束四丁目)に移るまでの間、この地で営業を許されたところから、移転後の新吉原遊郭をさしていうこともある。
【道哲】
江戸時代、浅草新鳥越一丁目(台東区浅草七丁目)日本堤上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五~五八)の頃、道哲という道心者が庵を結んだところからこの名があるという。吉原の遊女の投込寺として著名。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。土手の道哲ともいう。
【日本堤】
江戸、浅草聖天町(台東区浅草七丁目)から下谷箕輪(台東区三ノ輪)につづく山谷堀の土手。荒川治水工事の一つとして元和六年(一六二〇)につくられ、新吉原通いの道として利用された。吉原土手。土手八丁。土手。