詩歌の森へ (6) 北原白秋・手にとれば
2018.5.2
手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
「桐の花」所収
室生犀星と萩原朔太郎を結びつけたのは、北原白秋だった。白秋の主宰する雑誌『朱欒(ざんぼあ)』に二人とも寄稿していたのだった。だから、二人は、その作品を通じて知り合ったわけで、お互いがどんな顔をしたどんな人間なのかまるで知らず、それこそ「熱烈」に慕いあい、恋文のような手紙を交わしたのだったが、金沢から前橋にやってきた犀星を見たとき、朔太郎は犀星のみすぼらしい服装と容貌の醜さに驚愕した。犀星もまた朔太郎のあまりにキザな優男(やさおとこ)ぶりに驚愕した。
犀星は、幼いころの写真はほとんど残っていないが、その醜男ゆえにさまざまなイジメを受けただろうし、大人になってからも、容貌へのコンプレックスは大きなものだったはずだ。それに比べて、朔太郎ときたら、まるで絵に描いたような美男子のうえに(二人の妹も、前橋でも評判の美人だった)、金持ちだからオシャレだし、その上、マンドリンを弾いたり、マジックに凝ったりするという趣味人。犀星は、マジメだから、朔太郎のマジック趣味を、人を騙すなんてけしからんといって嫌ったという。
けれども、文学上の趣味では、二人はすっかり意気投合し、親密さを増していき、朔太郎が死ぬまでその友情は続いたのだった。
この二人に決定的な影響を与えたのが白秋だ。この歌にみえる、感傷的で、するどい感覚は、犀星、朔太郎と深く通じるものがあるのは一目瞭然である。
白秋は、それこそ大天才で、短歌、詩、童謡、随想など、どの分野においても、膨大な作品を残している。言葉の感覚的な使いかたで、白秋を凌ぐ詩人はまずいないといっていい。白秋は、言葉の内側に入りこみ、言葉の魅力を吸い尽くし、言葉を内側から花開かせる。その魔術に、ぼくは心底しびれてきた。
歌集『桐の花』は、白秋の最初の歌集で、出版されたとき白秋は29歳。まさに青春の歌集だ。多くの素晴らしい歌が入っているが、この歌が昔から好きだ。
「桐の反射の薄青き」というイメージの透明さ! 桐の花は、初夏の花。ここでは、花ではなくて葉が主役だが、当然若葉だ。その若葉に初夏の光りが反射して、木陰に薄青い光りが降り注ぐ。「反射」といっているけれど、若葉を透過してきた光もあるだろう。あるいは、若葉の隙間からさし込む光りもある。さまざまな光りが乱反射しながら、空間を埋める。
その光に薄青く染まる新聞紙。時代的な背景をいえば、当時は、まだ新聞を読むということはそれほど一般的なことではなかった。まして、公園の木陰で(この歌には「公園のひととき」との但し書きがある)、新聞を広げるという行為は、とてもモダンな感じがしたらしい。
このモダン、あるいはハイカラな感じこそ、白秋の持ち味だ。そうした面では、朔太郎と共通点がある。犀星にはそれはまったくない。犀星はトコトン田舎者で、都会的洗練とは縁がない。それだけに、朔太郎、白秋が、逆立ちしても手に入れることのできない自然観を身に染み込ませていたのだ。
その木の下で広げた新聞紙も、薄青く染まる。この新聞紙も、届いたばかりの印刷も匂う新聞紙でなければならない。ここにあるのは、感覚の喜びだけだ。
最後に「泣かまほしけれ」は、「泣きたくなる」というほどの意味。どうして泣きたくなるのかを問うのはよそう。短歌の授業だと、すぐにそういう質問になる。けれども、理由はないのだ。あるのなら、こんな表現にはならない。
あんまり美しい情景の中では、人は言葉を失う。そのかわりに、涙が出てくる。もちろん、ぼくみたいなすれっからしは、そんな簡単に涙なんか出ないけれど、若くて感受性がゆたかな時代には、涙が出ることだってあるのだ。