日本近代文学の森へ (35) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その4
2018.8.13
義男は、東京へ置いてけぼりにしてきたお鳥のことが忘れられない。お鳥からは、何通も手紙が来て、お金を送ってほしいと訴える。お金がないので、蚊帳も買えず、毎晩蚊に噛まれて寝られませんなどという文言もある。
義男は、有馬夫妻に、これまでのお鳥とのいきさつを細かく語るが、夫の勇にも、妻のお綱にも、同情というものがない。
「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、お綱は云ふ。
「つまり、女といふ奴ア薄情なもの、さ」と、勇は斷定してしまふ。
然し義雄が醉つてゐながらも目の前にあり/\と思ひ浮べられるのは、出發の際お鳥が上野まで見送つて來て、いよ/\汽車に乘り込むといふ場合に、プラトフオムで、人々とかけ隔つてゐるすきを見て、
「わたしは、もう、一生あんたばかりを愛します。親類もなく、友達もないと同樣寂しく待つてゐますから、早く歸つて來て頂戴、ね」と、その聲は顫へてゐながらも、いつにないしツかりした、はツきりした、積極的に情の籠つた言葉を發したことだ。
それから、また自分が二等客車の窓から、これが暫くの別れだといふ意味で、手をさし出すと、お鳥はじろ/\とあたりを見まはしてからまたその手をつき出し、義雄の思ふ存分に握らせたことを思ひ出す。
そんなことまでは義雄も語らなかつたが、
「あれまで熱心になつてゐたものが、僕の云つてやつた難局を少しでも辛抱し切れないとは不埒極まる、さ」と、渠は勇に猪口を勸めながら云ふ。
「然し」と、勇はその猪口を受けながら、「君が女を持たなければならないとすりやア、この難局を切り拔けてからの方が、つまり、いいぢやアないか? 難局を控へてゐながら、女に支送りしようなどと考へるのが贅澤、さ。」
「そりやア、僕もさう決心してゐる、さ。ただ僕がまだ未練があるのだ。──考へると、可愛さうでもある。」義雄は風呂敷包みの中からお鳥のよこした手紙の一と束を取り出した。
夫婦でも、人前で抱き合ったりすると、警察にとがめられる時代だ。夫婦でもないものが、たとえホームの別れでも、手を握り合うことすら人目をはばからねばならないというのは切ない。
勇は、実直な教師だから(教師だからといって実直とはかぎらないけど)、この「難局」と「女」は両立しないから、「難局」を乗り切ったら「女」に仕送りすれないすればいいと、常識的なことを言うわけだし、お綱にいたっては、「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、「そんな女」と「奥さん」の位置関係を崩そうとしない。「そんな女」がどんな女で、「奥さん」がどんな女かということに対する想像力も、したがって同情もないのである。
お鳥から来た何通もの手紙を束にして義男は持っていて、そのこと自体が、義男のお鳥にたいする「情愛」を証している。その手紙を有馬夫婦に読ませたか、あるいは読んできかせたすると、夫妻はそれを義男の「のろけ」ととって牛鍋を奢れとからかったりする始末なので、義男はズバリと聞いてみるのだ。
「僕ア聽きたいんだ」と、やがて渠(かれ)は口を開き、「全體、あなたがたはこの手紙でどう思ひます?」
「どう思ふとは?」
「女に就いて、さ──?」
「そりやア、あなた」と、お綱が引き取つて、「とても」と北海道流の副詞で力づけ、「お氣の毒な方だとお察し申します、わ。」
「君が棄てるのも可愛さうだが」と、勇は猪口を取つてまた義雄にさし、お綱に酌をまかせながら、「一緒になつてゐるのも亦可愛さうだよ。」「ところが」と、義雄は受けた猪口を下に置いて、「どツちにしても、可愛さうでも何でもないのだ。──全體、年の行かない割合に、喰へない女だ。覺悟をしてかかれば、アヒサンの樣な毒藥を不斷隱して用意してゐたくらゐだから、どんなことでも平氣でやれる奴、さ。今の手紙も、全く信じて讀めば、少しも疑はれるやうなところがない代り、ちよツとでも皮肉に見りやア、後ろにあやつり手がゐるとも見える。少しでも金を取つて逃げようといふ手段だらう──加集といふ男がまだ關係してゐるとすりやア、口錢(こうせん)取りのやり繰り手、話上手な策略家だから、ねえ。」
「逃げてしまへば、もう、責任はその男に歸するのだから、なほ更ら結構ぢやアないか?」勇が思ひ切れと云はないばかりに云ふのを、義雄は心で情けなく思ひながら、──否(いや)、寧ろ自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念しながら、──
「そりやア、それツ切り、いくら手紙で事情を云つてやつても、向うからの便りがないのだから、僕もさツぱりして、思ひ殘りがなくなつたわけだが、どうせ僕には女が入用だから、矢ツ張り氣心の分つたものをつづけてゐる方がいいから、ねえ。」
「ですから、奧さんのところへ御歸りになつたら──」と、お綱が云ふ。
「いや、女房のところへは、失敗を囘復した後にも歸りません。」
かう云ふ話のうちに酒は終つて、飯になつた。
義雄は肉にカイベツのあしらひを、北海道の涼しい夜風と同樣、初めての如く珍らしく思つたと同時に、香の物代りに出てゐたカイベツ並に枝豆の糠味噌漬けを甘(うま)いと感じた。
どこまでいっても平行線だ。義男のお鳥に対する複雑でねじくれ曲がった、それでいてどこまでも純情な「愛」は、夫婦の(あるいは人間の)真の愛情の追究を諦めてしまった夫婦にはまったく理解されない。この「すれ違い」は、ほんとうによく描けていて、心にしみる。
夫婦のことは誰にも分からないというけれど、ほんとうに、人間ひとりが何を考え、何を感じているかなんて、相手が妻だろうと夫だろうと、子どもだろうと、親友だろうと、何だろうと、決して分かりはしないのだということが実感として感じられる。だからこそ、自分はなんでも分かったふうな気になって、他人さまのあれこれに、「利いた風な口」をきくのはやめたほうがいいのだ。
人間というものは、お互いに心の底から理解しあうことなどできないのだという「絶望」が、実は人間関係の基本であろう。そこに深く絶望しているものほど、他人に対してほんとうの意味で「やさしく」なれる。他者に対する「気遣い」というものは、そこからしか生まれないのだ。
それにしても、珍しく義男(泡鳴)は、気弱になっていて、お鳥への思いを、勇がぜんぜん分かってくれないことを「情けなく」思う。そして、「自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念」する。この家にもいないし、この世界にもいない。これが義男の「絶望」だ。けれども、その義男にとって、格別な感動を与えているのが、北海道の自然であり、食べ物だったという、この最後の部分は、とてもいい。
そういえば、この「とても」という副詞が「北海道流」だという記述は面白い。「とても」という言葉は、「とても私にはそんな大それたことはできません。」などというように、オシマイに否定表現を伴って使うのが本来だったが、いつからか、「とてもかわいそう」などというようになった。その起源が、この記述によれば、北海道にあったということになる。というか、義男が「北海道流」だと感じたわけで、興味深い。
またここに出て来る「カイベツ」というのは、「キャベツ」のことで、当時は、まだ英語の読みが北海道では「キャベツ」として定着していなかったということらしい。