Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

一日一書 1473 寒蟬鳴(七十二候)

2018-08-15 19:36:55 | 一日一書

 

寒蟬鳴(ひぐらしなく)

 

七十二候

 

8/12〜8/16頃

 

ハガキ

 

 

ヒグラシは、俳句では秋の季語となっているので

秋に鳴くセミのように思われがちですが

実際には、6月下旬から鳴き始めます。

つまり、関東では、アブラゼミやミンミンゼミより早く鳴き始めるのです。

 

今年も、確か、7月にこの声を聞いています。

しかし、8月になって、鳴かなくなってきました。

9月中旬ぐらいまでは鳴いているそうなので

いつ聞けるか楽しみです。

 

アブラゼミやミンミンゼミとくらべて

涼しげですからね。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学の森へ (35) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その4

2018-08-13 12:15:03 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (35) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その4

2018.8.13


 

 義男は、東京へ置いてけぼりにしてきたお鳥のことが忘れられない。お鳥からは、何通も手紙が来て、お金を送ってほしいと訴える。お金がないので、蚊帳も買えず、毎晩蚊に噛まれて寝られませんなどという文言もある。

 義男は、有馬夫妻に、これまでのお鳥とのいきさつを細かく語るが、夫の勇にも、妻のお綱にも、同情というものがない。


「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、お綱は云ふ。
「つまり、女といふ奴ア薄情なもの、さ」と、勇は斷定してしまふ。
 然し義雄が醉つてゐながらも目の前にあり/\と思ひ浮べられるのは、出發の際お鳥が上野まで見送つて來て、いよ/\汽車に乘り込むといふ場合に、プラトフオムで、人々とかけ隔つてゐるすきを見て、
「わたしは、もう、一生あんたばかりを愛します。親類もなく、友達もないと同樣寂しく待つてゐますから、早く歸つて來て頂戴、ね」と、その聲は顫へてゐながらも、いつにないしツかりした、はツきりした、積極的に情の籠つた言葉を發したことだ。
 それから、また自分が二等客車の窓から、これが暫くの別れだといふ意味で、手をさし出すと、お鳥はじろ/\とあたりを見まはしてからまたその手をつき出し、義雄の思ふ存分に握らせたことを思ひ出す。
 そんなことまでは義雄も語らなかつたが、
「あれまで熱心になつてゐたものが、僕の云つてやつた難局を少しでも辛抱し切れないとは不埒極まる、さ」と、渠は勇に猪口を勸めながら云ふ。
「然し」と、勇はその猪口を受けながら、「君が女を持たなければならないとすりやア、この難局を切り拔けてからの方が、つまり、いいぢやアないか? 難局を控へてゐながら、女に支送りしようなどと考へるのが贅澤、さ。」
「そりやア、僕もさう決心してゐる、さ。ただ僕がまだ未練があるのだ。──考へると、可愛さうでもある。」義雄は風呂敷包みの中からお鳥のよこした手紙の一と束を取り出した。



 夫婦でも、人前で抱き合ったりすると、警察にとがめられる時代だ。夫婦でもないものが、たとえホームの別れでも、手を握り合うことすら人目をはばからねばならないというのは切ない。

 勇は、実直な教師だから(教師だからといって実直とはかぎらないけど)、この「難局」と「女」は両立しないから、「難局」を乗り切ったら「女」に仕送りすれないすればいいと、常識的なことを言うわけだし、お綱にいたっては、「そんな女はゐない方が奧さんの爲めによいでは御座いませんか」と、「そんな女」と「奥さん」の位置関係を崩そうとしない。「そんな女」がどんな女で、「奥さん」がどんな女かということに対する想像力も、したがって同情もないのである。

 お鳥から来た何通もの手紙を束にして義男は持っていて、そのこと自体が、義男のお鳥にたいする「情愛」を証している。その手紙を有馬夫婦に読ませたか、あるいは読んできかせたすると、夫妻はそれを義男の「のろけ」ととって牛鍋を奢れとからかったりする始末なので、義男はズバリと聞いてみるのだ。



「僕ア聽きたいんだ」と、やがて渠(かれ)は口を開き、「全體、あなたがたはこの手紙でどう思ひます?」
「どう思ふとは?」
「女に就いて、さ──?」
「そりやア、あなた」と、お綱が引き取つて、「とても」と北海道流の副詞で力づけ、「お氣の毒な方だとお察し申します、わ。」
「君が棄てるのも可愛さうだが」と、勇は猪口を取つてまた義雄にさし、お綱に酌をまかせながら、「一緒になつてゐるのも亦可愛さうだよ。」「ところが」と、義雄は受けた猪口を下に置いて、「どツちにしても、可愛さうでも何でもないのだ。──全體、年の行かない割合に、喰へない女だ。覺悟をしてかかれば、アヒサンの樣な毒藥を不斷隱して用意してゐたくらゐだから、どんなことでも平氣でやれる奴、さ。今の手紙も、全く信じて讀めば、少しも疑はれるやうなところがない代り、ちよツとでも皮肉に見りやア、後ろにあやつり手がゐるとも見える。少しでも金を取つて逃げようといふ手段だらう──加集といふ男がまだ關係してゐるとすりやア、口錢(こうせん)取りのやり繰り手、話上手な策略家だから、ねえ。」
「逃げてしまへば、もう、責任はその男に歸するのだから、なほ更ら結構ぢやアないか?」勇が思ひ切れと云はないばかりに云ふのを、義雄は心で情けなく思ひながら、──否(いや)、寧ろ自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念しながら、──
「そりやア、それツ切り、いくら手紙で事情を云つてやつても、向うからの便りがないのだから、僕もさツぱりして、思ひ殘りがなくなつたわけだが、どうせ僕には女が入用だから、矢ツ張り氣心の分つたものをつづけてゐる方がいいから、ねえ。」
「ですから、奧さんのところへ御歸りになつたら──」と、お綱が云ふ。
「いや、女房のところへは、失敗を囘復した後にも歸りません。」
 かう云ふ話のうちに酒は終つて、飯になつた。
 義雄は肉にカイベツのあしらひを、北海道の涼しい夜風と同樣、初めての如く珍らしく思つたと同時に、香の物代りに出てゐたカイベツ並に枝豆の糠味噌漬けを甘(うま)いと感じた。

 


 どこまでいっても平行線だ。義男のお鳥に対する複雑でねじくれ曲がった、それでいてどこまでも純情な「愛」は、夫婦の(あるいは人間の)真の愛情の追究を諦めてしまった夫婦にはまったく理解されない。この「すれ違い」は、ほんとうによく描けていて、心にしみる。

 夫婦のことは誰にも分からないというけれど、ほんとうに、人間ひとりが何を考え、何を感じているかなんて、相手が妻だろうと夫だろうと、子どもだろうと、親友だろうと、何だろうと、決して分かりはしないのだということが実感として感じられる。だからこそ、自分はなんでも分かったふうな気になって、他人さまのあれこれに、「利いた風な口」をきくのはやめたほうがいいのだ。

 人間というものは、お互いに心の底から理解しあうことなどできないのだという「絶望」が、実は人間関係の基本であろう。そこに深く絶望しているものほど、他人に対してほんとうの意味で「やさしく」なれる。他者に対する「気遣い」というものは、そこからしか生まれないのだ。

 それにしても、珍しく義男(泡鳴)は、気弱になっていて、お鳥への思いを、勇がぜんぜん分かってくれないことを「情けなく」思う。そして、「自分の心を解して呉れるものはこの家にもゐないと觀念」する。この家にもいないし、この世界にもいない。これが義男の「絶望」だ。けれども、その義男にとって、格別な感動を与えているのが、北海道の自然であり、食べ物だったという、この最後の部分は、とてもいい。

 そういえば、この「とても」という副詞が「北海道流」だという記述は面白い。「とても」という言葉は、「とても私にはそんな大それたことはできません。」などというように、オシマイに否定表現を伴って使うのが本来だったが、いつからか、「とてもかわいそう」などというようになった。その起源が、この記述によれば、北海道にあったということになる。というか、義男が「北海道流」だと感じたわけで、興味深い。

 またここに出て来る「カイベツ」というのは、「キャベツ」のことで、当時は、まだ英語の読みが北海道では「キャベツ」として定着していなかったということらしい。




 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1472 西郷南州詩・宇野淳風(和彦)

2018-08-12 08:57:31 | 一日一書

 

宇野淳風 書

 

西郷南州詩

 

全紙2枚ツギ10曲

 

 

2018年の第58回現日書展での、最高賞「南不乗賞」受賞作品。

宇野淳風氏は、栄光学園40期卒業生(1992年卒)です。

直接の教え子ではありませんが、遠い後輩でもあり

また現日会では、大先輩です。

心より、受賞をお祝いしたいと思います。

 

全紙2枚ツギ10曲というのは

70×136cmの全紙を縦に2枚継いだ紙を、横に10枚並べたということで

だいたい、縦2.7メートル、横7メートルということで、巨大です。

これだけのものを書くには、想像を絶する苦労があるのです。

筆の大きさ、墨の量(しかも、擦った墨です)、それにこれを書く部屋。

それらを想像してみれば、どれだけ大変か分かるはず。

 

こちらが、展示の様子です。

 

 

 

【本文】

一貫唯々諾従来鉄石肝貧

居生傑士勲業顕多難

耐雪梅花麗経霜楓葉丹

如能識天意豈敢自謀安


【訓読】

一貫す、唯唯(いい)の諾(だく)
従来鉄石(てっせき)の肝
貧居(ひんきょ)傑士(けっし)を生じ
勲業(くんぎょう)多難に顕(あらは)る
雪に耐へて梅花(ばいか)麗しく
霜を経て楓葉(ふうよう)丹(あか)し
如(も)し能(よ)く天意を識(士)らば
豈(あ)に敢(あ)へて自(みずか)ら安きを謀(はか)らんや

 

【口語訳】

ひとたび「はい」と答えて承諾したからには、最後までやり通すべきであり
それができるには、もともと鉄石のような堅い意志がなければならない。
貧乏暮らしは、すぐれた人物を生み出し
素晴らしい業績は、あらゆる艱難を乗り越えてこそうち立てられるのだ。
梅の花は、冷たい雪に耐えてこそはじめて美しく咲き匂い、
楓の葉は、厳しい霜をしのいでこそはじめて赤く色づくではないか。
君が、もしこの天の心に気づくことができたら
どうして自ら安易な生き方をできようか。(できないはずだ。)

 

 





 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1471 涼風至(七十二候)

2018-08-11 17:34:57 | 一日一書

 

涼風至(すずかぜいたる)

 

七十二候

 

8/7〜8/11頃

 

ハガキ

 

 

やれ酷暑だ、台風だと騒いでいるうちに

もう秋なんですねえ。

立秋は、8/7でした。

 

涼風なんて、ちっとも至りませんけど。

そういえば、かなり寒い日がありましたけど、

あれは、いつだっけ?

忘れちゃいました。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学の森へ (34) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その3

2018-08-11 15:22:08 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (34) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(3)放浪』その3

2018.8.11


 

 中学教師有馬勇の家に転がりこんだ義男は、勇の妻お綱を相手に、結婚後の女性がいかにダメかをとうとうと論じる。世話になる人を相手にする話じゃないが、そんなことにはお構いなしなのが義男だ。結婚後の女性への罵倒は、自分の妻千代子への罵倒なのだが、同じ女性として、お綱も黙って聞いていられないからムキになって反論する。

 義男は、樺太での事業が失敗して、どの面さげて東京の友人に会えるだろうかと言うと、勇が言う。



「友人も友人だらうが、細君が困つてやアしないか?」
「今も云つた通り、家を處分して、困らんだけの方針をつけるやうに命令してゐるのだから、それ以上に僕は責任がないのだ」
「それは少し」と、お綱は、さツきから林檎をむいてゐたが、そばから、そばから子供に喰はれてしまふので、もう、よしたと云はないばかりに庖丁を投げ出して、口を出した、「奧さん達にひどいでは御座いませんか? 家をお賣りになるにしても、あなたが御留守では女獨りでお困りでせうよ」
「なアに、誰れか相談相手を見つけて來るでせう。——僕は友人に會ふのはまだしもだが、女房や子供のつらを見るのが何よりの苦しみです、げじ/\を見る樣にいやで、いやでたまらないんだから。」
「あんなことを」と、お綱は義雄が眞面目にこんなことを云ふ顏を見て笑ひながら、「奧さんがお氣の毒です。ね。」
「もとはさうでもなかつたらしいが、ね」と、勇は八九年前の同僚時代のことを思ひ出した。「一緒に京都や竹生島などへよく旅行や見物に出かけたりして、仲がよかつた樣であつたぢやアないか?」
「うん、あの時はまだ、妻が僕より年うへだといふ訣點がさほど現はれなかつたので、僕が家庭といふものにまだ絶望してゐなかつたのだらう。然し、奧さんの前ではあるが、日本の女は殆どすべて、誰れでも、男子に對する情愛的努力が足りない。早くませて婆々アじみてしまふ癖に、つまり、精紳に張りがないのだ。結婚してしまひさへすりやア、もう、安心して、娘の時の樣な羞恥と身だしなみ──寧(むし)ろ、男子の心を籠絡(ろうらく)牽制して置く手段と云ふ方がよからう──を怠り、『わたしはあなたの物です、どうとも勝手におしなさい!』──」
 義雄はかう云ひながら、眞面目くさつて顎をつき出し、さも憎らしさうな口眞似をして見せた。
「ほ、ほ、ほ」と、お綱は之を見て吹き出すと、おとならしく無關心の樣な、もツともらしい樣な風をして聽いてゐる勇も、亦微笑する。

 


 お綱も、まあ、初めのうちはこんな感じで、吹き出したりしているが、義男はそれをいいことに、ますます調子に乗ってしゃべりつづける。要するに、女は一度結婚して子どもが生まれると、およそ色気なんてものをなくしてしまい、夫などには目もくれず、子どもにつきっきりになる。それがいけないのだというのが義男の主張だ。

 こういったことは、よく今の男でも口にするところだが、義男はもっと徹底していて、子どもに愛情を移すのは夫への裏切り、謀叛だとまでいうのだ。これにはお綱もむっとして言い返す。

 


「それはあんまり角の立つ云ひ方です、わ。」お綱はいよ/\躍起となり、顏までがほてつて來た樣だ。「そんなことをおツしやるお方なら、わたし、あなたをおそろしくなりますよ。謀叛人なんかツて、女の心はそんなものとは反對です。子寶とも云ふ子供ですもの、それを夫婦が可愛がつて育てるのに不都合は御座いますまい。」
「奧さん」と云つて、義雄は身づから少し反省した。そして、わざと微笑を漏らしながら、「間違つて貰つては困りますよ、これは根本のところ僕が僕の妻に對する不平であつて、決してあなたがたに關して云つてるのぢやアないのですから──」
「それはわたしにも分つてをりますが、あなたがあんまり女のことを惡くお云ひなさるものですから、わたしも自然辯解したくなるのですもの。」お綱も微笑しながら優しく云つたが、その樣子にはどことなく惡憎(をぞう)の色が見えた。
 で、義雄は、お綱の心になほ理解を與へて置く必要があると思ひ、言葉をつづけ、
「たとへば、あなたがたの家庭に就て云つて見ても」と云ひかけると、
「わたしのうちのことは」と、お綱は笑ひながらさへぎつて、「どうでもよう御座んすから──」
「なアに、奧さん、まア、お聽きなさい」と、義雄は平手で空(くう)を打ち、「別に惡く云ふのではないのですから。──若しあなたがいつも所帶じみた風ばかりしてくすんでゐるとすればです、──實着な有馬君だからそんなことも滅多にあるまいが、──どうしても、たまには充分色氣のある樣子をして自分に向つて貰ひたいと思ふことがないではなからう。」
「‥‥‥‥」勇はにこ/\ツとして、煙草を煙管につめかける。それが、もツともだが、さう適切に義雄から自分の心をうがたれたくはないと云ふ樣子であつた。お綱もにこついて、所天(をつと)の顏を瞥見したが、
「そりやア無理です、わ。」恨めしい樣子をしたかの女の心持ちを義雄は分らないでは無かつた。かの女は如何に家兄の失敗の爲めに自分の家が零落してからかたづいて來たとは云へ、この七八年を、同じ北海道に於て、こんなみじめな状態で送るつもりではなかつた。結婚さへ承諾すれば、望み通り東京の學校へ轉任運動をして、やがては都の生活をさせて貰ふ條件であつたのが、一向その條件が行はれないで日を送り、年を送るうちに、子供は一人も二人も出來たけれども、所天(をつと)の俸給はその割合ひにはあがつて行かない。その上、相變らずこの寒僻地の好かない生活をつづけてゐるのが、かの女には一生の過ちの如く見えて、自分の身を餘り安賣りしたのだと思はれてならないが、日本婦人の常套思想なる運命主義からして、何事も運命だとあきらめてゐると云ふことは、この前に、かの女は義雄と勇との前で語つたところだ。
「奧さんも亦考へて御覽なさい、娘であつた時の樣な色目を今使へますか?」と、かう義雄につツ込まれた時は、然しかの女もむツとして、「あなたのお好きな藝者ではありませんし、子供のある身で、さう、いつまでも、だらしなくもしてをられません。」輕蔑した樣な、然し恨みのある樣な、義雄には方々の家庭に於てしばしば出くわして親しみのある口調で、お綱は返事した。
「田村君の意見はなか/\正直で、眞實なところがあつて」と、勇は下向き加減の首を動かしながら、「僕等もそこまで行きたいのだが、──處世上だ、ね、──處世上さう率直にやつてゐられないのだ。第一、生活問題の壓迫を感ずるから、ね。」
「さうだ、それも大問題であるから、ねえ。」義雄もそれ以上は云ふまいと、口をつぐむ。
「何はともあれだ、ね、お綱」と、勇は細君の機嫌を取る調子で云つた、「田村君に一杯あげる支度をしな。」



 有馬君だって、あなたから色気のある様子をして向かって欲しいって思っているんじゃないですか? というド直球の言葉を聞いた勇の反応がおもしろい。「勇はにこ/\ツとして、煙草を煙管につめかける。それが、もツともだが、さう適切に義雄から自分の心をうがたれたくはないと云ふ樣子であつた。」とある。図星だったわけだ。

 その勇の様子を横目で見て、お綱は、「そりやア無理です、わ。」と言う。この描き方が素晴らしい。映画とか演劇にしたいワンシーンだ。というより、こんな感じのシーンが小津映画にあったような気がする。

 「そんなことは無理だ。」という返答は、義男に向かってのものではなく、夫たる勇に向かっているのだ。どうして「無理」なのか、その理由が、義男には分かる。お綱は、自分の結婚を「一生の過ち」だとして諦めていることを義男は彼女から聞いて知っているだけでなく、勇もまたそれを知っているのだ。それを知っている勇はどうしたいのだろう。もう一度、妻の若々しい愛情を取り戻すために、一念発起して金持ちになるのか、それとも、夫婦間の愛情は自分もあきらめて他の女へと向かうのか、それとも、生活のためになにもかも妻のように諦めるのか、それがはっきりしない。結局は、今のままだろう。それが「處世上さう率直にやつてゐられないのだ。第一、生活問題の壓迫を感ずるから、ね。」という言葉の意味するところだ。

 それが分からない義男ではないから、「それ以上は云ふまいと、口をつぐむ」わけだ。そもそも、そんなに金の余裕のない有馬に世話になる義男に有馬を非難する資格はない。

 夫婦というものは、ほんとに難しいものだ。夫婦の愛憎の姿を、こんなにもリアルに素直に描いた作家は、そうはいないだろう。

 今、泡鳴と平行して、志賀直哉の『暗夜行路』あたりを読んだとしたら、いったいどういう印象をぼくは持つだろうか。興味深いところである。しかし、そんな道に迷い込んだら、ここに戻ってこれそうもないから、この五部作を読了するまでお預けにしておこう。





 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする