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日本近代文学の森へ (223) 志賀直哉『暗夜行路』 110 美人じゃなかった事実 「後篇第三  十二」 その1

2022-08-06 11:48:40 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (223) 志賀直哉『暗夜行路』 110 美人じゃなかった事実 「後篇第三  十二」 その1

2022.8.6


 

 話はトントン拍子に進み、結婚式の日取りも決まった。これまでの叙述の長さからいうと、あっけないくらいのスピードである。


 謙作の結婚の日取りは案外早く決まった。それはやはり石本や信行の意嚮(いこう)からだった。支度(したく)は何も要らない、謙作もどれだけ京都に住むか分らないし、家もどうせ広い所を借りるはずはなし、今、色々な物を持ち込まれても困るから、と、こうS氏から彼方(むこう)へいってもらったのである。そして、式その他もなるべく簡単に済ませたい、という事だった。
 十二月初めのある日、敦賀からの一行(当人、母、兄)が出て来た。翌日皆(みんな)はS氏の家(うち)に呼ばれ、其所(そこ)で見合をし、晩はやはりS氏の案内で南座の顔見世狂言へ行った。


 「結婚式の日取りは案外早く決まった。」というのはいいが、その後に、「それはやはり石本や信行の意嚮からだった。」というのが引っかかる。「やはり」とあるからには、謙作も、予想していたということだろうが、「それは」は、何を指すのだろうか。「日取りが案外早く決まった。」ことだろうか。石本や信行には、式を急ぐ理由があったのだろうか。それを、「そうだろうな」と謙作も思っていたのだろうか。それとも、「それは」は、この以下のことを指すのだろうか。「S氏から彼方(むこう)へいってもらったのである。」とあるが、そう「いってもらった」のは、謙作なのか、それとも、石本と信行なのか。当然、謙作だろうと思って読むと、最後のほうは、「式その他もなるべく簡単に済ませたい、という事だった。」とある。この「事だった。」は、どういうことだろう。

 「事だった。」だけ読めば、「彼方」の意向のようにもとれるけれど、それも変だ。やっぱり「式は簡単にしたい」というのは、謙作の思いだととるのが穏当だろうが、どうにも、文章があいまいだ。どうしてなのかしらないが。
敦賀から当人含めて3人がやってきて、そこで「見合」をしたという。ここで、初めて、謙作の直子は、正面から相対するのである。

 謙作が一方的に見初めて、相手が謙作の顔さえ見ないうちに、結婚が決まり、式の日取りまで決まった後に、初めて「見合う」わけで、まあ、こんなことは、当時はごくごく当たり前のことではあったけれど、こうした場合、女性はいったいどんな気持ちだったのだろうか。

 厨川白村(1880〜1923)という大正時代に活躍した文芸評論家がいるのだが、有名な著書「近代の恋愛観」は、ベストセラーになって、大正時代の恋愛論ブームを起こしたとされる。その本を仕事の関係でちょっと読んだことがあるのだが、極端なまでの恋愛至上主義で、恋愛結婚以外は認めない。見合い結婚などというものは、女性からすれば「強姦」に等しいという。芸者のいわゆる「水あげ」なども厳しく断罪されている。それを読んで、なるほどと思ったのだが、その厨川白村はもうすっかり忘れ去られている。

 しかし、そもそも「見合い」というものは、どういう起源があるのだろう。今でも残っているこの一種の「風習」は、いつから始まったのだろうと思って、ちょっと調べてみたら、意外なことが書いてあった。長いけれど、「日本大百科全書」の解説を引用しておく。

 

縁談に際して、見知らぬ男女が仲人らの仲介のもとに会見すること。もともと婚姻は同一村落内の男女合意に基づく恋愛結婚が主流をなしていたから、見合いの必要はなかった。その後の村外婚・遠方婚はおもに家格や家柄を問題にしておこったもので、家長の意見や判断が重視され、ひいては当事者の立場が考慮される余地は乏しかった。事実、武家社会では、婚姻の当夜初めて相手の顔を見るというのが伝統であった。しかし庶民の間では、なんらかの形で当事者の接触を図ろうとする動きが現れ、男側が牛や馬を見たいなどと口実をつくって女の家に訪れたり、仲人の案内によって女の家に行き、茶菓の接待を受けたりする風であった。これらでは、わずかに男が女の容姿をかいまみる程度であった。明治中期、都市の発達、劇場・食堂の普及につれて、このような場所に見合いの席を設ける風が始まり、両人に直接面談させる機会を与えるようになった。こうして、見合いが縁談を進めるのに重要な手続と考えられることになり、昭和20年代まで見合い結婚が盛んに行われた。近来も見合いはけっして衰えてはいないが、単に男女接触の第一歩にすぎず、その後の交際を通じて意思の確認を求め、成否の結論も出すという状況である。そこで場合によっては、見合いから始まったのに恋愛にまで高まる例もみられる。  [竹田 旦]


 「もともと婚姻は同一村落内の男女合意に基づく恋愛結婚が主流をなしていたから、見合いの必要はなかった。」というところにちょっと驚いた。「見合い結婚」→「恋愛結婚」へと変遷してきたのだとばかり思っていたが、むしろ、もともとは「恋愛結婚」が主流だったのだ。

 考えてみればその通りで、「好きになったから結婚する」というのが人間の自然であろう。嫌いなヤツなのに結婚させられる、というケースは、武家社会などに典型的に現れるわけだ。「武家社会では、婚姻の当夜初めて相手の顔を見るというのが伝統であった。」などということがあれば、それこそ白村の言うとおり「初夜」は「強姦」以外の何ものでもない。そうした武家社会の伝統が、庶民の中にも浸透していた明治から大正にかけての状況に、白村は、猛然と「NO!」を突きつけたのだ。そういう「見合い結婚」の理不尽さを痛感していた人たちが多数いたからこそ、その本もベストセラーとなったわけだ。

 まあ、昨今の朝ドラ「ちむどんどん」でも、鈴木保奈美演じるところの金持ちの奥方が、息子の結婚に大して「家柄が違う」などというセリフを臆面もなく喫茶店で吐くシーンがあったりして、1980年代のことだとしても、今でもそういう意識は色濃く社会の中に残っているのだろう。(こんな絵に描いたような家柄意識を、ドラマのセリフにそのままするなんて、しょうもない脚本家だなあと思ったけど。)

 翻って、謙作の結婚は、こういう意味での「見合い結婚」ではない。むしろ「恋愛結婚」なのだが、女性の気持ちを十分に汲んだ、というか、「相思相愛」の「恋愛結婚」ではない。いわば「片思い結婚」ともいうべきものだ。

 謙作は、何度も直子の姿を夜目、遠目に見て、妄想をふくらませていたのだが、直子は謙作を一度も見たことがないうちに(写真を送ったんだっけ?)、式の日取りまで決まったうえで、謙作と相対したというわけだ。

 「見合」が終わると、すぐに「南座の顔見世狂言」を見に行く。これもちょっと不思議だ。今ではこんなことはしないだろう。
「暗夜行路」では、謙作は、よく寄席や歌舞伎を見にいく場面が出てくる。今では、そういう所に行くというのは、それだけを目的とする特別な行動だが、当時は、寄席に行ったり、芝居見物をしたりということが、もっと日常生活の一部となっていたのだろう。落語などでも、そうした生活のあり方がよく出てくる。

 初めて謙作を見る直子の気持ちはどうだったのだろうと興味を惹かれるが、まずは謙作の気持ちが描かれる。

 


 謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分異う印象を受けた。それは何といったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女として不知(いつか)心で彼女を築き上げていた。一卜言にいえば鳥毛立屏風の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。総ては彼が初めて彼女を見たその時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ鶉(うずら)の枡(ます)に大柄な、豊頬な、しかし眼尻に小皺(こじわ)の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し流行らなくなった、旧式ないわゆる廂髪で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを憶い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。
 横顔が母親とよく似ていた。母親もN老人の妹として彼が想像していたとは全く反対であった。顔の大きい、ずんぐりと脊の低い、如何にも田舎田舎した人で、染めたらしい髪の余りに黒々しているのも、よくなかった。で、彼女が、それに似ていた事は、同じ場合を書いたUnfortunate likeness というモウパッサンの短篇小説を憶い起こさせたけれども、彼はその小説の主人公のようにその事には幻減を感じなかった。それにしろ、彼女は彼が思っていたように美しい人でなかった事は事実である。もっともこの事は後で彼女自身彼に話した所であるが、前日の汽車の疲れと、前夜の睡眠不足──疲労がかえって彼女を興奮させ、ほとんど明け方まで、眠れなかった──ためにその日は軽い頭痛と、いくらかのはき気もあり、彼女としては半病人の状態にあったのだという事だ。実際彼もその日のような彼女を見る事はその後、余りなかった。


 要するに、ちょっとガッカリしたのだ。夜目、遠目に見て、勝手に妄想をふくらませ、自分好みの美人に仕立て上げられては女もたまらない。そうした「妄想の女」を上回る美人なんて、そういるものではない。だから、この謙作のガッカリもごく自然とはいえる。

 それにしても、何度も出てくる「鳥毛立屏風の美人」というのは、そんなに美人だろうか。古代の美人の典型なのだが、それが謙作の理想なのだろうか。こういうものを持ち出す謙作というのも、ちょっと嫌みである。

 「鶉の枡」というのは着物の柄なんだろうけど、調べても分からなかった。知っている人がいたら教えてください。

 しかし、謙作は直子の母親も「妄想」していたのだからおもしろい。まあ、「彼女」が出来たとして、その母親がどんな人だろうというのは、誰だって想像するだろうが、「想像していたとは全く反対」というのは、あんまりだ。しかもそのあと「顔の大きい、ずんぐりと脊の低い、如何にも田舎田舎した人で、染めたらしい髪の余りに黒々しているのも、よくなかった。」と手厳しい。ここまで書かなくてもって思う。

 まあ、直子自身が言い訳して、あのときは最悪だったのよ、ってことではあるが、「彼女は彼が思っていたように美しい人でなかった事は事実である。」と書くのは、「事実」へのこだわりなのか? それにしても、威張ったみたいな言い方で、まるでゴチックで印刷したみたいに「事実である」なんて書く必要があるのだろうか、疑問である。しかし謙作のことだから、いくら直子が言い訳しても、「美人じゃなかった事実」が、この後、案外根深く、残っていくのかもしれない。

 ところで、ここに出てくるモーパッサンの「Unfortunate likeness」という短編小説だが、訳すと「不幸な類似」とでもなるのだろうが、検索してもその本が見つからない。で、いろいろ調べていたら、どうもこれは「偽作」らしいというところまでたどりついた。足立和彦というフランス文学、モーパッサン研究者の「えとるた日記」というブログに、この「暗夜行路」に関する記事があり、そこでは、「それはそうと『暗夜行路』。なんでここにおもむろに「モウパッサン」が出てくるのかはよく分かんない。時任謙作は英語でモーパッサンを読むような人だった、てことでしょうか。岩波文庫さん、今度改版する時はぜひ注をつけておくんなせえ。」とあった。


 深入りすまい。

 


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