『日本と日本人についての和む話・いい話・感動した話・泣ける話』というブログがあります。その中の「清水寺の話」というエントリーのコメント欄に,「さらば」「さようなら」の意味について心惹かれる話がありましたので引用します。
「さらば」は、「さようであれば、しからば」が語源
「さようなら」と同じ。
アン・リンドバーグは大西洋横断単独無着陸飛行をした飛行家チャールズ・リンドバーグの妻。
夫婦でアジアへの飛行ルートを探っているうちに千島列島に不時着。船でたどり着いた東京で
熱烈な歓迎を受け、いざ横浜から出発するというときに、日本人が口々に叫ぶ「さようなら」
という言葉の意味を知って以下のように書いているのだそうだ。
さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねば
ならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。
なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統の中では、多かれ少なかれ、神が別れの
周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、
フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。それなのに、この口に人々は、
別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
東亜備忘録より引用
「日本と日本人についての和む話・いい話・感動した話・泣ける話」、〈清水寺の話〉より
http://ameblo.jp/kuromaryu/entry-10030216800.html
さようならが「そうならねばならぬのなら」という意味なのを、ここではじめて知りました。アン・リンドバーグは、
さようなら、とこの国の人々(日本人)が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねば ならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。 なんという美しいあきらめの表現だろう。
と述べています。これを読んだ時、なぜか「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」という鴨長明『方丈記』冒頭文を思い出しました。世の中のことは移ろうもの、一定ではないものだから、という無常観のうえに立ち、そうならねばならないのなら・・・といいながらも、言葉の後ろにある、言葉に表れない想いを伝える言葉が「さようなら」なのですね。
自然界の万物に神を見出し(八百万の神)、世界が織りなす出来事をあるがままに受け入れながらも、その後ろにある凛とした日本人のこころを感じさせてくれたお話でした。
何気なく話している言葉。その奥深さに身震いします。だぶだぶした贅肉のない、ぐだぐだした屁理屈のないスッキリとした日本人本来の姿が見えます。 色々なものに執着し権利権利と声高に主張する現代人は醜いです。
日本独自のよいものが、どんどん失われていく気がして、本当に気がかりです。現在のいろいろな問題に向かうとき、敗戦を境に日本人が失おうとしているものの大きさをつくづく感じてしまいます。この時期を乗り越えて、古来からの日本人の心を引き継いで、次の世代に伝えていくことが、現在生きている日本人の責務だと思います。