海岸にて

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戦後、直面しているもの

2007-12-20 | ニュース

   

産経新聞の企画、現代日本についての4人の方々による座談会からの文章ですが、大変示唆に富んだ面白い記事でしたので、特に印象に残った部分を一部引用させていただきました。(本来なら、全文引用するべきですが、長文になりますので、失礼ながら一部としました。)

   

【やばいぞ日本】座談会(3-1)退路断つ「覚悟の戦略」を

2007.12.20 03:43  (MSN産経ニュース)

出席者は宗教学者の山折哲雄、JR東海会長の葛西敬之、元外務省中東アフリカ局参事官の宮家邦彦、一橋大学客員教授の中満泉の4氏(本文は敬称略)。

  (中略)

 --日本の現状をどう見ますか

 [山折] 連載を拝見して、日本社会の劣化が行くところまで行き、この先は沈没しかないのか、と感じた。

 戦後60年、われわれの社会は家庭でも学校でも職場でも「人間関係が大事だ」と言い続け、その結果、人間関係そのものが非常に不安定になった。

 何が欠如していたのかというと、親子や師弟の関係でも、技術や知識を年長の者が次の世代にきちんと教えていくという教育の垂直軸というものを問題にしなかった。これがかえって人間関係そのものの基礎を崩した。

 それから水平軸が横並びの平等主義となり、互いの足を引っ張る構造を作り上げた。垂直軸がしっかりしていれば、嫉妬(しっと)や怨念(おんねん)はかなりコントロールされる。それが正当な人間関係の中に吸収されず、ライバルや憎しみの相手に向けられ、社会の中に蓄積している。子殺し、親殺しなどの残虐な事件が多発しているが、蓄積した嫉妬や怨念が外に向かうと殺意になり、内に向かうと自殺を引き起こす。外にも内にも向けることができない人間は行き場を失って鬱(うつ)になっている。

 教育を中心にあらゆる社会組織の中に垂直軸と水平軸という立体的な体系を築き上げなかったことが問題だ。

 

 

[葛西]戦後の日本は、すべての人の考え方が内向きになっている。国というものは中を束ね、外に向かって戦略的に自己主張することにより、国益を推進するための組織でなければならず、そのためにリーダーが必要だ。

 これが明治以来の近代化のプロセス。担い手は戦うことを職業とする武士だったが、戦後日本は、その戦うことを否定することから始まっている

 ですから国を守ろうとか、あるいは企業も役人も、外に向かっていかに競争力を強めていくかということをだんだん考えなくなり、内ばかり見るようになった。仕えやすい上司、付き合いやすい同僚、使いやすい部下がいいということになり、そういう人が組織の中で重んじられる形になっている。

 冷戦時代に米国の保護下で日本が自分で自分を守らなくてもいい、という、ある種の温室の中では、その仕組みは機能し得たと思う。ところが、冷戦崩壊後に米国から突き放され、あるいはバッシングされる事態になって、四分五裂の迷走状況になったまま、それがいまだに続いている。

 すべてにおいて受動的で、主導性を失ったのが日本の戦後の特色。小泉元首相、安倍前首相はその中でリーダーシップを発揮しようとしてある程度成功したが、今また逆戻りし、帆もエンジンも舵もない状況になっている。

                     (中略)

   

[葛西]戦後、敗けて国は滅びたが、うまい具合に朝鮮戦争が起き、米国が日本を共産主義の防波堤として徹底的に保護する仕組みになった。それで日本人はリーダーシップというものを学ばず、国策を自分で考えないで、黙って冷戦のレジームの中できちんと努力さえすればいいという風になった。

 本当は今、幕末と同じぐらい日本は独立あるいは存在の危機を迎えている。中国の存在はまさに脅威です。にもかかわらず、そのことを認識すらしないという、そこに今の問題がある。幕末の侍たちは認識していた。

 今の国の指導者たる政治家の一部は認識していない。その認識すら失ったのは、憲法9条と東京裁判によって作られた歴史的歪(ゆが)みのせいです。誤った歴史認識に日本人は縛られ、思考停止している。

                   (続きあり)http://sankei.jp.msn.com/life/trend/071220/trd0712200343003-n1.htm

  

  

  

一つ目は、葛西氏の言われる「戦後体制」で日本人が失ったもの。戦後日本は、その戦うことを否定することから始まっている。」ということ。言いかえれば、戦後日本の全てが、米国主導のもと、「米国の保護下で日本が自分で自分を守らなくてもいいという、主体性のはく奪(欠如)の上に立脚しているということ。日本人自身の主体性を否定することから、戦後日本は始まったということです。自分で自分を守る、守れるということは(人間で例れば、大人の条件)、これは、かなり重要なことであります。

米国に安全保障の面倒を見てもらうことを当然と考え(考えさせられ)、なぜなら、日本人は戦争で悪いことをしたからと考え(考えさせられ)、だから、自分で自分の安全を図る(自衛)ことさえどうしてよいか(誰かに聞かなければ)分からない。米国の保護下にいることは、日本人に自分の頭で考え行動することを放棄させてしまった、この戦後体制という幻想の中に未だ日本人はいると、言ってもよいのではないでしょうか。

 

もう一つは、戦後の日本が、山折氏の言われる垂直軸」、すなわち親子や師弟の関係でも、技術や知識を年長の者が次の世代にきちんと教えていくという教育の垂直軸というものを問題にしなかった。これがかえって人間関係そのものの基礎を崩した。

、失ってしまったということです。戦前の日本の社会をうまくまとめあげていたものが、この「垂直軸」だったのだろうと思います。

  

何もしないことが敗戦国の国益だった60年の中に、永久にうずくまっていることはできないと、日本人は気がつかなければならないと思います。米国が特別な国だった時代はもう過ぎ去ろうとしています。日本を含めどんな国も、国益は自分で掴まなければならないという当たり前のことを思い出すべきだと思います。国際社会が日本に望んでいるのは、ただ当たり前の普通の国になれ、ということではないのでしょうか。

  

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