それは、彗星よりの使者に心を奪われた人達ではなく、人の姿を騙り、ノアの姿におびえて逃げ去ろうとした、彗星よりの使者、そのものだった。
「消えろ、苦しみをもたらす者達よ――」と、ノアは、人々の上に舞い上がると、声高に祈った。
作られたまぶしい光りの中にある彗星よりの使者達は、その姿がはっきり目に見えるほど、存在を確かなものにしていた。
人工的に作られた濃い光りは、天使の放つ光を弱めていた。
本来ならば、天使の存在を感じたとたん、消え去っていたはずの使者達は、もはや言葉をもってしか、消し去ることができなかった。
街の一角は、今や混乱のただ中だった。
そこいら中で悲鳴があがり、幾台もの救急車が、けたたましいサイレンを鳴らして駆けつけていた。パトカーで急行した警察官が、次々と集まり、通行人を手際よく誘導していた。
肩をぶつけられた男は、あれよあれよという間に状況が一変し、おろおろと立ちつくすばかりだった。男は、人々が入り乱れる混乱のただ中で、一瞬、翼の生えた人影を見たような気がした。
「――ひょっとして、あいつが原因か」
男は、遠い先の先までを見通すかのような目で、ちぇっと一つ、悔しそうに舌打ちをした。
「消えろ、苦しみをもたらす者達よ――」ノアは、低い囲いだけの小さな広場の上空に舞い上がり、祈っていた。
街は、混乱を極めていた。
空には、月とは違う位置に赤い星が現れ、次第にその大きさを増していった。
混乱した人々の声が、困惑から、未曾有の恐怖を目の当たりにした悲鳴に変わっていた。
ノアは大きく翼を広げ、空高く舞いあがった。
まだ自由に動かせない翼が、かくかくと奇妙に動き、ときおり墜落しそうになりながらも、ノアはゆるゆると、空高く上昇していった。
今や眼下に見える街は、時間軸を変化させてみるみる緑あふれる姿に変わり、さらにゴツゴツと、生まれたばかりの地球の大地となって剣が峰のようにせり上がり、その荒削りな地面で、そっとノアを受け止めた。
赤い彗星は、真の姿を露わにしていた。すでに見上げる空の大半を占めている彗星は、赤黒い血が溢れる川のような流れを、血管のようにその地表面に浮かび上がらせ、複雑に絡みあっている正体をしていた。
近づく彗星の圧力によって、地球の大地はひび割れ、地響きを起こし、たまらずにマグマを吹き上げ、苦悶の叫びにも似た稲妻が、止むことなく轟いていた。
ノアは、両手を高く広げた――。
「去れ、破壊をもたらす使者よ」
ノアが言うと、赤い彗星は、その動きをぴたりと止めた。
雷鳴とは違う別の轟音が、大地を揺るがすように鳴り響いた。
上空に大きく構えた赤い彗星が、その地表面を覆っている赤い流れを断ち切って、恐ろしいほど巨大な目を、ゆっくりと見開いていった。
ゴゴゴゴ、ゴゴゴ――……。
巨大な瞳が揺れると、宇宙の真空を貫き、大気を破り裂く鋭い衝撃波が、襲いかかってきた。
大地が、奇妙な幾何学模様に深く切り刻まれた。
血走った瞳が、キュッと鋭さを増すと、ノアの全身が、蜘蛛の巣のような線を描き、音を立ててひび割れた。
ノアの強い思いが、かろうじて体が崩壊するのを抑えていた。
もはや、祈りを声にすることは、できなかった。
赤い彗星の目に、力が籠もった。
その時、微塵に切り裂かれたはずの大地が、震えた。ノアの海の体に、深海の底の底から、湧き上がるような震動が伝わってきた。
大地に共鳴するように震える体は、ひび割れた体を、みるみるうちに再生させた。
ノアはその時、はっきりと、地球の意志と共に、神の意志と、そして声を感じた。
「去れ、神は我と共にある――」
と、勝利を確信したノアが言った。
言葉を受けた彗星は、すべての動きを止め、凍りついたように動かなくなった。
瞳を力なく見開いたまま、赤い彗星は、大気に溶けるように、その姿を消し去っていった。
彗星の最後を見届けたノアは、微笑みを浮かべたまま、その場で完全な石となった。
ノアであった石は、大地が元の姿に戻った後も、その場所にあり続けた。
天使の魂を含んだ石はやがて風化し、大地と大気に溶け、意志を持ちつつ、地球と共に永遠の時を旅し続ける。
おわり。そして、つづく――。
たとえば、それは「狼おとこ」
「消えろ、苦しみをもたらす者達よ――」と、ノアは、人々の上に舞い上がると、声高に祈った。
作られたまぶしい光りの中にある彗星よりの使者達は、その姿がはっきり目に見えるほど、存在を確かなものにしていた。
人工的に作られた濃い光りは、天使の放つ光を弱めていた。
本来ならば、天使の存在を感じたとたん、消え去っていたはずの使者達は、もはや言葉をもってしか、消し去ることができなかった。
街の一角は、今や混乱のただ中だった。
そこいら中で悲鳴があがり、幾台もの救急車が、けたたましいサイレンを鳴らして駆けつけていた。パトカーで急行した警察官が、次々と集まり、通行人を手際よく誘導していた。
肩をぶつけられた男は、あれよあれよという間に状況が一変し、おろおろと立ちつくすばかりだった。男は、人々が入り乱れる混乱のただ中で、一瞬、翼の生えた人影を見たような気がした。
「――ひょっとして、あいつが原因か」
男は、遠い先の先までを見通すかのような目で、ちぇっと一つ、悔しそうに舌打ちをした。
「消えろ、苦しみをもたらす者達よ――」ノアは、低い囲いだけの小さな広場の上空に舞い上がり、祈っていた。
街は、混乱を極めていた。
空には、月とは違う位置に赤い星が現れ、次第にその大きさを増していった。
混乱した人々の声が、困惑から、未曾有の恐怖を目の当たりにした悲鳴に変わっていた。
ノアは大きく翼を広げ、空高く舞いあがった。
まだ自由に動かせない翼が、かくかくと奇妙に動き、ときおり墜落しそうになりながらも、ノアはゆるゆると、空高く上昇していった。
今や眼下に見える街は、時間軸を変化させてみるみる緑あふれる姿に変わり、さらにゴツゴツと、生まれたばかりの地球の大地となって剣が峰のようにせり上がり、その荒削りな地面で、そっとノアを受け止めた。
赤い彗星は、真の姿を露わにしていた。すでに見上げる空の大半を占めている彗星は、赤黒い血が溢れる川のような流れを、血管のようにその地表面に浮かび上がらせ、複雑に絡みあっている正体をしていた。
近づく彗星の圧力によって、地球の大地はひび割れ、地響きを起こし、たまらずにマグマを吹き上げ、苦悶の叫びにも似た稲妻が、止むことなく轟いていた。
ノアは、両手を高く広げた――。
「去れ、破壊をもたらす使者よ」
ノアが言うと、赤い彗星は、その動きをぴたりと止めた。
雷鳴とは違う別の轟音が、大地を揺るがすように鳴り響いた。
上空に大きく構えた赤い彗星が、その地表面を覆っている赤い流れを断ち切って、恐ろしいほど巨大な目を、ゆっくりと見開いていった。
ゴゴゴゴ、ゴゴゴ――……。
巨大な瞳が揺れると、宇宙の真空を貫き、大気を破り裂く鋭い衝撃波が、襲いかかってきた。
大地が、奇妙な幾何学模様に深く切り刻まれた。
血走った瞳が、キュッと鋭さを増すと、ノアの全身が、蜘蛛の巣のような線を描き、音を立ててひび割れた。
ノアの強い思いが、かろうじて体が崩壊するのを抑えていた。
もはや、祈りを声にすることは、できなかった。
赤い彗星の目に、力が籠もった。
その時、微塵に切り裂かれたはずの大地が、震えた。ノアの海の体に、深海の底の底から、湧き上がるような震動が伝わってきた。
大地に共鳴するように震える体は、ひび割れた体を、みるみるうちに再生させた。
ノアはその時、はっきりと、地球の意志と共に、神の意志と、そして声を感じた。
「去れ、神は我と共にある――」
と、勝利を確信したノアが言った。
言葉を受けた彗星は、すべての動きを止め、凍りついたように動かなくなった。
瞳を力なく見開いたまま、赤い彗星は、大気に溶けるように、その姿を消し去っていった。
彗星の最後を見届けたノアは、微笑みを浮かべたまま、その場で完全な石となった。
ノアであった石は、大地が元の姿に戻った後も、その場所にあり続けた。
天使の魂を含んだ石はやがて風化し、大地と大気に溶け、意志を持ちつつ、地球と共に永遠の時を旅し続ける。
おわり。そして、つづく――。
たとえば、それは「狼おとこ」