「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

2018-05-21 04:46:56 | 天照大神(徐福)
徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった

 Ikko Kurosawa氏の文章を一部引用しています。

1 始皇帝は方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは紀元前219で、「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」徐福はそう奏上した。
 二回目は紀元前210年、大船40艘、良家のけがれのない少年・少女3千人を所望し、船工・百工・方士、金銀珠玉、五穀と機材を積んで神仙の山、蓬莱山、方丈山、瀛州山の三神山にむけ、およそ100艘の大船団を出発させた。始皇帝は滄海郡(旧斉国)に命じて船を建造し、千童城・丱兮城(かんけい)を築いて、これら技術者や童子を集めて渡海訓練をしている。この大プロジェクトに、始皇帝は巨大な費用を惜しみなく出した。始皇帝は徐福に八洞神仙に到達したら爵位を与え、水夫の税を免除する報償を約束した。
 徐福は斉の人で、琅邪(ろうや・山東省東南部)を出発したが、始皇帝は自ら強い弓をもって乗船して、鯨が邪魔をしたら自ら射撃しようと成山まで同行したが、鯨には遭遇しなかった。成山頭で下船して徐福らを見送った。「煙台」に至り、大魚に出くわし、これを射殺したという。(史記・秦始皇本紀三七年)
 始皇帝は、東の聖地、山東半島の「煙台」を、五回の巡行のうち三度も訪れている。この渤海湾の伝説の港町「煙台」から徐福一行は中国本土を離れた。
 中国の白蘭族の歌を始め、屈原の『少司命』『湘夫人』など、すべて五・七言であるので、須佐之男の八重垣歌も五・七調の歌謡であり中国の踏襲ということも言える。
 殷の王は鬼神を尊び、民を率いて神に仕え、何事につけても甲骨に卜占をしるして占いをもっぱらにして、族邑を束ねていた。紀元前千四百年、殷の中心が河南省の安陽市付近にあったことは殷墟の発掘で明らかになった。河南・山東は、後の六国の「斉」で、とくに崇神の念の強い地域だったと言われ、鬼神を畏れる人々だった。このことは魏志の「名曰卑弥呼。事鬼道、能惑衆」、卑弥呼の鬼道と気脈を同じくすると思われる。斉が殷の習俗の色濃い土地であることは確かである。そして、徐福の童子3千人が斉人であれば、なおさらのことである。
 
2  私見
 王輯五は「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とする。鳥取県中西部には福付き地名が他所より格段に多いから、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。徐福一行は仙薬を求めて伯州(鳥取県中西部)に結集した。三貴神は大山の裾野の小さな湾に上陸し、伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着し、北栄町の大島に移って伊邪那岐は三貴神に収めるべき国を命じ、天忍穂耳に葦原中津国を治めさせるように言依さした。徐福(天照大神)は蒜山(瀛州山)に上がった。
 須佐之男は中国出身であり、徐福一行のNO2であった。八岐大蛇は始皇帝の追っ手であり、さらなる追っ手から逃れるために、徐福(天照大神)と一緒に鳥取県東部に逃げていた。始皇帝は徐福たちが出港した年(紀元前210年)に亡くなったが、亡くなったことはしばらく伏せられていた。徐福と須佐之男は始皇帝が亡くなったことを知って、始めに命じられた高天原(蒜山高原)と海原(倉吉市中心市街地)に戻った。
 Ikko Kurosawa氏は「徐福一行は斉人であり殷王朝の末裔だ」とするが、徐福一行は列島の縄文文化を取り入れて線刻土器祭祀をしていた。準王一族は紀元前194年(徐福たちに送れること16年)に出雲に到着した。殷王朝の銅鐸による生贄祭祀をしていたのは、16年遅れて出雲国・伯耆国・因幡国に来た準王一族であった。因幡国では大国主の兄の八十神であった。
 天穂日の子とされているタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は準王(出雲族)を監視するために安来市の能義平野に派遣された。そして、天穂日は準王一族(出雲族)と婚姻関係を結んだ。しかし、準王一族(出雲族)は残虐な鬼(殷王朝と同じく人間の生贄をした)として全国に広がっていった。

 福知山大江町元伊勢「皇大神宮」(この大江山に鬼の酒呑童子伝説がある)
 日本の鬼の交流博物館に行って館長に聞いたら「酒呑童子伝説は平安時代ではなく聖徳太子の頃だと思う」と言った。私見ではもっと古く垂仁天皇の頃と思われる。この末社の建て方は出雲大社と同じであり藤原氏が八世紀以降に建てたものと思われる。
 出雲国には藤原忠平関白が制定した延喜式の式内社が187社もあった。しかし、隣国の伯耆国に式内社は僅かに6社しかなかった。これは鬼と言われるほど残虐であった出雲族と藤原氏は同族であったからである。
 
 


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