「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

2018-04-22 05:32:13 | 序章

初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは対立していた

1  銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期ヤマト朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一するまで、対立していた。
 青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族であった。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生時代前期からである。 彼らは、鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた。樂樂福神社の伝承に残る河童たちも降参した後の青銅器文化の一族を揶揄して伝えられたものと思われる。

2  彼らは弥生の早い時期から全国に展開したが、天照大神から第10代崇神天皇まで、初期ヤマト朝廷は鳥取県中部を拠点として北九州に行き辰韓(新羅)に渡り大陸との交易をはかってきた。神武天皇と戦った兄磯城や長髄彦も青銅器文化の一族である。
 後漢書には107年に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたとある。第7代孝霊天皇は120年頃の生まれであるから、帥升とは第6代孝安天皇と思われる。孝霊天皇の父の代から中国の皇帝に朝貢する途中で青銅器文化の一族が襲ってきた。かれらを捕らえて中国の皇帝に差し出したのが生口である。高句麗の広開土王碑にも百済が高句麗に生口を献じた記述があるため帥升(孝安天皇)が生口を捕らえたのも朝鮮半島と思われる。朝鮮半島では捕虜のことを生口と表現していた。青銅器文化の準王一族は朝鮮半島にも残っていた。百済は準王一族の国と思われる。

3  第7代孝霊天皇の時になって皇居を襲ってきたためいよいよ、家族総出で青銅器文化の一族を成敗することになった。卑弥呼・吉備津彦(崇神天皇)・吉備武彦(倭健命・開化天皇)の活躍で東は岩手県、西は九州天草まで平定し全国を統一した。崇神天皇は岡山県津山市中山神社に拠点を置き、卑弥呼は志摩国の加布良古崎を拠点とした。この頃(190年~220年)から全国の者が集まるための祭祀場を奈良の纒向に造り始めた。

4  「蝦夷」とは青銅器文化の一族の末裔である。
 日本書紀には蝦夷という一族が登場するが、これはどんな一族であろうか。
 日本書紀・景行天皇・日本武尊の再征において「天皇は日本武尊を征夷の将軍に任じられ、『かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず、村の長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木み棲む。毛皮を着て血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原をはしることは獣のようであるという。恩は忘れるが怨みは必ず報いるという。矢を髪で束ねた中に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から王家に従ったことがない。』」とある。
 敏達10年春2月「思うに、お前たち蝦夷らを景行天皇の御世に討伐され、ころすべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者である者は殺そうと思う」と言われた、とある。
 これは孝霊天皇の時代の倭国大乱のことを指している。紀元前194年に馬韓から列島にわたってきて、銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈・銅族を作っていち早く全国に展開した殷王朝の末裔・準王の一族である。数千人が渡ってきて全国に展開し、倭朝廷(孝霊天皇一族)に平定された一族である。鬼・土蜘蛛・猿・河童などとも呼ばれていた。平和に暮らしていた先住民は彼らを恐れ、高地性集落を築いた。平定された後も彼らはあちこちで反乱を繰り返していた。白村江の戦で百済王家は馬韓出身の蝦夷を多く使ったが、多くは海の藻屑と消えた。
 また、日本書紀において「新羅に書き換えられた百済は、『各境界を犯し争い』『仲間を集めて辺境を犯し、稔りの時をねらって作物をかすめ取る』とある」が、「蝦夷」は、記紀において新羅に書き換えられた「百済」と同じである。百済は蝦夷と同族であり、朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族と思われる。



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