1 倭姫命が定めた20社(神話の森・倭姫命世紀より)
また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張(ももはる)蘇我の国、五百枝刺(いほえさす)竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
そこから幸行すると、速河彦(はやかはひこ)が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広(あぜひろの)狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神(まなごのかみ)が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
そこから幸行すると、久求都彦(くくつひこ)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野(くくのをの)となづけ、久求社を定められた。久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。
その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。倭姫命が、「御水おもゆ飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。それを讃めて水門に水饗神社を定められた。
かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨二見国」と申上げた。永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。
そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。「恐し」と詔して、神前社を定められた。
その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(あはのみこのかみ)となづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)となづけ、津長社を定められた。
その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。
彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。
鶴の住処には八握穂社を造り祠った。
2 古事記における第十代の和風諡号と皇居のあった場所
第十代 崇神天皇 御真木入日子印恵命 師木の水垣宮
師木は東郷池周辺なので崇神天皇の皇居は鳥取県中部にあった。崇神天皇は「御真木入」であるので「御真木国」を活動拠点にしていた。大国主が最初に逃げていた「木国」は鳥取県智頭町であるが、「御真木国」は木国に似ているが本当(御真)の「木国」という意味であり木国(鳥取県智頭町)の近くにあった。木国は紀伊国ではなく鳥取県智頭町であるが「御真木国」は岡山県津山市と思われる。中山神社には中山神が来るまで大国主がいたという伝承がある。
3 出雲(殷王朝の末裔が建国した)を本拠地として全国に展開していた青銅器文化の一族の生け贄を伴う祭祀は、止めさせなければならなかった。日本書紀・垂仁25年には「先皇御間城天皇祀神祇」とある。崇神天皇は新たな祭祀を考えた。それは、始祖から伝わる道教に基づく神道であった。神祇信仰は神道と同義である。崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。実際に全国に社を定めて行ったのは倭姫命(卑弥呼)であった。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族に神祇を祀らせた。
崇神天皇は大碓命(大吉備津彦)であったから、倭国大乱終結後、豊田市の猿投神社に居た。姉の倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社に居た。
代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神の神浅茅原でしていた。しかし東国の代表者の便宜のため祭祀は奈良の纒向ですることにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。
神道の語の初見は中国の易経で、神道の語の出典は道教の教典である。神社は日本独特の宗教とされるが、道教と共通する部分が多く残っている。例えば、心身を清める儀式、柏手を打つ拝礼、鏡と剱(道教)玉(儒教)の神器、お札・お守り、鈴を鳴らす、などである。神道の母体は道教であった。
4 崇神5年に疫病が大流行し、大田田根子を探し出し三輪山で大物主を祀らせたとあるが、大田命を祀る神社(青木神社 鎮座地 鳥取県米子市青木1157番、阿陀萱神社 現在地 鳥取県米子市橋本623番、上長田神社 鎮座地 鳥取県西伯郡南部町下中谷823番、田中神社 現住所 鳥取県西伯郡南部町刺1070番、菅福神社 現在地 鳥取県日野郡日野町上菅250番、福栄神社 現在地 鳥取県日野郡日南町神福1247番)が鳥取県西部に6社(鳥取県神社誌より)あるため、大田田根子は鳥取県西部にいたものと思われる。天忍穂耳は大陸に行くために、鳥取県西部を通って北九州に何度も行っていたのだから、その子孫が鳥取県西部にいたとしてもおかしくない。崇神天皇(大吉備津彦)は鬼の平定で鳥取県西部はよく知っていたので、大田田根子を探すのは難しくなかった。大田田根子を鳥取県中部(北栄町下神)の三輪山に連れてきて、大物主(天忍穂耳)を祀らせた。崇神天皇が大田田根子(伯耆国西部の6神社)をみつけてきて大物主を祀らせた三輪山は鳥取県北栄町の三輪山であった。奈良の三輪山はこの時はまだ祭祀は行われていなかった。
崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族(銅鐸祭祀の一族)に神祇を祀らせた。代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原で神戸市の旧生田神社にいた倭迹迹日百襲姫命を連れてきてさせていた。その後、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纒向で行うことにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。伯耆国出身の卑弥呼は安全のため志摩国に、崇神天皇(在位188年~220年)は御真木国(岡山県津山地方)にいて全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纏向で行うことを始めた(200年頃より)。