伯耆国(鳥取県中西部)は人命を大事にする国であった。
1 境港で育った水木しげるが戦争で生き残ったときに言った言葉
水木しげるは境港で育った。
「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」。上官に、「よく生きて帰ってきた」と喜んでもらえると思っていたが、「みんな死んでいるからお前も死ね」と言われた。
バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅する。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができた。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」と言われた。
2 岡本喜八 米子の映画監督
岡本喜八は「日本のいちばん長い日」を東宝で発表したのち、より自らの戦争体験に近い映画を作りたいと考え、ほかの映画会社に「肉弾」の企画を持ちかける。当時の監督の思いを綴った手記には「『日本のいちばん長い日』の欠落した部分を肉弾でうめねばならぬ。私の目の前で死んだ12人の戦友もフィリピンでもくずと消えた25名の同窓生も夫々小銃弾であった。二度と小銃弾になってはならない」と書いている。
岡本監督の後日談
岡本は「日本のいちばん長い日」は史実に忠実なだけのドラマで、あれには庶民が出てこない。だから、「肉弾」はできるだけ庶民にくっつけて描きたかった。いちばん身近な庶民の代表は僕自身だから、ささやかだけど僕の戦争体験を通してやってみようと。庶民代表でやってみようと。「肉弾」は自分史とも言えるわけで、やれたなと思っている。戦争でいちばん響いたのは、町内の小学生時代の友達が一人も帰って来なかったっていうことである、と言っている。
3 古事記・黄泉国・において「伊邪那岐は契を解くことを妻に申しわたした。この言葉を聞いた伊邪那美命が言うには、『・・・あなたの国の人々を1日に千人ずつ絞り殺してあげましょう。』伊邪那岐命は答えって言った。『・・・私のほうは一日に千五百人の産屋を建てて、子供を産ませることにしよう。』」とある。
4 仙人(伊邪那岐命)は三千人の少年少女を求めた。
「史記」 巻百十八 淮南衡山列伝 第五十八
又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
≪訳≫ ・・・また、徐福に海に出て、不老長寿の薬を求めさせたが、帰って来て偽りの報告をした。「私は海の上で大神に会い、こう言われました。・・・『汝らは何を求めておる?』。『延命長寿の薬をお願いしたいのです』。『汝の秦王の礼物では足らぬ。とても手に入れることはできぬ』と言い、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。・・・『何を献上すればよろしいのでしょうか』と言うと、神は『育ちのよい少年少女と、いろいろの道具に技術を献上すれば、神薬を得られよう』と言われました」始皇帝は大いに悦び、少年少女三千人に五穀の種・諸道具・技術者を与え、東方に行かせた。徐福は平原と広沢を得、そこに止まって王となり帰ることはなかった。
※ (アットランダム スモーク氏のサイトより)徐州師範学院羅其湘教授の調査より
「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」
「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、三千人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。
5 殷王朝末裔準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)の祭祀
殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は一万四千体に及ぶ。
※ 列島に現れた鬼・猿は人をさらった。
(楽々福神社由緒より)孝霊天皇の皇子、大吉備津彦と若健吉備津彦と共に西道鎮撫の勅命によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠(かすめとる)せしを、遂に平定したもう。
(伯耆誌より)第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
奥能登の猿鬼伝説「毎夜あちこちの集落へ出かけては、牛馬、家畜の豚などを食い荒らす。時には、子供をさらったり、傷つけたりした。」
そのほか、大江山の酒呑童子伝説、備中の温羅伝説、中山神社の猿伝説、高千穂の鬼八伝説など鬼の伝説は全国に多い。
6 倭軍の蝦夷の平定の仕方(皆殺しではない)
(溝口の鬼の館より)孝霊天皇は溝口の鬼の平定後、兄の鬼を家来にして北を守らせた。
(日本書紀・景行天皇・蝦夷の性質・日本武尊は神人・より) 願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(武力=武器)を使わずとも自然と従わせるようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え、とある。
(日本書紀・敏達天皇・吉備海部直難波の処罰より)蝦夷数千が辺境を犯し荒らした。これによりその首領の綾粕らを召して詔され、「思うに、お前たち蝦夷を景行天皇(孝霊天皇)の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領である者は殺そうと思う」とある。殺さなければならないときでも、倭王は必要最小限にとどめた。
7 私見
水木しげるにしろ岡本喜八にしろ鳥取県西部(伯耆国)で育った。人の命を大事にする環境で育った。水木しげるは「よく死なないで帰ってきた」と喜んでもらえると思っていた。岡本喜八は伯耆国(倭国)ではない日本国の戦争を皮肉交じりに風刺した。
史記・淮南衡山列伝において司馬遷は「為偽辭」(偽の言葉を言って)と書いているが、「偽」とは外部の者が言ったのであって、伊邪那岐命が「令名男子若振女」を求めたのは史実であったと思われる。伊邪那岐命は人口を増やしたかったのである。また徐福は斉王(斉国の王)であった。鳥取県琴浦町「斉尾」の地名は「斉王」であった。斉王の地に徐福が降臨した。琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に天照大御神は降臨した。伊勢野と斉尾集落は隣接している。
倭国はこのような国であったから、祭祀に生贄の風習を残していた準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)とは神武天皇のときから対立していた。倭国の大王は伊邪那岐命の考えを引き継いでいたから蝦夷を平定するときも蝦夷をできるだけ殺さないようにした。倭国は人命を大事にし人口を増やすことを考えていた。その結果、天智や鎌足のような危険人物の難民まで大事にしたのである。このことより伊邪那岐命(真人)を信奉していた天武天皇が全国の牢獄が空になるほど犯罪者を恩赦した精神がわかる。
藤原氏は倭国を乗っ取ってからは、準王一族のいたところを聖地とした。準王一族の家津美御子(熊野権現)が徐福一行の4人を手下として仕えさせていたのは、京都の藤原氏にとって愉快であった。今の日本国も藤原精神を引き継いでいるから、出雲振根、家津美御子、鬼八、の居たところを聖地にして援助している。
倭王は人を殺すことは必要最小限にとどめた。日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである。