1 「大歳の神前へ真鶴が稲穂をふくみ来て落としたので、倭姫命がその稲の美しいのをご覧になり千田の神池に種つぎされて、その秋は垂穂・八握穂にたれて、はなはだ見事であった。それで日本国中へその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社・八百万の神たちに神酒をつくり、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。
その後聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである。
持統天皇この地に行幸あり、数日みこしを留めさせられ、勅賜門を建てられた。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りをして、神池の霊水をいただき、太子のお影を拝むことが故実となっていた。のちに、堂宇は雨露のため破れ、御影を仮殿に安置して再建しようとしたが、かなわなかった。思うに、太子は神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者・士農工商いづれか太子の報恩を知らないでいられようか』とある。
文政十三年寅正月 志州磯部宮本無量山 願主千田寺
2 私見
(1) 勅賜門がなぜ建てられたかを考えてみると、千田寺の前に建てたようである。それを建てるまでは、千田寺に自由に出入り出来ていたようである。太子自ら三歳の姿を彫刻した像のある、太子の建てた千田寺を封印するためである。
倭国を乗っ取った亡命百済王朝によって作られた日本書紀には「壬申の乱」とあるが、これは倭国天皇家による亡命百済王朝(日本)に対する平定であった。倭国天皇家は過去幾度も蝦夷の反乱などに対して平定してきたが、いわゆる「壬申の乱」もその一つであった。日本書紀はこのように改ざんされているため、壬申の乱のルートも改ざんされている。壬申の乱は伊雑宮・千田寺を経由していたはずである。原古事記には書いてあったが日本書紀では削除している。壬申の乱の時に、持統と不比等は天武天皇と一緒にここも訪れたと思われる。千田寺の存在を持統と不比等が知ったのはこの時と思われる。
天武天皇から「私は天照大御神の子孫である」と言われた。その時はまだ現在の伊勢神宮はなかった。持統は不比等から天武天皇を毒殺するように頼まれていた。持統は天武天皇を毒殺してから、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の崇りを封印するために不比等の依頼で勅賜門を建てた。1年に7日しか拝観できないような寺はやがて衰退するのは分かりきったことである。
(2) 天智は百済の官僚機構の左大臣右大臣制度を導入したが、天武天皇はこの制度を廃止し以前の官僚制度に戻した。しかし、持統は天武天皇が廃止した百済のこの官僚機構(左大臣右大臣制度)を再び復活させたという説がある。日本書紀を読むとこのように思われるのだが、660年より倭王朝と百済王朝が列島に並立していて、日本書紀は百済王朝の歴史を基本としているが倭国の有力な天皇を挿入している、と考えれば倭国には大臣制度がなかったのであるから何もおかしくはない。天武天皇の父の聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は鳥取県中部(倭国)で10人の住民の陳情を直接聞いている。
(3) 倭姫命(卑弥呼)は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の先祖であり同郷である。
卑弥呼は師木(鳥取県湯梨浜町宮内)の出身であり、蘇我氏は葛城(鳥取県北栄町の蜘ヶ家山から西)が出身母体である。どちらも鳥取県中部である。天武天皇は聖徳太子(倭州天皇=蘇我入鹿天皇であり皇居は由良宮にあった)の子であり北栄町由良の出身であり、倉吉市の賀茂神社に皇居を置いた。聖徳太子も天武天皇も卑弥呼(倭姫命)の子孫であった。