奈良では石碑を立てているだけである。
第2代 綏靖天皇 (神沼河耳)
葛城高岡宮 (鳥取県北栄町蜘ヶ家山の岡神社)
神沼河耳は関金町耳で生まれた。葛城という地名は「土蜘蛛を葛木のつるでからんだから」とする。蜘ヶ家山が葛城山と思われる。蜘ヶ家山には岡神社がある。
第3代 安寧天皇 (師木津日子玉手見)
片塩浮穴宮(鳥取県湯梨浜町橋津観音堂)
「師木津」や「片塩浮穴」などから、海に面した塩分濃度の濃い入江の存在が前提となるから、比定地は東郷池である。
当時塩分濃度が高かったと思われる橋津、南谷地域には天皇の皇居や宮の比定地は、橋津観音堂、湊神社、橋津庚申堂、上橋津集落、北野神社などがある。そのうち登り口の石段横に穴があるのは、橋津観音堂である。稗田阿礼は7世紀末、このあたりに皇居や宮の比定地が多くあることにかんがみ、目印になるものを記載した。海水面より上に穴があったので浮穴とした。穴は崩された形跡がある。当時はもっとはっきり穴と確認できたはずである。
第4代 懿徳天皇 (大倭日子鉏友)
軽之境岡宮(鳥取県倉吉市小田集落の丘陵地)
軽とは師木地方と葛城地方の間にある。
「軽」とはアイヌ語で「崖」を意味するそうである。天神川側が崖になっているし、天神川は師木地方と軽・葛城地方との境(堺)である。
第5代 孝昭天皇 (御真津日子訶恵志泥)
葛城掖上宮 (鳥取県倉吉市穴沢灘手神社)
御真津とは東の師木津(東郷池)に対する表現でニニギ命が降臨した津(葦原中津国)のことを示している。 葛城(蜘ヶ家山)の西掖(葦原中津国)には原集落・穂波集落・穴沢集落があるが、一番上(カミ=山側)の穴沢集落だと思われる。
第6代 孝安天皇 (大倭帯日子国押人)
室秋津島宮 (鳥取県北栄町大島集落)
「津」は葦原中津国であり、そこにあった島とは現在の大島(合併前は島)である。東側の灘手の数本の尾根が重なり秋津がトナメしているように見える。
第7代 孝霊天皇(大倭根子日子賦斗邇)
黒田廬戸宮(鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社)
この天皇は出雲族の姫を殺したと出雲族に勘違いされ倭国乱の原因を作った。鳥取県西部に日野郡誌・楽楽福神社由緒・同神社古文書・同神社伝承・阿毘縁の伝承など、鬼や出雲軍との戦いの伝承が多く残る。宮内遺跡から弥生後期の全国で最長の鉄刀が発掘された。また、12点の鉄鏃も副葬されていた。
第8代 孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)
軽堺原宮(鳥取県倉吉市小田集落のあたり)
「軽」とはアイヌ語で「崖」を意味するそうである。天神川側が崖になっているし、天神川は師木地方と軽・葛城地方との境(堺)である。
第9代 開化天皇(若倭根子日子大毗々命)
開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあったと思われる。
開化天皇(倭建命)の系譜は葛城を連想させる。皇居の候補地のうち瀬戸は、葛城地域に残る最後の候補地である。
倭建命は征西が済んで瀬戸の隣の島集落に帰って来て神助を謝せられた。御艦は瀬戸に留めていたと思われる。
瀬戸集落には健代の姓や武信の姓がある。
開化天皇(倭建命)の系譜は葛城を連想させる。皇居の候補地のうち瀬戸は、葛城地域に残る最後の候補地である。
倭建命は征西が済んで瀬戸の隣の島集落に帰って来て神助を謝せられた。御艦は瀬戸に留めていたと思われる。
瀬戸集落には健代の姓や武信の姓がある。