真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦後補償──朝鮮人戦犯(李鶴来さん)の証言

2010年05月23日 | 国際・政治
 日本の侵略戦争によるアジア諸国の被害は多大であった。したがって、その賠償や補償は大変なものになるはずであった。しかしながら、戦後の東西対立(冷戦)の激化にともなって、日本を占領下においていた連合国最高司令官総司令部が東側に対する西側陣営の強化のために、日本の再軍備や経済復興に力を入る占領政策を進めた。日本の民主的改革や賠償・補償の戦後処理は、当然のことながら、そうした占領政策を補完するものでなければならなかった。結果、日本社会に様々な問題が残ることとなった。朝鮮人戦犯に対する補償の問題は、戦争中の日本の不正義が、戦後も変わることなく続いているが如き理不尽なものである。日本の加害責任の償いは解決してはいないと思う。
 下記の「釈放を求めて───朝鮮人戦犯」は「戦後補償から考える日本とアジアー日本史リブレット」内海愛子(山川出版社)からの抜粋である。また、朝鮮人軍属で捕虜監視員であった李鶴来(イハンネ)さんの証言の部分は「今なぜ戦後補償か」高木健一(講談社現代新書)からの抜粋である。
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釈放を求めて───朝鮮人戦犯

 戦後補償裁判のなかで、特異な裁判がある。軍属だった旧植民地出身者の戦犯が起こした裁判である。
 「ポツダム宣言」を受諾した日本は、戦争犯罪人の処罰も受けいれた(10項)。連合国は、極東国際軍事裁判(東京裁判)とはべつに、BC級裁判で「通例の戦争犯罪」をおこなった「日本兵」を裁いている。この裁判の被告は5702人を数えた。この「日本兵」のなかに、戦争に動員された朝鮮人と台湾人がいた。元日本兵として裁かれた朝鮮人戦犯は148人、台湾人戦犯は173人。BC級裁判で有罪になった者(4403人)の7パーセント強が旧植民地出身者となっている。主に、捕虜収容所の監視員だった軍属である。


 日本政府は平和条約で、東京裁判とBC級裁判の「判決」を受諾し、「日本国民」である戦犯の刑の執行を引き受けている。(第11条)。刑の執行を引き受けた戦犯のなかには、これら元日本兵として裁かれた朝鮮人・台湾人も含まれていた。

 平和条約が発効した日に、朝鮮人や台湾人の「日本国籍」がなくなったことは、先の民事局長通達のとおりである。「日本国民」でもないのに、なぜ拘束されるのか。当事者の訴えに弁護士が支援にのりだした。1952年6月14日、人身保護法にもとづき、巣鴨刑務所に拘留されていた29人の朝鮮人と台湾人1人が釈放を求めて、東京地裁に提訴した。もっとも早い戦後補償裁判ともいえるものである。

 
 人身保護法による裁判は、場合によっては最高裁が直接判決をくだすことができる。その年の7月30日、最高裁の大法廷が開かれ、訴えは却下された。却下理由は、日本政府は刑の執行の義務を負っているのであり、刑を受けたときに日本国民であり、その後引き続き拘禁されていた者については、条約による国籍変更があっても刑の執行の義務に影響を及ぼさない、というものであった。

 「日本国民」として、かれらは巣鴨刑務所で拘留され続けた。最後の朝鮮人戦犯が釈放されたのは1958年である。すでに第1次岸信介内閣ができていた。かれらは巣鴨刑務所のなかでは「日本国民」だったが、巣鴨刑務所から出ると「日本国民」ではなくなり「外国人登録」をさせられた。指紋押なつもさせられている。また、外国人として在留資格が決められた。一時は「特別未帰還者給与法」(52年4月28日)で未帰還者手当を受けとることもできたが、これも53年7月31日には打ち切られた。日本国籍がないというのが、その理由であった。なお、巣鴨刑務所を出所した日が、「引揚げ」の日となっている。

 朝鮮人で戦犯として死刑になったのは23人である。かれらはマニラ、シンガポール、ジャカルタなど海外で刑が執行された。遺骨は処刑された日本人の遺骨と一緒に日本に送りかえされ、厚生省が保管していた。生き残った朝鮮人戦犯たちは、遺骨を家族のもとにかえす努力をしてきた。遺骨送還にあたって、厚生省は慰霊祭をひらいてはいるが、補償はない。1万円の香典、これが刑死した朝鮮人軍属に対して、日本政府が出した「弔慰金」だった。「戦犯」にされた旧植民地出身者は巣鴨刑務所の内でも出所後も、国籍条項によって援護から排除されてきた。

 戦犯であっても日本人の場合には、軍人恩給は復活し、「戦傷病者戦没者援護法」も適用された。しかし、朝鮮人・台湾人戦犯たちは、こうした措置からはずされた。交渉によって出所後の住宅や生業資金の貸付などはおこなわれたが、長期間の拘留や刑死への補償はなかった。なお、戦犯として刑死した朝鮮人たちは、日本人の場合と同じように、「法務死」扱いとなっており、靖国神社に合祀されている。

 1991年11月、日本政府の扱いに対して朝鮮人・韓国人戦犯たちは謝罪と補償を求めて提訴した。99年12月20日、最高裁は「立法措置が講じられていないことに不満を抱く心情は理解し得ないものではない」と述べたものの、解決は立法府の裁量的判断に委ねられるものと、かれらの請求を棄却した。BC級戦犯たちにとっては、最高裁での2度目の棄却である。

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 朝鮮人が戦犯となり、日本が刑を執行する

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 【証言】「私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです」──李鶴来(イハンネ)さん

 私は1925年2月に、韓国の寒村で農家の長男として生まれました。小学校を卒業したのは14歳でした。家の用事を手伝いながら、日本の家の書生もしていました。郵便局に勤務したこともあります。
 ある日、1期ぐらい先輩の友人から、「南方で、捕虜監視の募集がある。契約は2年間。そして給与は50円くれるんだ」という話を聞きました。
 郡庁で簡単な筆記試験、あるいは口頭試験を受けて、後日合格通知をもらって、42年の6月の半ばに、釜山の野口部隊に入隊したのです。

 朝鮮全土から3000人の青年が当時入隊をしていました。捕虜を監視するための教育は一切ありません。「日本軍人の精神を徹底的に入れてやるんだ」とのことで初年兵教育と同じ厳しい訓練を2ヶ月受けて、南方の各地に派遣されたのです。
 私が最初に着いたのはサイゴンでした。それからバンコクに行き、そこで「タイ捕虜収容所」に配属されました。泰緬鉄道、これはノンプラドックを基点にしてビルマのタンビザヤまでの425キロにもおよぶ鉄道で、インパール作戦のために軍の命令で早くつくれ、という方針のもとに着手したわけですが、当時シンガポールが陥落して大勢の捕虜がいて、その捕虜を使って泰緬鉄道工事をするというのです。


 私が着いたその翌年の2月頃、150キロメートル地点のヒントクというところに派遣されまして、私ら仲間6人と、イギリス、オーストラリヤ、オランダの捕虜たち、約500人を連れてそこに行って、仕事をしたわけです。日本人の下士官もいることはいましたけれども、私が主として労役つまり労務作業割り出しや総務的な仕事、あるいは事務所との連絡、こうしたことをやっておりました。その当時の状況は極めて厳しいものでした。まず施設が悪い、雨がもる、食糧が十分でない。それから医薬品がない。ないないずくめです。そういったなかで鉄道建設をしなければならない。そこへもってきて赤痢、マラリヤ、コレラなどのような病気が発生してまいります。そうしますと十分な栄養もとれないで働かされる捕虜は疲れてきます。大勢の捕虜が亡くなったのです。

 8月15日、現地除隊ということになりました。「連合運の捕虜を虐待した者は、厳罰に処する」といった布告が出ました。けれども、私たち自身捕虜を虐待したというような覚えは感じてないわけです。ある日、船の待合所で帰る船を待っていたところ、私も入れて50人ばかり首実検にひっかかりました。
 そして、タイ国の刑務所に入れられました。そこに数ヶ月おりまして、翌年の4月頃、あの有名なシンガポールのチャンギ刑務所に収容されました。行くとすでに仲間たちが大勢来ていました。本当にチャンギ刑務所というところは生き地獄なのです。入ったら食物はくれない、虐待はする、炎天下で強制体操はさせられるなど、大変苦労しました。

 そういう厳しい状況の中で、私も1回取り調べを受けただけです。たいした取り調べじゃありません。「患者が多く死んだのは知っているか」という程度です。2、3日たって起訴状を持って来ましたけれど、私はそうした責任の地位にない、施設が悪い、食糧がない、医薬品がない状態で、患者を強制的に収容したというのも、私個人のしたことではない、私は関係ないと否定したところ、彼らは帰りました。
 また3日後、同じ起訴状を持って来て、「お前が受けようが 受けまいが、この起訴状で裁判する」ということなんです。1ヶ月位経って、その起訴状は却下になりました。釈放され、復員船で帰る途中で、また呼び戻されました。今度の起訴状も、捕虜を強制的に収容させて死亡させた、と書いてあるだけでした。裁判は1時間でした。こちらが何を言おうと、向こうは聞く耳をもちません。


 絞首刑の判決を受けました。1947年3月20日でした。獄に入ると、15,6人いました。死刑の判決を受けても、もうくるところまできたんだ、これ以上悪くはならない、と思ったんですが、やはりこれはつかの間でした。日がたつにつれて、自分の国は独立をして国民が歓喜にあふれている。ところが、私は連合軍捕虜を虐待したということで死刑囚になった……。
 私が一番悩んだのは、国の独立に協力できなくて死刑囚となって殺されること、もう一つは、この知らせを聞いた時に、親兄弟がどれだけつらい思いをするだろうか、ということです。あと一つは、私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです。

 日本人の場合は お国のため、あるいは天皇陛下のために死んでいくんだ、というあきらめがあったでしょうが、私や私の友達の場合は、そうした慰めが全然ありません。戦後、戦犯として私の仲間が14人、全部で23人が死刑を執行されているんですが、みんなが切ない気持ちを抱いて死んでいったわけです。
 私はその後20年の減刑になり、巣鴨に送還され、釈放されてこうしておりますけど、自分の責任でない責任を負って、戦犯になったわけです。


 釈放後も苦難の生活

 彼らは、釈放されても援護措置を何ひとつ受けられないまま、日本社会に放り出された。仮釈放であるため祖国への帰還も許されず、日本に身内や親族、友人もいないため、生活の基盤はまったくなかった。3年余りの軍務と10数年の拘禁生活を課せられ、釈放時に支給されたのは数着の軍服と千数百円の旅費だけだった。出所しても生活ができないからと出所を拒否する人、出所後の生活苦のために自殺した人、精神障害で入院した人などが続出した。

 ・・・(以下略)


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。

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