真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 ニューヨーク・タイムズ掲載記事

2015年08月24日 | 国際・政治

 日本では、 
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。”
 というようなことを言って、「南京大虐殺」はなかったと主張する人たちがいる。確かに、いろいろな部隊による、あちこちでの捕虜の虐殺を調べ上げ、その人数を報じるような記事は、南京陥落直後にはなかったと思う。しかしながら、南京陥落後一週間を経ずして、下記のようなF・ティルマン・ダーディン記者の、日本兵による大残虐行為と蛮行に関する記事が、ニューヨーク・タイムズに掲載されていることを見逃してはならないと思う。

 そして、こうした記事に符合する、「揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや」というような、第十六師団歩兵第三十三聯隊元日本軍兵士の何人かの証言があること【『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環(社会評論社)】や、当時の陣中日記に、「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」というような捕虜の殺害の記録が、いくつも残されていること【『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記』」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)】を無視してはならないと思う。

 下記は、「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編」洞富雄(青木書店)で取り上げられている1~6の6本の記事の中から、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日号に掲載された記事を抜粋したものである。
1、1937年12月18日号掲載記事(T・D 12.17 上海発 )
2、1938年 1月  9日号掲載記事(T・D 12.22 上海発  )
3、1937年12月19日号掲載記事(T・D 12.18 上海発 )
4、1938年 1月  9日号掲載記事(T・D   1. 8 漢口発 )
5、1937年12月19日号掲載記事(H・A 12.19 上海発 )
6、1937年12月24日号掲載記事(H・A 12.24 上海発 )
(括弧内のT・DはF・ティルマン・ダーディンの書いた記事を示し、H・Aはハレット・アベンドの書いた記事を示す。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー     『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 T・ダーディン記者報道
          
                                1937年12月18日号掲載記事  
  捕虜虐殺さる
   ────                                                                             
    南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者
   ────                                                                             
  アメリカ大使館襲撃さる
   ────                                                                             
    蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥
   ────                                                                             
                                                    F・ティルマン・ダーディン
(12月17日、アメリカ軍艦オアフ号〔上海発〕、ニューヨーク・タイムズ宛特電)南京における大残虐行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民および外国人から尊敬と信頼をうける乏しい機会を失ってしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城とともにうちたてられると思われた秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害をうけることもなくなったと考えて、中国住民の間に安堵の気持ちが拡がったのである。

 少なくとも、戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われた。日本軍が占領してから3日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪・婦女の暴行・一般市民の虐殺・自宅からの追い立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。


  多数の市民虐殺さる
 一般市民の殺害が拡大された。15日、市内をひろく巡回した外国人は、あらゆる街路上で市民の死体を見た。犠牲者のうちには、老人や婦人や子供もあった。
 警官と消防夫がとくに狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺されたが、あるものは野蛮なまでにむごたらしい傷を負っていた。
 恐怖や興奮にかられて走るものや、日没後に街路や小路で巡察隊に捕まったものは、誰でも殺されるおそれがあった。多くの虐殺が外国人の目撃するところとなった。
 日本軍の略奪は市全体の略奪といってもよい程だった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前でおこなわれていたし、日本軍は何でも欲しいものを奪いとった。日本兵はしばしば中国人に略奪品を運ぶことを強制した。

 最初に要求されたのは食糧であったことは明らかである。それに続いてその他、有用な品物や貴重品がやられた。とくに恥ずべき行為は日本兵が難民から強奪したことで、難民収容所の集団捜索をおこなった兵士が金銭や貴重品を奪い、時には難民の所持金全部をとり上げることもあったのである。
 
 アメリカ宣教団の大学病院(鼓楼病院)の職員は現金と時計を剥奪された。その他の所持品が看護婦宿舎でも奪われた。アメリカ系の金陵女子文理学院の学部事務館に日本兵が侵入し、食糧や貴重品を略奪した。
 この病院と金陵女子文理学院の獲物は、米国国旗を掲げており、アメリカ人所有の建物であることを記したアメリカ大使館発行の中国語の布告書が戸口にはってあった。

アメリカ外交官私邸襲わる
 アメリカ大使の私邸さえも襲撃をうけた。パラマウント社のニュース・カメラマンのアーサー・メンケン(Arthur Menken)と記者は興奮した大使館勤務員から通報をうけて、大使の台所で日本兵5人と対決し、退去を要求した。兵隊たちは不満顔ですごすごとひきあげた。彼らの略奪品は懐中電灯1本だった。
 多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦されたと、外国人に報告した。これらの中国人は助けを求めたが、外国人はたいていは助けようにも無力であった。
 捕虜の集団処刑が、日本軍が南京にもたらした恐怖を、いっそう増大させた。日本軍は、武器を捨て降伏した中国兵を殺してから、元中国兵と思われる私服を着た男子を求めて市内をくまなく探しまわった。
 難民区のある建物で400人の男子が捕まった。彼らは50人ずつ一群に数珠つなぎに縛られ、小銃を持った日本兵と機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場へと護送された。
 記者は上海行きの船に乗船する直前、バンドで200人の男子が処刑されるのを見た。殺害には10分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。それからピストルで武装した日本兵多数がくしゃくしゃになった中国人の死体のまわりを無頓着にふみつけて歩き、まだ手足を動かすものがあれば弾丸をうちこんだ。
 この身の毛もよだつような仕事をやっている陸軍の部隊は、バンド沖に停泊している軍艦から海軍兵を呼んで、この光景を眺めさせていた。これを見物する軍人の大群はこの見ものに大いに興じている様子だった。

 日本軍の先頭部隊が南門(中華門)から中山路(中山北路)を市のビッグ・サークル(新街口)の方へ行軍した時には、少人数ずつ固まった中国人一般市民はどっと歓呼の声を挙げたのである。包囲攻撃が終わったことで市民たちの安堵の気持ちはきわめて大きく、日本軍が平和と秩序を回復するだろうという希望もたいへん大きかった。が、今では日本軍に歓呼を送るものは南京には一人もいない。

 日本軍は南京の町と住民から略奪をおこなって、中国人に憎悪の念を深くうえつけた。その押さえつけられた憎悪は、様々な反日のかたちをとって、何年間もくすぶり続けるであろうが、東京はそうした反日を中国から絶滅するためにこそ戦っていると公言している。


   南京陥落の惨害
 南京占領は中国軍の蒙った大敗北であり、近代戦争の歴史においても最も悲劇的な軍事的壊滅であった。中国軍は南京を防衛しようと企図して自ら包囲におちいり、ついで組織的に虐殺されるにいたった。
 この敗北は、何万という訓練された兵隊と何百万ドルの装備の損失をもたらし、揚子江流域の中国人の士気をを低下させた。戦争初期にあっては、その勇気と気力によって、中国人は2ヶ月近くも日本軍の進攻をを上海周辺にくぎづけにしていたのであったが。ドイツ軍事顧問団の一致した勧告と軍事委員会副参謀長白崇禧将軍の意見にそむいて、あの徒労に終わった南京市の防衛に許可を与えたことについては、その責任の大半は蒋介石総統にある。
 より直接に責任を負う者は、唐生智将軍とその麾下の師団指揮官らであって、彼らは部隊を見捨てて逃亡し、日本軍の先頭部隊の入城につづいて生じた絶望的な状況にたいして最善の努力をつくそうとさえしなかった。
 多くの中国軍兵士にとっては、2、3の出口しか逃げ道がなかった。若干の戦略地点に部隊を配置して、侵略軍を食いとめながら他の部隊の撤退をはかるため陣地を固守させるということもせずに、指揮官の多くが逃走してしまい、部隊を大混乱をひきおこした。
 下関へ通じる門を通って脱出し、そこから揚子江を渡ることに失敗した者は、捕らえられて処刑された。

 南京の陥落は、日本軍入城の2週間前から細部にわたって予言されていた。日本軍は広徳周辺および北方で対戦した装備の劣った中国軍を席巻し、南京入城の数日前に揚子江沿いに南京の上流にある蕪湖その他の地点を突破して占領した。こうして日本軍は中国軍の川上への退路を断ったのである。

 


   はじめは守備も強力 
 南京周辺数マイルの中国軍の見かけ上の防衛線は大した困難もなく突破された。12月9には、日本軍は光華門外で城壁に達していた。中国軍5万は城内に押し返され、最初は強硬な抵抗をおこなった。中国軍は城壁で、また城外数マイルにわたって日本軍の侵入に抵抗したので、日本軍は死傷者多数を出した。
 しかし、日本軍の重砲と飛行機がじきに城壁内外の中国軍を一掃し、榴散弾が特に多数の死者を出させた。その間、日本軍は城壁周辺に進出し、最初は西側から下関門(挹江門)を脅かした。
 
 日曜日(12月12日)の正午に、援護の厚い弾幕にかくれて侵略軍が西門(水西門)附近から城壁をよじのぼると、中国軍の崩壊がはじまった。第八十八師の新兵がまず逃走し、たちまち他のものがそれに続いた。夕方までには大軍が下関門の方へあふれ出たが、下関門はまだ中国軍の手中にあったのだ。
 将校たちは状況に対処することもしなかった。部下は銃を捨て、軍服を脱ぎ便衣を身につけた。

 記者が日曜日の夕方、市内を車で廻ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣に着がえてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。
 
 数個部隊が月曜日(13日)にも日本軍に頑強に抵抗していたが、守備軍の大部分は逃走を続けた。何百人もの兵士が外国人に身をまかせてきた。記者はおじけづいた兵隊たちから何十梃という銃をおしつけられた。彼らの望みは何とかして接近する日本軍の手を脱れることであった。
 多数の兵が安全区委員会本部をとりまいて銃を渡しており、いそいで軍服を脱ごうとするあまり、門から構内に銃を投げ入れる者さえあった。安全区の外国人委員たちは投降する兵士を受け入れ、彼らを地区内の建物に収容した。


中国軍の三分の一、袋のネズミ
 日本軍は下関門を占領すると、市の出口を全部遮断したが、そのとき少なくとも中国軍部隊の三分の一がなお城内にあった。
 中国軍は統制がとれていなかったために、多数の部隊が火曜日(14日)正午になっても戦闘を続けており、これらの多くは日本軍に包囲されていて、戦っても見込みがないということを知らなかった。日本軍の戦車隊がこれらを組織的に掃討した。

 火曜日の朝、記者が自動車で下関へ向かおうとすると、およそ25名の惨憺たる姿の中国兵の一団に出合ったが、彼らはまだ中山路の寧波ギルドのビルに立てこもっていた。その後、彼らは降伏した。

 無数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全区収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、市内で一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれた。こうした人々は集められて処刑された。

 多くのものが発見された現場で殺されたが、その中には、軍とは何のかかわりもない者や、負傷兵や、一般市民も入っていた。15日には、記者は数時間のうちに三度も捕虜の集団処刑を目撃した。そのうちの一度は、交通部附近の防空壕のところで100人以上もの兵士に戦車砲を向けて虐殺するというものであった。

 日本軍の好んだ処刑法は、十何人もの男を塹壕内に掘った横穴の入口に一緒に立たせて銃殺するやりかたで、こうすれば死体が壕内に転げおちる。そこで土をかけて埋めてしまうわけである。

 日本軍は南京包囲攻撃を開始して以来、市内は恐ろしい光景を呈していた。中国側の負傷兵看護施設は悲劇的なまでに不足しており、一週間前でさえも、すでに負傷者がしばしば路上に見られ、びっこを引いて歩いている者もあれば、治療を求めてのろのろさまよっている者もあった。

 
   一般市民に死傷者多数
 一般市民の死傷者数もまた多く、何千にものぼっている。開いている唯一の病院はアメリカ人経営の大学病院(鼓楼病院)で、その設備は負傷者の一部を入れるのにさえ足りなかった。     
 南京の路上には死体が累々としていた。時には、死体を前もって移動してから、自動車で通行することもあった。
 日本軍の下関門占領によって守備隊の大量虐殺が起きた。中国兵の死体は砂嚢の間に山積みされ、高さ6フィートの塚をなしていた。15日の夜がふけても日本軍は死体を片づけず、しかも、2日間にわたり軍用車の移動がはげしく、死体や、犬・軍馬の死がいの上をふみつぶしながら進んでいった。 日本軍は日本に抵抗すればこのように恐ろしい結果になると中国人に印象づけるために、恐怖ができるだけ長く続くことを望んでいるような様子である。
 
 中山路の全域にわたって汚物・軍服・銃・ピストル・機関銃・野砲・軍刀・背嚢が散乱していた。日本軍がわざわざ戦車を出動させて道の瓦礫を片づけねばならないところもあった。

 中国軍は中山陵園の立派な建物や住宅を含めて、ほとんど郊外全部を焼き払った。下関は焼けおち、大廃墟と化した。日本軍は立派な建物を破壊するのを避けたようである。占領にあたって空襲が少なかったことは、建物の破壊を避ける意図からであったことを示していた。
 日本軍は建物がたてこんだ地域に中国軍が集結していたところでさえも爆撃を避けたが、これは建物を保持するためのものらしかった。交通部の立派な建物が市内で破壊された唯一の政府関係のビルであった。これは中国軍によって放火されたものであった。

 今日、南京は恐怖政策におびやかされた住民を擁しており、彼らは外国人の支配のもとで死と責苦と強盗を恐れて暮らしている。何万という中国兵の墓場は日本の征服に抵抗する全中国人の希望の墓場でもあろう。

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