「覚」も「悟」も、もともと仏教の「さとり」を表す言葉です。悟りとは、迷いや執着を離れた状態のことですから、そこから「覚悟」も、迷いのない生きざまを指す言葉として用いられるようになりました。
今日の人は、「覚悟」というと、何か特別な危機に見舞われた時に心を決めることのように考えております。しかし、「覚悟」が特別なことのように思えるというのは、むしろ我々の覚悟のなさを証し立てているのです。普段持っていないものだからこそ、何か大げさなものに思えてしまうのです。
武士道において、覚悟というのは、決して特別なものではありません。覚悟とは、死期を悟ってあわてて遺言を書くことなどではなく、食物や水のように、当たり前の、日常に欠かすことのできないものだとされています。(中略)(吉田松陰が述べたかったのは)武士道においては、非常事態に直面しようが、死が迫ろうが、そこであらためて平生と異なる特別な心構えや振る舞いが必要になることはないということなのです。すなわち、平生の心の持ち方、振る舞いが、そのまま「覚悟」になっていなければならないということです。(中略)
武士は、その名の通り、「武」を本業とする「戦闘者」です。戦闘者であることを忘れた瞬間、その者は「武士」ではなくなります。ですから、あるべき武士を目指す「武士道」は、一切の価値や規範の根源を、戦いの現場に見出します。
言い換えれば、ごく普通の日常的事柄、例えば、食事をすること、寝ること、道を歩くこと、人と話をすること、そういったこと全てが、合戦の中でそれを行うことを基準として測られるのです。「常在戦場」は、武士においては比喩ではありません。平和な日常においても、今ここを「戦場」としてとらえているからこそ、武士は常に大小を携えて武装しているのです。
いついかなる時でも、そこが戦場であると意識されているということは、武士にとっては、いついかなる時も討ち死にの覚悟が要請されているということを意味します。武士にとっては、時々刻々を生きること自体が、覚悟そのものなのです。普段の生がそのまま覚悟であるというこのことを、吉田松陰は、「武士にあっては、平生の言行がそのまま遺言である」というふうに説明しています。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:こども武士道(高橋和の助著)
今日の人は、「覚悟」というと、何か特別な危機に見舞われた時に心を決めることのように考えております。しかし、「覚悟」が特別なことのように思えるというのは、むしろ我々の覚悟のなさを証し立てているのです。普段持っていないものだからこそ、何か大げさなものに思えてしまうのです。
武士道において、覚悟というのは、決して特別なものではありません。覚悟とは、死期を悟ってあわてて遺言を書くことなどではなく、食物や水のように、当たり前の、日常に欠かすことのできないものだとされています。(中略)(吉田松陰が述べたかったのは)武士道においては、非常事態に直面しようが、死が迫ろうが、そこであらためて平生と異なる特別な心構えや振る舞いが必要になることはないということなのです。すなわち、平生の心の持ち方、振る舞いが、そのまま「覚悟」になっていなければならないということです。(中略)
武士は、その名の通り、「武」を本業とする「戦闘者」です。戦闘者であることを忘れた瞬間、その者は「武士」ではなくなります。ですから、あるべき武士を目指す「武士道」は、一切の価値や規範の根源を、戦いの現場に見出します。
言い換えれば、ごく普通の日常的事柄、例えば、食事をすること、寝ること、道を歩くこと、人と話をすること、そういったこと全てが、合戦の中でそれを行うことを基準として測られるのです。「常在戦場」は、武士においては比喩ではありません。平和な日常においても、今ここを「戦場」としてとらえているからこそ、武士は常に大小を携えて武装しているのです。
いついかなる時でも、そこが戦場であると意識されているということは、武士にとっては、いついかなる時も討ち死にの覚悟が要請されているということを意味します。武士にとっては、時々刻々を生きること自体が、覚悟そのものなのです。普段の生がそのまま覚悟であるというこのことを、吉田松陰は、「武士にあっては、平生の言行がそのまま遺言である」というふうに説明しています。
「武士道に学ぶ」(菅野覚明著)より引用
写真:こども武士道(高橋和の助著)