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旦那君が59回目のお誕生日を迎えた。
が、しかし、
彼は何故か唐突に沖縄にゆき、美ら海水族館でじんべいざめを見てきた。
一緒にいかないかと誘われたが、
あの沖縄旅行事件のことが頭から離れず、
きっぱり断った。
じんべいさんなら毎日一緒に寝てる。(←サンエックスのじんべえさんの5周年で発売になっためちゃくちゃデカイやつ。)
熱々のご飯に水戸納豆を乗せて、食べる。
納豆についていたカラシとタレと一味唐辛子と冷凍ネギを入れ、キッコーマン醤油を入れ、糸を引きすぎない程度に軽く混ぜる。
糸引かせてなんぼじゃないのかという意見もあるが、糸を引きすぎると食べられないのだ。
そして有り合わせの材料で作った自家製豚汁を食べる。
今宵もとても冷える。
暖房の効いた部屋で熱々のものを美味しく食べられるなんてなんて幸せなんだろうとしみじみ思った。
コロナで、というよりも、人生そのものが波乱万丈過ぎて…。
普通の生活というものを忘れかけていた。
息子が唐突に、
「おかんに見せてあげたい風景がたくさんあるんだ。還暦旅行が中止せざるを得なくなったことが今年最大の心残りだ。頼む。長生きしてくれ。」
今年は急性緑内障で危うく失明するという危機にさらされた。
還暦。それは人生において大きな節目ということのようだ。
ここのところあちこちぶつけたり、転ぶことが増えた。
幸い大事には至ってはいないけれど、気を付けていてもダメなときはダメなのだ。
引退の危機を免れたものの、また何かの理由で引退の危機を迎えるかもしれない。
いや、人生そのものがいきなり終わってしまうかもしれない。
こんな大切なときに限って身の回りの人がひとりまたひとりと消えて行く。
新しく来る人とうまくやっていけるだろうか。
不安なのは受け入れ側も同じ。
コロナ禍でいろいろなことができなくなり、お気に入りのお店が次々と閉店し、
不安材料だらけだけど、母親である限りは毅然としてふるまわなければならない。
でも、
不安なものは不安で、どうすることもできないこともあったりする。
「おかあさん、無理しちゃだめだよ。ちゃっかり楽してる人だっているんだから。意識高い系女子って自分の手は汚さずに他の人に押し付けて手柄は持っていき、失敗はなすりつけるの得意だから。」と娘。
確かにきちんとやる人は理不尽な文句は言わない。
無理難題押し付ける人は自分ではやろうとしない。
意識高い系の人だったらどうしよう。嫌だなー。
民生委員の集まりでも意識高い系女子、いや意識高い系おばさん(おばあさん?)がいてね、仕事をどんどん増やしてしまってる。
何をいわれてもスルーすればよいものを、真面目に聞いてしまいそして悶々とする。
そんなときにじんべえさんを見ると癒されるんだ。
ぬいぐるみってね、作る人の気持ちが反映されるんだ。
優しい人が作れば癒される。
人の喜ぶ姿を想像しながら作るっていいよね。
仕事の時はいつもお客様に少しでも楽になって欲しいとか、早く治りますようにとか思いながら調剤してるんだ。
自分だったらこうして欲しいと思うことを参考に人と接し、自分ならこんなことはして欲しくないと思うことは相手にしないよう心がける。
例えば不満そうな顔とか、横柄な態度とか、人の心に土足で踏み込むような質問はしない。
接客の極意とは相手の立場に立って物事を考え、相手の状況に応じて求められたことに応えることなんじゃないかな。
過剰過ぎても困ることってあるし。
私は高級フランス料理よりも熱々のご飯に納豆とかが好みかな。
かしこまらず固くなりすぎず。
納豆は好きというほどではないけれど、良質な蛋白質だから。
「見える」ということがどんなに素晴らしいことか。毎日それをかみしめながら暮らしている。
コロナが終息しマスクをつけなくて済む日が来ることを願うけれど、それは不可能なのかもしれませんね。
家でできること。
いろいろみつけて非日常の毎日を少しでも忘れられたらな。
でも、
もしもコロナが撲滅されたとしても失われたものは戻ってこないのですよね。
たくさんの人々が苦しんでいるのだから、
興味本意の報道と何の根拠もない感染者数を数えるのやめませんか?
それってたくさんの人々に恐怖を与え、不安に陥れてるのではないでしょうか。
世の中混沌としてるからこそデマに惑わされることなく暮らしたいですよね。
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