機織虫が夜どほしないてゐました
青い蚊帳の上を 銀河がしらじらとんながれてゐました
こぼれた湯が石に冷え
燈火に女の髪の毛のやうに
ほっそりと秋がゐました
一
湯気にぬれた箱洋燈の硝子に
たれか指先でかいたかは
ふしぎにさびしいかほ
おお 山のかほ
夜冷えがする
凍るやうな夜冷えがする
二
こころぼそい箱洋燈のあかり
そのあかりの映えた湯気に
さあっと あをくかかる渓流のしぶき
湯槽にさらさらと すすきのさむいかげ
湯のにほいがしんみりとやせている
雪溶けの水がいっぱいの山葵田
夜は星の光が魚のやうに泳いでゐる
ぼくは、この二行きりの短詩が大好きだ。花も遅い信州の山里にさきぶれた春をあらわすのに、雪水の山葵田ほど好個な詩材はない。 つづく詩も、
春日遅々
山門に草餅売うつうつと居眠り
庫裡を流るる水に蕨の浸してある
と、信州のなつかしい暮らしから、山の春を薫らせるのである。
句作も励んだ田中冬二には、短い詩がおおい。日本の風土を鋭利な知的感性で切りとり、その一瞬を視覚的な言葉で撮影する。詩的スナップショット。そこには、青年期の田中冬二が親しんだアララギ派や四季派の日本回帰を底流とし、北川冬彦や安西冬衛といった客観的相関を重んじるモダニズムの知的詩法も合流している。
明治二四年に福島県福島市生まれ、東京の小中学校を卒業後は当時の第三銀行の職に就いた田中冬二は、都会人である。詩人がなつかしむ、電気のない山の生活も、湯宿の情景も、詩中にあらわれる「氷餅」、「雪女郎」、「雪売り」といった山國の言葉も、故園の情。失われてひさしい日本の風土風物だ。ふるさと、とは、万葉時代には荒地をさす言葉であって、アトポス、非在の場でもある。田中冬二が信州にみいだすポエジーは、この意味でも、日本の「あのむかしのふるさとの家」(「家」)への郷愁にほかならない。
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