ヘリテイジに芽が
バラの育成管理を始めて思った事ですが、バラは綺麗に咲き誇った時だけが美しいのだろうか?と思い始めました。
そこで、高校時代に読んだ吉田兼好の徒然草花の”花はさかりに”を思い出して高校時代に戻った気分で読み返してみました。
吉田兼好の徒然草に花はさかりに/第百三十七段があります。
吉田兼好 【花はさかりに/徒然草】~第百三十七段
参考:出典サイト yohoo知恵袋 文学、古典
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1025397865
『書き下し文』
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、
なほ哀(あはれ)に情(なさけ)ふかし。
咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。
歌の詞書(ことばがき)にも、
「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、
「さはる事ありてまからで」なども書けるは、
「花を見て」といへるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふならひはさる事なれど、
ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。
今は見所なし」などは、いふめる。
万(よろづ)の事も、始終(はじめをはり)こそをかしけれ。
男女(おとこおんな)の情(なさけ)も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契(ちぎり)をかこち、
長き夜をひとり明(あか)し、遠き雲井を思ひやり、
浅茅(あさじ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
望月のくまなきを千里(ちさと)の外(ほか)まで眺めたるよりも、
暁ちかくなりて持ち出でたるが、いと心ぶかう、青みたるやうにて、
ふかき山の杉の梢に見えたる木の間の影、
うちしぐれたる村雲がくれのほど、またなく哀(あはれ)なり。
椎柴(しひしば)・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、
身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、
いとたのもしう、をかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。
片田舎の人こそ、色こく万(よろづ)はもて興ずれ。
花の本(もと)には、ねぢより立ち寄り、あからめもせずまもりて、
酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、
万の物、よそながら見る事なし。
『現代語訳』
桜の花は、何も盛りだけを、 月は、何も曇りなく照りわたっているのだけを見るものではない。
雨に向かって月を恋しく思い、簾をおろして春の行方を知らないのも、やはりしみじみと趣深いものだ。
今にも咲きそうな桜の梢や、 花が散って花びらがしおれている庭にこそ、見るべき所がある。
和歌の詞書にも、「花見に参りましたが、すでに散り終わっていましたので」とも、
「差し支え事があって花見に参りませんで」とも書いてあるのは、
「花を見て」と言っていることに劣ることだろうか、いや、そんなことはない。
花が散り、月が西へ傾くのを慕う習慣はもっともなことであるのに、
とくにものの情緒を解さない人にかぎって
「この枝もあの枝も散ってしまった。今はもう見る価値はない」などと言うようだ。
あらゆる事も、始めと終わりがとくに趣深いものだ。
男女の恋愛も、ひたすら逢い見ることだけをいうものでは決してない。
逢わずに終わった辛さを思い、相手の心変わりから徒となってしまった約束を嘆き、
長い夜を一人で明かし、遠い空のかなたに離れてしまった人を思い、
浅茅の茂った家で昔をしのんだりするのこそ、
恋愛の趣を解すると言えよう。
満月にくもりなく、遠い千里のかなたまで眺めているよりも、
明け方近くまで待ってやっと出た月がまことに情緒深く、
青みがかっているようで深山の杉の梢にかかって木の間から見える光や、
時雨を降らせた村雲に隠れている情景のほうが、この上なく情緒深い。
にする椎の木や白樫などの濡れているような葉の上に月の光がきらめいているのは
とても身にしみて、自分と同じようにこの情緒を解する友がいればなあと、
そういう友がいる都を恋しく思う。
すべて月や花を、そう目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。
春は家から出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも心の中で思うのも、
たいそう心豊かで、趣深い。
教養のある人は、むやみに風流を好む様子には見えないし、
味わう様子もあっさりしている。
ところが、片田舎の人は、しつこく何にでもおもしろがる。
たとえば花の木の下ににじり寄り、わき目も振らずにじっと見つめて、
酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を、 心なく折り取ってしまう。
泉には手や足をさし入れて浸し、雪には降り立って跡をつけたり、
あらゆるものをさりげなく見ることをしない。
”あらゆる事も、始めと終わりがとくに趣深いものだ。”とあるようにバラの生育も、春にバラが咲くまでの寒い冬場の外での作業は大変ですが、春には、どんなに綺麗な花が咲くのか楽しみながら作業するのも”美しい時間”であります。
また、バラが咲き終わったとの青々とした葉っぱだけになったバラの木も美しく思いますね。
私達のバラ育成も花はさかりに/徒然草の気分で取り組んで行きたいと思います。
挑戦者とカメラマン(妻)
バラの育成管理を始めて思った事ですが、バラは綺麗に咲き誇った時だけが美しいのだろうか?と思い始めました。
そこで、高校時代に読んだ吉田兼好の徒然草花の”花はさかりに”を思い出して高校時代に戻った気分で読み返してみました。
吉田兼好の徒然草に花はさかりに/第百三十七段があります。
吉田兼好 【花はさかりに/徒然草】~第百三十七段
参考:出典サイト yohoo知恵袋 文学、古典
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1025397865
『書き下し文』
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、
なほ哀(あはれ)に情(なさけ)ふかし。
咲きぬべきほどの梢(こずゑ)、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ。
歌の詞書(ことばがき)にも、
「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、
「さはる事ありてまからで」なども書けるは、
「花を見て」といへるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふならひはさる事なれど、
ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。
今は見所なし」などは、いふめる。
万(よろづ)の事も、始終(はじめをはり)こそをかしけれ。
男女(おとこおんな)の情(なさけ)も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。
逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契(ちぎり)をかこち、
長き夜をひとり明(あか)し、遠き雲井を思ひやり、
浅茅(あさじ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
望月のくまなきを千里(ちさと)の外(ほか)まで眺めたるよりも、
暁ちかくなりて持ち出でたるが、いと心ぶかう、青みたるやうにて、
ふかき山の杉の梢に見えたる木の間の影、
うちしぐれたる村雲がくれのほど、またなく哀(あはれ)なり。
椎柴(しひしば)・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、
身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、
いとたのもしう、をかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑(なほざり)なり。
片田舎の人こそ、色こく万(よろづ)はもて興ずれ。
花の本(もと)には、ねぢより立ち寄り、あからめもせずまもりて、
酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、
万の物、よそながら見る事なし。
『現代語訳』
桜の花は、何も盛りだけを、 月は、何も曇りなく照りわたっているのだけを見るものではない。
雨に向かって月を恋しく思い、簾をおろして春の行方を知らないのも、やはりしみじみと趣深いものだ。
今にも咲きそうな桜の梢や、 花が散って花びらがしおれている庭にこそ、見るべき所がある。
和歌の詞書にも、「花見に参りましたが、すでに散り終わっていましたので」とも、
「差し支え事があって花見に参りませんで」とも書いてあるのは、
「花を見て」と言っていることに劣ることだろうか、いや、そんなことはない。
花が散り、月が西へ傾くのを慕う習慣はもっともなことであるのに、
とくにものの情緒を解さない人にかぎって
「この枝もあの枝も散ってしまった。今はもう見る価値はない」などと言うようだ。
あらゆる事も、始めと終わりがとくに趣深いものだ。
男女の恋愛も、ひたすら逢い見ることだけをいうものでは決してない。
逢わずに終わった辛さを思い、相手の心変わりから徒となってしまった約束を嘆き、
長い夜を一人で明かし、遠い空のかなたに離れてしまった人を思い、
浅茅の茂った家で昔をしのんだりするのこそ、
恋愛の趣を解すると言えよう。
満月にくもりなく、遠い千里のかなたまで眺めているよりも、
明け方近くまで待ってやっと出た月がまことに情緒深く、
青みがかっているようで深山の杉の梢にかかって木の間から見える光や、
時雨を降らせた村雲に隠れている情景のほうが、この上なく情緒深い。
にする椎の木や白樫などの濡れているような葉の上に月の光がきらめいているのは
とても身にしみて、自分と同じようにこの情緒を解する友がいればなあと、
そういう友がいる都を恋しく思う。
すべて月や花を、そう目だけで見るものだろうか、いや、そうではない。
春は家から出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも心の中で思うのも、
たいそう心豊かで、趣深い。
教養のある人は、むやみに風流を好む様子には見えないし、
味わう様子もあっさりしている。
ところが、片田舎の人は、しつこく何にでもおもしろがる。
たとえば花の木の下ににじり寄り、わき目も振らずにじっと見つめて、
酒を飲み、連歌をして、しまいには大きな枝を、 心なく折り取ってしまう。
泉には手や足をさし入れて浸し、雪には降り立って跡をつけたり、
あらゆるものをさりげなく見ることをしない。
”あらゆる事も、始めと終わりがとくに趣深いものだ。”とあるようにバラの生育も、春にバラが咲くまでの寒い冬場の外での作業は大変ですが、春には、どんなに綺麗な花が咲くのか楽しみながら作業するのも”美しい時間”であります。
また、バラが咲き終わったとの青々とした葉っぱだけになったバラの木も美しく思いますね。
私達のバラ育成も花はさかりに/徒然草の気分で取り組んで行きたいと思います。
挑戦者とカメラマン(妻)