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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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6月の左源太時敏もしくは泰藏

2019-06-19 00:46:55 | 奄美大島と名越左源太

いつもお読みいただきありがとうございます。

さて、6月になって書きたいことが色々あったのですが、FaceBookやツイッターで書くのとブログにまとめるのとでは勝手が違い、ついつい先延ばしにしてしまいました。

   ☆☆☆

 

まずは、6月10日。

思いつくのは「時の記念日」ですが、それ以外の何かの日だったような、と思って名越護(なごし まもる)さんの『南島雑話の世界』をめくって調べてみたら、嘉永三年(1850年)に遠島になった名越左源太時敏が、5年間過ごした奄美大島を離れた日だったのです。

以下、『南島雑話の世界』(p.258〜)「うれしい赦免」「左源太その後」を参照し書いてみます。

 

安政元年(1854年)旧暦八月十三日に、蟄居中の小宿村で待ちわびていた藩主・島津斉彬の「赦免通知」を受け取った左源太は、どれほど嬉しく喜んだことかと思います。

ただ、「ミーニシ(新北風)」が吹くのも近く、もう上国の船便も無いので翌年春を待つしかなく、翌安政二年(1855年)旧暦四月に笠利間切赤木名の対岸・前肥田に停泊中の「永徳丸」で上国することに決めます。

 

翌年、小宿村を四月二日に引き払い前肥田に移るのですが、「風待ち」が続き、四月末には小宿から村の子供たち7人がやって来て、「風待ちの間、小宿においで下さい」と何度も誘われるので、左源太はやむなく承知。結局五月三日まで再訪した小宿村に滞在したようです。

「風待ち」の間には、笠利間切の手花部村で偶然、「銀松」という「島には稀なる容顔」の美人さんと出会い、度々お茶をごちそうになったり手みやげをもらったり、といったこともあったそうで‥‥。

ちなみにこの「銀松」さんの姿も描いて残しています。

島妻もとらず謹慎していた左源太ですが、赦免になり故郷に帰れることになり、心も晴れて、美人さんとお茶したりする気持ちにもなったのでしょうね(笑)

そして六月十日です。

ようやく前肥田を出帆した「永徳丸」は、その後、風向きの関係で山川へは入れず、6月19日に志布志湾北岸、日向国諏訪(今の串間市本城)に着き、それからは陸路で、安政二年六月二十一日にやっと鹿児島の家に戻って来たそうです。

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それから、もう一つ大事な日があるのです。

それは、名越(なごや)左源太 時敏の命日です!

亡くなったのは、明治14年6月16日です。

左源太の孫である私の祖父が生まれてちょうど1ヶ月後のことです。

明治の世になり、左源太時敏は名を「名越泰藏(なごや たいぞう)」と改めております。

 

以前どこかに書いているはず‥‥とこのブログ内を検索するのですが、そのものズバリの「名越左源太時敏の命日」といったタイトルが見つからず、ようやく見つけたのは8年も前、2011年の記事でした! 

没後130年

 それと3年前(2016年)が↓

名越左源太没後135年

2年前(2017年)がこれ↓

名越左源太のお墓は?

 

今年は没後138年ということになりますが、結局タイトルに命日って入れてないし、

来年は没後139年、って中途半端なので来年は飛ばして

再来年2021年6月16日には「名越左源太の命日、没後140年」と銘打ってみますか(笑)

 

では、今日はこの辺で。

 

 

 

 

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