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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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平田靱負と藩主・島津重年

2019-05-25 17:43:35 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
☆いつもお読みいただきありがとうございます。
前回の投稿から少し間が空きましたが、その間のことを別ブログに書きましたので
宜しければご覧下さい ⇒アメブロ「ゆきの時間」”『西郷どん』から、菊池源吾と名越左源太と”
 
 
さて、今日5月25日は、平田靱負の命日です。
毎年鹿児島市内の平田公園(平田靱負屋敷跡)では「薩摩義士慰霊祭」が催されます。
 
 
 
平田靱負は江戸時代中期の薩摩藩家老で、宝暦3年(1753年)の木曽三川治水工事(宝暦治水)の責任者でした。
検索するといろんなサイトに各記述があるのでここでは詳しいことは省略させていただきます。
※参考までにWikiの「平田靱負」を以下にリンクしましたのでご覧頂ければと思います。
 
※以下、Wikiより抜粋し、併せて当時の年齢を書いてみました。
 
平田靱負 宝永元年8月12日(1704年9月10日)
 
   九歳 正徳2年(1712年)4月15日:島津吉貴の加冠をうけて元服し、平蔵から兵十郎に改名。
  十四歳 享保2年(1717年):藩法により、将軍徳川吉宗の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。
 
 四十五歳 延享5年(1748年)1月21日:島津宗信により家老に任じられ、
            同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。
            両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。
 
  五十歳 宝暦3年(1753年)徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、
            毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。
 
 
『島津歴代略記』を読むと、第24代藩主・島津重年が参勤交代で江戸に登る途中、まだ幼かった嗣子・重豪(しげひで・当時十歳)を伴って工事現場を巡察し、平田靱負以下を激励してその労をねぎらったとあります。
 
 
治水工事は、宝暦4年(1754)〜翌5年(1755)四月、一切を完了し見分の上、幕府に引き渡されました。
治水工事の総奉行・平田靱負は工事の後始末を全て終えた後、配下に多くの犠牲者を出したこと、工事費に莫大な予算超過をしたことなどの一切の責任を負って、美濃大牧の陣所に自害して果てました。
五月二十五日。この時五十二歳でした。
 
若き藩主・重年の心労も重く、平田靱負の自刃後一ヶ月にして、江戸の芝藩邸に歿しました。
宝暦五年(1755)六月十六日。重年、二十七歳の時でした。
 
 
 
※『島津歴代略記』より引用
島津重年
  享保十四年(1729年)二月十一日、鹿児島鶴丸城に出生。善次郎・兵庫・久門と称した
  重年は初め加治木家島津久季の養子となり、元文二年(1737年)元服
 
  寛延二年(1749年)兄の藩主・宗信が若くして亡くなり後嗣が無かったので、重年が本家に復し、第24代藩主を継ぐことになった
  同年、初めて江戸に上り、九代将軍・徳川家重に謁して松平姓を許され、また元服の礼を行なって諱を賜り「重年」と改めた
(この年の藩の負債:金五十六万両に上っている)
 
 
  
 

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