いつもご覧いただき、ありがとうございます
私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、
今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。
PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、
今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20 カテゴリー| 歴史探索)が5番目に上がっていました。
ありがたいことです
で、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、
そこにある画像について、
「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。
画像が小さく、またこの2008年の写真をPCファイルなどで探しても見つからないので、「島津忠厚」(今和泉島津家第8代当主)についてネット検索してみたのです。
『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』や『19代・光久公などの墓所』で「敬姫(島津重豪女)」の墓を確認しましたが、この方について今日知ることができたので記しておきます。
Wikiで「島津忠厚」を読んだところ、島津重豪の三男とあり、長兄・島津斉宣で、次兄は奥平昌高で豊後国中津藩第5代藩主(中津藩奥平家9代)とありました。この関係性は初めて認識したところです。
さらには、奥平昌高が継いだ奥平昌男へは、昌高の異母姉・敬姫が嫁ぐはずだったと!
昌高の姉・広大院(=茂姫、徳川家斉室)の項を読んでいたところ、
「弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいる。」とあり、
それで気付いたのです
なるほどそれで、福昌寺墓地の案内図に珍しく「敬姫」と名前表記がされていたのですね
「鍋保丸(綱貴男子)」の上のあたりに↓「敬姫(重豪女子)」とあります
奥平昌男に嫁ぐはずだった「敬姫」は、若くして19歳で亡くなったとありました
そして、その奥平昌男自身も失意のうちに24歳で亡くなり、重豪次男が「末期養子(まつごようし)」として家督を継いだ奥平昌高ということなのですね。
(Wikiによると「天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ」とあります)
また、奥平昌高の子供たちを見てみると、その中に「女子:島津忠寛正室」とあったのです。
島津忠寛は佐土原藩最後の藩主で、その三男が西南戦争で戦死した 島津啓次郎(1857年 - 1877年)なのですね。
これまでは個別にそれぞれについて読んでいましたが、ここで繋がり、関係性がよく分かりました。
何がきっかけになるか、わからないものだな、と思った次第です
結局、最初の「島津山◯忠厚」 の表記についてはまだ判明しません
では、また書きます