以前から書いておきたいことがあったのですが、
梅雨入り前くらいから夏場に掛けてはじっとPCに向かってるのが苦痛で
前回アップしてからこんなにも時間が過ぎ去ってしまいました。
10月に入ってようやくPCに向かう時間が取れるようになったので
ここら辺りで記してみようと思います。
☆☆☆
以前、母が遺した数々の史資料に目を通した中で
『西南戦争、戦跡を訪ねて』(北川町教育委員会編発行 平成3年)
という冊子を見つけたのですが、(→そもそもの始まりはこちら)
その中に、轟(とどろき)じいさんのことが載っていました。
*轟じいさんは私の曾祖父で、名越左源太時敏の次男。
西南戦争後、明治15年に妻と長女・長男(私の祖父)を伴い
今の家系に養子に行ったので、まだこの当時は名越姓でした。
(ちなみに父の父・篤彦は明治14年生まれなので、
名越家生まれということになります。
これもあとで年表を書いたり
相関図を書いたりした中でわかったことですが。)
で、同じ内容のものを1枚のコピー用紙で見ていたのですが、
この冊子が原本だったことには一昨年から去年に掛けて気付きました。
この北川町って、どこにあるんだろう?と思っていたのだけど、
ネットで検索してみたら、宮崎県の北部で大分県に隣接するところなんですね。
以前は東臼杵郡で、その後2007年に宮崎県延岡市に編入されたそうです。
西南戦争と言えば、私の乏しい知識では
田原坂など熊本県が舞台になったイメージが強かったのですが、
少し調べてみたところ九州を縦横に走り回っていたんだなぁと
今更ながら気付いたのです。
鹿児島市内の戦跡や西郷南洲翁の終焉の地などは当然承知していますが、
しかし正直なところ、未だ西南戦争について把握しきれていないのです。
でも、こうして自分の曾祖父の名前を関係資料に見つけ、
わずかながらも戦中の動向を垣間見ることが出来るなんて、
なんだか嬉しいような有り難いような、不思議な感じがします。
第一、曾祖父が西南戦争に従軍していたことも知らなかったのですから。
ということで、北川町教育委員会様、貴重な資料を残して下さって
本当にありがとうございました。
父と、亡き母に成り代わりまして心より御礼を申し上げます。
梅雨入り前くらいから夏場に掛けてはじっとPCに向かってるのが苦痛で
前回アップしてからこんなにも時間が過ぎ去ってしまいました。
10月に入ってようやくPCに向かう時間が取れるようになったので
ここら辺りで記してみようと思います。
☆☆☆
以前、母が遺した数々の史資料に目を通した中で
『西南戦争、戦跡を訪ねて』(北川町教育委員会編発行 平成3年)
という冊子を見つけたのですが、(→そもそもの始まりはこちら)
その中に、轟(とどろき)じいさんのことが載っていました。
*轟じいさんは私の曾祖父で、名越左源太時敏の次男。
西南戦争後、明治15年に妻と長女・長男(私の祖父)を伴い
今の家系に養子に行ったので、まだこの当時は名越姓でした。
(ちなみに父の父・篤彦は明治14年生まれなので、
名越家生まれということになります。
これもあとで年表を書いたり
相関図を書いたりした中でわかったことですが。)
で、同じ内容のものを1枚のコピー用紙で見ていたのですが、
この冊子が原本だったことには一昨年から去年に掛けて気付きました。
この北川町って、どこにあるんだろう?と思っていたのだけど、
ネットで検索してみたら、宮崎県の北部で大分県に隣接するところなんですね。
以前は東臼杵郡で、その後2007年に宮崎県延岡市に編入されたそうです。
西南戦争と言えば、私の乏しい知識では
田原坂など熊本県が舞台になったイメージが強かったのですが、
少し調べてみたところ九州を縦横に走り回っていたんだなぁと
今更ながら気付いたのです。
鹿児島市内の戦跡や西郷南洲翁の終焉の地などは当然承知していますが、
しかし正直なところ、未だ西南戦争について把握しきれていないのです。
でも、こうして自分の曾祖父の名前を関係資料に見つけ、
わずかながらも戦中の動向を垣間見ることが出来るなんて、
なんだか嬉しいような有り難いような、不思議な感じがします。
第一、曾祖父が西南戦争に従軍していたことも知らなかったのですから。
ということで、北川町教育委員会様、貴重な資料を残して下さって
本当にありがとうございました。
父と、亡き母に成り代わりまして心より御礼を申し上げます。