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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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名越時敏が名越右源太篤烈だった頃

2022-02-02 17:32:46 | 名越左源太と家族

 

いつもお読みいただきありがとうございます

 

さて、前稿で「惠祥院殿菩提」の石塔について書きましたが、「名越右源太篤烈夫婦」ということはいったいいつ頃のことなのかを、はっきり認識しておいた方が良いだろうと思いつき、長女・イサさんの誕生日の1年前くらいを計算すれば、1839年(=天保10年)初めには夫婦だったのだろうと思うわけです。

関連記事:『イサさん生誕170年! 』  2010-01-07   カテゴリー: 名越左源太と家族

    :『いささん、51歳 』   2008-04-10  カテゴリー: 都見物日記プロローグ

 

実は最近、島津登久包について新しい情報が届いたのです。

それで思ったのですが、島津登久包は、高祖父・名越時敏の妻・タネの実父であり、高祖父の舅となったのが天保10年頃として、その頃以降に建立された石塔であろうと思われるわけです。

また、高祖父は奄美・小宿に遠島時代(1850~1855年)の「南島雑話」の下書きにある署名の「名越時行」→ 小林居地頭の頃には「名越時敏」、明治に入って「名越泰藏」と順に改称します。

なので、「名越右源太篤烈(夫婦)」だったのは1839年〜1849年の間の何年間かだと思われます。

 

その頃に亡くなった「惠祥院殿」とはどなただったのか、今後も少しでも情報を掴めればと思います。

 

  画像は季節外れに咲いたナスタチウム

 


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