☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「5月3日 【前編】 昨日の話で大笑い、歌舞伎座芝居見物も♪」

2020-05-03 16:05:39 | 『都見物日記』

 この日の日記は分量が多いので、2回に分けて紹介しますね

 

『都見物日記』(四)‥‥ ③【前編】

 五・三  雨降り、五時過に今日は起て皆々 顔、髪あらい、茶のみ、七時過に飯たべ、今日はお染様と昨日芝居見物に行くお約束申上置候て、今朝は早くしまいお待ち居り候。

 夜前(ヤゼン)より 轟殿が私に大笑い申され候  お染様に御あいさつの内に 「ござり申(も)す」と私がいうたと申されて、今朝迄も 其ようなことは私は言(ゆ)わんと申せど、轟殿が あの言葉にはあぶね事笑いいだした と申大笑い也。 昨日はおそめ様のお話にて候、お筆どのよりお文が三十日のひ参りましたけれど、私はまだ御返事も出しません とお話しの事也 精一様はこれはこれは御心あい御やさしい方 とお話しにて、私もうれしく存候也(精一氏は筆者の御子息)

 今日は八時過より三人とお染様お供いたし、歌舞伎座芝居にゆき、実に実に何(ナン)とも口には語り出しは誠になりませぬ也。 市川団十郎の事 談に聞きおり、手のかれたる事、又身ぶり感心也。舞台又は家の造り、道具だて、大幕奇麗の事何ともかともきれい〳〵〳〵。

 外題(ゲダイ)の事 相馬平氏二代物語  → ※「相馬平氏二代譚(そうまへいしにだいばなし)」

  跡に道成寺と申外題にて候

一幕より二幕まで団十郎 出、夫より団十郎 あとまく一つと中までいたし、道成寺は実に只々感心々々々々。

 

※ 画像↓は2002年発行「旅王国⑫ 東京」(昭文社 エリアマップ)より

 

 

 偶然にも最近、最初に「歌舞伎座」というものが出来たのは明治22年11月であったとあるテレビ番組を見ていて知りました 出来て半年ほどの真新しい歌舞伎座は本当に素晴らしかった事でしょうね

 歌舞伎座HPより → 「歌舞伎座の変遷」

 この時は九代目市川團十郎 

検索したところ「立命館大学ARC」の「深読み役者絵展」というページがヒット、

白拍子を演じたのは明治23年(1890年)だけだったとありました! だとしたら、貴重な舞台を見たことになりますね

 ↓トップ&下の画像は5月19日、20日に入手した書籍から📚'20.6.10 追加掲載したものですが、

ここにも書かれていました

「相馬平氏二代譚」についても「近松門左衛門の『関八州繋馬』を福地桜痴が書き直した」「俗に『仲光』という活歴劇」と。

  

 お染様にお文を送ったのは、イサさんの妹で、曽祖父・轟からすると次姉の筆さん。筆さんについては以前書きましたのでお読みいただければと思います。

関連記事:「大正14年まで生きた筆(フデ)さん」など  

 またしても、お国言葉の鹿児島弁を口にしたとか言っていないとか、姉弟の押し問答(爆!

 


「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」

2020-05-02 15:58:04 | 『都見物日記』

 東京滞在2日目。新橋の宿屋・松元屋に一泊したイサさんたち三人。

ここから更に様々な方々が登場します

 

『都見物日記』(四)‥‥ ②

 五・二  松元屋にて六時過に起き、今日は天気よし。七時過に飯たべ候。 汁と皿は筍、蓮の根、豌豆(※エンドウ)、くわいと烏賊、此品にて候。お平は蛤也のぞきに ゆばのしめたるもの、小皿に漬物也。昨日はここに着きたる時、茶とせんべ、其せんべは しお気有之、鹿児島には無き味あり。今日は私も気分宜敷く、昨日は汽車にて終日ゆられ候故か 頭痛致し あしき気分にて候いしも、今日はさえざえ敷事にて候。

 八時前に宿屋をかえ京橋区加賀町17番地 和田いくやどへ参り候。程なく 麻布永坂島津氏お染様の所へ三人とも連れたち参り上(アゲ)、いろいろと珍らしきやぼ蕎麦ご馳走などいただき、酒いただき、折角の思召にて候間 そばもたくさんに御遠慮なく頂き、暫くお話し申上候。 何かいろいろの事もおはなしいたし度候へ共 奇妙頂来(キミョウチョウライ)に言葉が出る故 気の毒に有之候事

 また帰りには愛宕山芝公園 増上寺見物いたし、夫より小刀、鋏など買入れ帰り候て、ゆるゆると内に致し居り候へば、一寸 永吉の(※)久良賀野辰彦様水上(ミッカン)の野元彦十郎様のお出、夕ぐれより八時過に御立ち遊され候。久々にてお喜びの事に候。 こちらのそば御馳走いたし候。九時過には皆々いね候。

 「麻布永坂島津氏」とは、以前『【第5話】麻布永坂島津氏のお染様』で書きましたが、「佐土原島津家」の屋敷が麻布永坂にあり、明治23年のこの頃は、「香蘭女学校」が屋敷の敷地の一部を30年契約で借りているようですが、正にそこへ三人連れ立って参上仕ったわけですね

 

「香蘭女学校」のHPより↓

「 香蘭女学校創立時の敷地は、東京府麻布区永坂町1番地の、子爵島津忠亮(しまず・ただあきら。1849年~1909年。日向・佐土原藩主の島津忠寛の長男。貴族院議員。)邸の一部1,644坪を1888年に30年契約で借りました。(1,702坪説もあり) 」

 

 「奇妙頂来(キミョウチョウライ)」とありますが、「帰命頂礼」の音に乗っけてあるのでしょうか? 「頂来」は当て字?

 「頂礼」は「五体投地」を意味するらしいので、ここは「奇妙」の音を引いて意味の違う四字熟語に乗せてみたのでしょうね。お茶目というか、ユニークなイサさんですね 

また、これには明日、後日談があります お楽しみに〜

 

 以前書いた『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様』でも紹介しましたが、「九良賀野辰彦様」とは、川上イサ&栗川轟の従兄弟にあたる人らしいです。

二人の母親・タネの実弟・島津久籌(島津登の長男) が永吉島津家を継いでいますが、辰彦はその息子の一人(三男か四男)で、『島津家家臣団系図集 下巻』によると、経緯はわかりませんが「九良賀野」を継いだ人のようです。

 

※ ここでは「久良賀野」となっていますが、このあと再会した5月15日では「九良賀野」と書かれています。

ご自分の長男・久良さんの名前から、ついこの文字を書いてしまったのでしょうか 

※ 「永吉の」 とありますが、鹿児島市にある「永吉」の地名のことなのか、それとも「永吉島津家」を指すのかは不明です。 「水上(ミッカン)」は、やはり「水上坂(みっかんざか)」という場所があり、地名のことだと思われますが、、。

この「野元彦十郎様」については、まだよく分かりません。   → これについては後日わかりました↓↓↓

    こちらをご覧ください →『水上の野元彦十郎様も2020-06-23 13:45:22 )』('20.9.29 追記)

 

「水上坂」‥‥‥ 地元では「みっかんざか」と呼び、坂の登り口には「水神様」があります。

鹿児島城から続く街道の途中にあり、参勤交代でも使われた道です。

確か大河ドラマ『西郷どん(SEGODON)』でもその名が出てきたように記憶します。

 


「5月1日(続き) ついに東京入り!」

2020-05-01 15:56:20 | 『都見物日記』

 ここから第四章です。やっと、やっとここまで来ました(ブログアップも遅れ気味。。。苦笑)

前回天竜川や大井川の鉄橋越えを楽しんだイサさん、日記ではそこから一気に東京到着(笑)

 

『都見物日記』(四)‥‥ ①

 

 五・一(つづき) もはや東京。高輪御殿山の下(シモ)てを通り、品川を片脇に見、よき景の所にて有之(コレアリ)、五十三駅の景色も色々眺め候うち、荒井の今ぎれ入海の所など実に感心也。

 いよいよ東京新橋停車場においり(※「降り」の意)、新橋の松元と云う宿屋へつき、此所にてゆるゆるといたし候。私は櫛田の紅葉屋にて四日あとに足の親指 少々けいはき(※この部分 傍点有り)、夫故 痛みはなはだしく、いつもいつも麁匆(ソソウ)々々々々。これは北八の手上(※テウエ)ともいうべく 実に実に大笑い也。 夫(ソレ)が為め両三日(※リョウサンニチ=2、3日)は風呂へもえ入出さず、いがやんばばのちかんちかんちかん (この部分 傍点有り)。ますます色も黒くなり、これはこれは見られたものでなし〳〵〳〵と申し大笑の事也。 早目に私はやすみ候、夕飯も夜入直ぐにたべる也、卅日の夜より一日の夜迄 終日汽車にて随分くたびれ候也

 

 日記にもある通り、さすがに少々お疲れのご様子。それでも笑い飛ばすところは天晴れ

 東京編が始まったばかりですが、さて、明日はどちらへ参られますでしょうか?

※「北八の手上」‥‥「てうえ」と読むのも意味も初めて知りました。辞書によると「その術や力などが他より勝れていること。うわて。」と云うことです。

※「北八」は「喜多八」とも書き、弥次郎兵衛とともに「東海道中膝栗毛」の主人公で滑稽な旅をする人物

 


「5月1日 豊橋を出発、一路東へ」

2020-05-01 15:43:48 | 『都見物日記』

 5月に入りました。前日夕方には豊橋の壺屋という宿屋へ着き、久しぶりにゆっくりと過ごし早目に休んだイサさんたち一行です。

 

『都見物日記』(三)‥‥ ⑦

 

 五・一  今晩(※)は夜中の二時五十分には 此壺屋と申宿より出立、豊橋の停車場まで車にてゆき、夫より三時過には汽車にのり候也。入り海の大きな所などみ、途中にて夜明けいろいろ珍らしき所ばかり眺め、暗やみの処の瀬戸は 汽車も昼はあかりをつけ、十ところばかり通り実に実に感心とも恐ろしともいわれぬ事計り天竜川大井川などにも鉄橋かかりて其上を汽車にて行くもおもしろし。(つづく)

 「暗やみの瀬戸」とあるのはトンネルを指しての表現。「入海の大きな所」は浜名湖か(若) 

 

 「今晩」(※) とありますが、江戸時代は夜が明けるまでは前日の日付であると聞いたことがありますので、もしかしたらその名残りかな? いや、だとしたら昨夜となるかな‥‥

 ということで、豊橋を出たあと浜名湖などを眺めていると、途中で夜が明けた様子。昼間でもトンネルの暗闇では明かりをつける汽車(イサさん、トンネル体験初めてだったのでしょうね)。トンネルを10カ所ほど通りつつ、天竜川の鉄橋も越え‥‥‥

 大井川にかかる鉄橋も越えて‥‥‥(鉄橋を汽車で渡るのはお気に召したご様子のイサさんです

 更に更に、汽車は東へと進みます。(次章へ続く〜