4/19の「出会い」では、その偶然性について尊いことだと述べた。昨今では逆にインターネットの発達や携帯電話所持者の低年齢化による「出会い系サイト」犯罪の増加が見られる。「出会いがあれば別れがある。別れは新しい出会いへの始まり」と夢を持った出会いを語ることが出来ない世の中になってきている。 年々出会いの質は落ちているが、その実質は出会いに関わっている人間の質が落ちてきているからではないだろうか。
人間は文明を培うとともにルールを作り、その中で生きていくことで常識を作りあげた。その常識を守ることで我慢という術を身につける。
これがストレスを産む。これは理性や経験によって上手な対処法を生み出すに至っているのが今までの世の中であった。しかし現在では我慢の限界を超えているのか、ストレス耐性が弱くなっているのか。どう考えても説明のつかないような事件が発生するのである。
普段、理性で抑えている精神を開放することは健康には欠かせない。問題は精神開放の方法なのだ。常識の範疇を外れれば、世間様からのブーイングをいただくことになろうし、違法行為になればペナルティを払うことは当然である。 「人を殺してみたかった。」なんて理由の元に起こったバスジャック事件などは記憶に新しいのではないだろうか。これはただ、キレている状態である。表面的には激しくはないがこれはキレているのである。
本当の意味での我慢をしてきていないのでストレスの矛先を他人に向けてしまうのである。
「食べ物のせいだ。」「教育のせいだ」といろいろ言われてはいるが、その根本は、三つ子の魂百まで(家庭教育)にあるのではないだろうか。
「出会い」という言葉が、本来の意味を失い、インターネットサイトではウィルスソフトのフィルターにかかる。悪い言葉の代表格のようになっている。
出会いを良い言葉に戻したいなぁ。
写真はゆきたんくを除いたゆきたんく一家である。
出会いの賜物の一つである。
でも、僕自身はそんな事は全然無いって思っていますよ。
たしかに事件が多くてそんな風に思われがちなのもわかる気はするのですが残念な気持ちですね。
ちょっと悪いと、全て悪い。「坊主にくけりゃ、袈裟まで」というのは日本人的であり、残念でもあります。