今回は隅田川のボートの写真を取り上げる。撮影年は明らかではないが、昭和15年(1940年)頃から昭和18年頃までの間と思われる。
上の写真は、開成中学校友会艇庫の前での写真で、端艇部とあるのはボート部のことである。下の写真は、右側の建物にペンと剣の校章らしきものが描かれているので、開成中学校の艇庫の全景写真と考えてよいだろう。
上の写真は早稲田大学向島艇庫の前で撮影したものと考えられる。この艇庫は白髭橋の下流、今の堤通り公園の位置にあった。下の写真も同じ艇庫で写した写真であろう。上の写真はお馴染みのポーズだが、下の写真のポーズも定番の一つだったらしい。
上から1番目と2番目の写真は艇庫とその近くである。3番目は浅草の近く、4番目は白髭橋、5番目はその中間であろう。
上から1番目の写真の場所は高圧線の鉄塔が見えるので尾久か、その上流域と思われる。2番目の写真は、水路が狭いので本流ではなさそうだが、その場所は分からない。3番目は直線的な水路であることから、昭和15年開設の戸田漕艇場かも知れない。4番目の写真も戸田漕艇場だろうか。岸には距離標識らしきものが見える。
練習を終えた後の歓談のひと時といったところだが、場所は分からない。昭和15年(1940年)に勃発した太平洋戦争も、緒戦は勝利したものの、その後、戦況は日を追って悪化していく。昭和17年(1942年)、早稲田大学の端艇部は練成部漕艇班となり、平成18年(1943年)になると学徒出陣が始まる。平成19年(1944年)には競技も中止に追い込まれる。
上の写真は、開成中学校友会艇庫の前での写真で、端艇部とあるのはボート部のことである。下の写真は、右側の建物にペンと剣の校章らしきものが描かれているので、開成中学校の艇庫の全景写真と考えてよいだろう。
上の写真は早稲田大学向島艇庫の前で撮影したものと考えられる。この艇庫は白髭橋の下流、今の堤通り公園の位置にあった。下の写真も同じ艇庫で写した写真であろう。上の写真はお馴染みのポーズだが、下の写真のポーズも定番の一つだったらしい。
上から1番目と2番目の写真は艇庫とその近くである。3番目は浅草の近く、4番目は白髭橋、5番目はその中間であろう。
上から1番目の写真の場所は高圧線の鉄塔が見えるので尾久か、その上流域と思われる。2番目の写真は、水路が狭いので本流ではなさそうだが、その場所は分からない。3番目は直線的な水路であることから、昭和15年開設の戸田漕艇場かも知れない。4番目の写真も戸田漕艇場だろうか。岸には距離標識らしきものが見える。
練習を終えた後の歓談のひと時といったところだが、場所は分からない。昭和15年(1940年)に勃発した太平洋戦争も、緒戦は勝利したものの、その後、戦況は日を追って悪化していく。昭和17年(1942年)、早稲田大学の端艇部は練成部漕艇班となり、平成18年(1943年)になると学徒出陣が始まる。平成19年(1944年)には競技も中止に追い込まれる。