戦前、旧長崎村に建てられたアトリエ付き貸家に、多くの若い芸術家が集まり、不自由な時代を自由に生きた。そして戦後、旧長崎村の内に建てられたアパート・トキワ荘に多くの若いマンガ家が集まり、まだ貧しかった時代に新しいマンガの流れを作った。トキワ荘は既に無いが、その跡と現在の町の様子を、前回の池袋モンパルナスに引き続いて見てまわる。
椎名町駅近くの山手通りに隣接する金剛院が、今回の出発地となる。何年か前から進められてきた工事の結果として寺は一新され、いま流行の寺カフェが“なゆた”と言うグーゴルの向こうを張った名前で登場している。区指定文化財の赤門も改修され境内も整備されて、新たにマンガ地蔵が建立されている。菩薩のまま人々を救済するため各地を巡る地蔵も、ここではマンガに心を寄せている。その視線の先にはトキワ荘があるのだろう。地蔵に一礼して赤門を出ると不動尊の祠がある。その前の道は江戸時代からの道で、天祖神社の東側を通って南に向かっていたが、山手通りの開通によりこの道は分断されてしまっている。不動尊の祠から椎名町駅に行く。駅名の椎名町は南長崎の旧称だが、江戸時代には長崎村のうちの小名(小字)で、練馬に向かう通り沿いに民家が軒を連ねていた地域であった。
椎名町駅は改修工事により南北自由通路が設けられている。北口のアトリエ村周辺紹介地図を眺めてから上がると、改札の南側に椎名町駅ギャラリーが設けられていて、ゆかりのマンガ家の展示などが行われている。右側の階段を下ると、“ようこそ!トキワ荘のあった街 椎名町へ”の壁画が出迎えてくれる。この壁画の背景には、インクやペンやマンガの原稿が宙を舞っている。壁画にはトキワ荘に住んだマンガ家とキャラクタが描かれている。玄関の上のテラスには手塚治虫、二階の屋根の上には右から、赤塚不二夫、鈴木伸一、寺田ヒロオ、藤子F不二夫、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、そして地上には左から水野英子、よこたとくお、が並んでいる。そして、その右側の背広姿は確か・・・。
椎名町駅南口に出て、“トキワ荘ゆかりの地・散歩マップ”により、トキワ荘ゆかりの地を確認して西に向かう。突き当りを左に行くと椎名町公園に出る。公園に沿って西に行き次の角を左折、大和田通りを渡って南に向かうと、右側に区民ひろば富士見台がある。ここは、トキワ荘の住人も通った公衆浴場“あけぼの湯”と、石ノ森章太郎が住んだ“あけぼのハウス”の跡で、その事を示す、トキワ荘ゆかりの地・案内看板がある。なお、区民ひろば南側の小庭にある石灯籠は“あけぼの湯”にあったものらしい。
区民ひろばから先に進むと目白通りに出る。右側のドラッグストアの壁面に案内看板(上の写真)があり、ここにマンガ家たちが映画を見に来た“目白映画”があった事を示している。目白通りに出て左側、山手通りとの交差点の南西側角に、マンガ家たちが利用した“エデン”という喫茶店があったが、今は存在せず、その事を示す案内看板が北側の歩道に置かれている。目白通りを右に行くと、マンガ家たちがパンやケーキを買っていた“片山菊香堂”があり、その先には赤塚不二夫が2階のアパートに住んでいた“鈴木園”があった。その事を示す案内看板が北側の歩道に置かれているが、片山菊香堂は既に無く、鈴木園は今も残っているが建物はすっかり変わってしまっている。
さらに西に向かって進むと二又交番があり、左側の目白通りと右側のトキワ荘通りを分けている。この分岐点は江戸時代からあり、左側の葛ケ谷村への道と右側の練馬通りを分けていた。明治になると右側の道は清戸道の一部となるが、大正時代の終わりごろ豊島園が開園すると、目白駅~豊島園のバスが右側の道を通るようになり、洛西館という映画館もあってこの辺りは賑やかな場所となる。1938年に左側の道が拡幅される以前は、右側の道が目白通りであったらしい。右側の道、トキワ荘通りを進むと、“トキワ荘通りお休み処”が右側にある。2013年12月に吉津屋米店のあとを改装して休憩案内施設としたもので、上の写真はオープンした時の様子である。
上の写真は現在の“トキワ荘通りお休み処”で、来館者はすでに5万人を越えている。2階にはトキワ荘の寺田ヒロオの部屋が再現されている。広さは四畳半で、仕事場を兼ね来客もあった部屋としては思いのほか狭い。2階では現在、トキワ荘と関わりがあった雑誌、「漫画少年」についての展示も行われていた。「漫画少年」は、戦前の「少年倶楽部」の名編集長であった加藤謙一が、戦後に講談社を退社したあと学童社を立ち上げて1947年に創刊した子供向けの雑誌で漫画のほか小説や読物があった。また、投稿欄があり多くのマンガ家を育てたが、経営的には苦しかったようで、1955年には廃刊になっている。
トキワ荘通りを西に進む。2015年開設の南長崎マンガステーションの先を右に入る道があり、その奥に子育地蔵の祠が見える。“子育地蔵”はもともと二又交番の場所に道標を兼ねて建てられていたが、1938年の道路拡幅工事に伴い現在地に移されたという。戦前の地蔵の縁日は盛況だったそうだが、1977年になって“子育て地蔵まつり”として行われるようになり、2009年からは8月に開催される“子育て地蔵まつり”と同時に“トキワ荘通りマンガの聖地まつり”が開催されている。
上の写真は去年の“マンガの聖地まつり”の様子で、マンガの聖地にみんなの夢で大きな虹を描きたいとして、夢を描いた応募作品を7色の用紙にプリントし貼り合わせたモザイクアートを通行止めにしたトキワ荘通りに並べていた。
子育地蔵に行く道の西側には、トキワ荘の住人も買い物をした第一マーケットがあったが、現在は無い。先に進んで次の角を右に折れると、左手に“紫雲荘”がある。赤塚不二夫が借りていたアパートで、現在は紫雲荘活用プロジェクトとして、マンガ家を志望する入居者を募集している。なお、“マンガの聖地まつり”の時には紫雲荘も特別公開されている。紫雲荘の少し先、道の左側にトキワ荘の入口があり通路でトキワ荘の玄関に通じていた。トキワ荘の入口と道を挟んで反対側には落合電話局があり公衆電話ボックスがあった。電話など簡単には持てない時代、出版社などからの連絡には電報が使われ、マンガ家達は公衆電話を利用して連絡していた。しかし今、電話局は姿を消し、マンションが建てられている。
トキワ荘通りに戻って西に向かい、案内看板に導かれて右に入ると、“トキワ荘跡地”のモニュメントがある。1982年に取り壊されたトキワ荘の跡地には、現在、日本加除出版(株)の建物が建っているが、2012年、その敷地内にトキワ荘跡地モニュメントが建てられた。
1953年、「漫画少年」を創刊した加藤謙一の子息が新築のトキワ荘に入居し、話を聞いた手塚治虫が四谷の下宿からトキワ荘に移ってくる。それ以降、若手のマンガ家が次々と入居する。漫画少年が廃刊になった1955年頃は、マンガは子供の見るものと考えられていた時代であったが、それでも、トキワ荘に住んでいたマンガ家たちはマンガを書き続けていた。そして、1962年、アシスタントからマンガ家として独立した山内ジョージを最後にトキワ荘からマンガ家がいなくなる。それから20年。老朽化したトキワ荘の解体が決まると、トキワ荘に住んでいたマンガ家たちが同荘会を開き、NHKもドキュメンタリ-番組を制作している。
トキワ荘跡地のモニュメントから、トキワ荘通りに戻る。通りの向こう側の中華料理店“松葉”はトキワ荘が建てられる前からあったらしく、マンガ家たちはよく出前をとっていたという。トキワ荘には共同の炊事場があったが、昼は外食になる事が多かったそうである。
トキワ荘通りを西に進み、次の角を右に入って300mほど北に進むと大和田通りに出る。この通りが開かれたのは昭和の初め頃で、商店が並ぶ通りであったらしい。ここを左に行くと右側に南長崎公園があり、鈴木伸一書き下ろしの“ラーメン屋台”のモニュメントがある。ラーメンを食べている人物のモデルは作者自身らしい。公園から大和田通りを西に行き次の角を左折し、武田ハムを過ぎて南に向かえばトキワ荘通りに出る。その手前の南長崎コーポの北側を左に入った所に、トキワ荘の住人が通っていた“鶴の湯”という公衆浴場があったが今は無く、案内看板が置かれているだけである。
トキワ荘通りに出て右へ行く。二番目の角を左に入ったところに、マンガ家の“田中正雄の仕事場”があったという。トキワ荘通りを先に進むと左側に公園があり、2009年に設置された“トキワ荘のヒーローたちの記念碑”がある。最初にトキワ荘に入った手塚治虫に続いて同じ年に、面倒見が良く兄貴のような存在だった寺田ヒロオが入居する。手塚治虫が雑司ヶ谷の並木ハウスに移った後に、藤子F不二雄と藤子不二雄A(正しくは○にA)が入る。その後、鈴木伸一、森安なおや、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、が入居する。入居者は漫画少年のマンガ投稿コーナーで実力を評価された中から選ばれたという。このほかに、トキワ荘に通ってくるマンガ家もいて、通い組と呼ばれていたが、記念碑のトキワ荘玄関前に置かれているスクーターは、通い組の一人が乗っていたものを表しているという。トキワ荘にはマンガ家のほか雑誌の編集者も訪れており、マンガ家たちの拠点のようであったらしい。なお、2020年にトキワ荘を復元する計画が進行中で、公園内の南側が予定地になっている。
公園の南西側を出てNTTの建物の南側を西に向かい、突き当りを右に行くと左側に“南長崎スポーツ公園”の入口がある。ここを入ってグラウンドに沿って進み、目白通りに出て右に行くと、スポーツセンタの建物の前に、寺田ヒロオのマンガによる“ゼロ”のモニュメントが置かれている。寺田ヒロオは子供の心を清く正しく育てると言う「漫画少年」の理念を受け継いだマンガ家であったらしい。
昔は十三間通りと呼ばれていた目白通りを先に進むと、道路はやや左に曲がるようになり、その先の右側に“南長崎はらっぱ公園”がある。公園の西側の道を北に行くと、バスも通るトキワ荘通りに出る。ここを左に行くと、右側に“特別養護老人ホーム風かおる里”があり、森安なおやのマンガ「いねっ子わらっ子」の“マコちゃん”のモニュメントが置かれている。森安なおやは、性格の点もあって、トキワ荘のマンガ家の中では唯一の落ちこぼれになってしまったが、その抒情的で繊細なマンガの評価は高いらしい。
特別養護老人ホームの西側の道を進み、三番目の四つ角を右に行き300mほど歩くと東長崎駅に出る。駅の南北自由通路に上がると、右側に手塚治虫の「ジャングル大帝」の“レオ&ライヤ”のモニュメントが置かれている。今回のコースは、ジャングル大帝と何がしかの縁がある西武池袋線の東長崎駅が締めとなる。
<参考資料>「池袋学2014、2015」「トキワ荘のヒーローたち・企画展図録」「”椎名町物語””トキワ荘ゆかりの地散策マップ”などパンフレット」