夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「青春」という名の詩、改めて77歳の私は学び、やがて独り微苦笑して・・。

2022-06-20 15:52:56 | 真摯に『文学』を思考する時

先程、ぼんやりと脇机にある書類を整理していたら、
一枚のプリントされた用紙を長らく見つめたりした・・。

確か10年前の頃、雑誌を読んでいたら、感銘してしまい、
転記してしまいこんだひとつである。

《・・「青春」という名の詩

             幻の詩人サムエル・ウルマン
                     宇野 収
                     作山宗久 著
   青春
       サムエル・ウルマン
 
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意思、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 
青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。
 
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥になる。
 
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
 
霊感が絶え、精神が皮膚の雪おおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして巳む。・・ 》



このように転記していたが、遅ればせながら、私は67歳の頃に、
初めて読んだりして、微苦笑したりした。

それまでの私は、その人なりの青年期を終えて、大人の扉を開いた時に、
『青春』は終わりを告げる時期・・と思ったりしていた・・。



私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で、交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
クラブとしては写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったりした。

こうした中、女子部のひとり生徒に魅了されて、
新宿御苑などに行ったりして、木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下してしまった。



この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったりした。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は言われしまったりした。


結果として、私はある大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。

そして次兄は高校時代は山岳部、大学時代はワンター・フォーゲル部に所属し、
何かと山の魅力を私は聞いたりした影響もあり、
私は漠然としながらワンダー・フォーゲル部に入部し、山歩きをしたりしたが、
やはり映画館には相変わらず通っていた・・。

そして秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、
都心はもとより、周辺も日増し毎に大きく景観が変貌していた・・。

そして私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。



東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

やがて東京オリンピックが終り、翌年の1965(昭和40)年1月から、専門養成所に入学した。

この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉学院長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
アメリカの白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては、破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。



この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。

そして、この講師から新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしたアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界の方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、監督、そして撮影、照明などのスタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、改めて教示させられた。

私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。



私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。

そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子を養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。



やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。

この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。



このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。



同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだりした。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
この当時として、ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たりした。



そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

映画の脚本、小説の創作にも、あえなく敗れ、私の彷徨した時代に終わり、
遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。



まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこの新設された外資のレコード会社に転籍させられ、
企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたりした。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、
改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。

こうした中で、一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、
私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったりした・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたりした。



このように拙(つたな)い青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない身も心も黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは誰しも叶(かな)わぬ夢であるので、
私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりした。




年金生活18年生の昨今、相変わらず亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、
恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら歓談したりしている。

こうした中、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしているので、
安楽な晩秋期を享受している。
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又吉直樹さんの『火花』、芥川賞受賞作品をめぐる騒動に、微苦笑させられ・・。

2015-08-15 09:50:01 | 真摯に『文学』を思考する時
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして何かと読書に魅了されて早や55年が過ぎている。

こうした中で、月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』に関しては、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の頃から特集に魅せられた時は買い求めて、
やがて1970年(昭和45年)4月より、毎月購読して今日に至っている。

そして文藝春秋が実質上主催となっている公益財団法人 日本文学振興会が制定する『芥川賞』が、
年に二回の選考が実施された結果、
受賞作品が、『文藝春秋』の誌上に、選考委員の選評と共に掲載されている。

私は掲載された『芥川賞』受賞作品をリアルタイムで精読したのは、
確か1965年に始まりと記憶していたので、津村節子さんの『玩具』が最初で、
最後は三田誠広さんの『僕って何 』(1977年)であった。

これ以降は、選考委員の選評だけは読み、受賞作品は殆ど読んだことはなく、過ごしてきた。
          

過ぎし7月16日に第153回芥川龍之介賞の選考委員会が開催され、
やがて又吉直樹さんの『火花』と羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』が受賞作に決まった事に関し、
テレビのニュースで知った。

そして又吉直樹さんについて、テレビや新聞などで盛んに取り上げられて、
人気お笑い芸人、と私は初めて知ったりした。

やがて私は、作家・丸山健二さん(1966年、芥川賞受賞作『夏の流れ』)が、
1994年に上梓された『まだ見ぬ書き手へ』(朝日新聞社)を思い浮かべた・・。

小説を志す人たちの中にはおらず、文学なんぞ青くさくて話にもならないと思い、
他の世界できちんと現実に立ち向かいながら、着実な仕事振りをしている方・・
こうした方に小説を公表して、文学の活性化を念願している・・
確かこのような内容と私は記憶していた。
          

この後、7日の朝、いつものように読売新聞を読んでいたら、
出版広告として、『文藝春秋』(9月号)と『中央公論』(9月号)が、
本日発売と表示されていた。

通常は10日発売の月刊総合雑誌であるが、
数多くの民間会社が夏季休暇は12日から始まると知ったりしてきたので、
少し早めたかしら、と思ったりした。

やがて『文藝春秋』は、恒例の芥川賞に於いて受賞作が掲載されてきたが、
今回は話題の又吉直樹さんの『火花』も掲載されているので、
出版業界は不況の中、又吉直樹さんの『火花』が単行本が爆発的に売れている中、
相乗効果で、今回の9月号は少し早めたかしら、と私は微苦笑したりした。


そして当日の7日の午前中のひととき、駅ビルの本屋に立ち寄り、
『文藝春秋』(9月号)を見たりしたが、近くに厚い『文藝春秋』があり、
何かしら特別付録として、昭和2年9月『芥川龍之介追悼号』が付いていたので、買い求めたりした。。
             
             
やがて二日遅れで、久々に芥川賞受賞作品の又吉直樹さんの『火花』だけを読んだりした・・。

そして又吉直樹さんの『火花』は、純文学を意識してか少し固い文体もあるが、
独自性もあり、描写が新鮮で好感した。
ただ苦言を呈すれば、終末に描かれた《胸豊》はない方が圧倒的に良質の作品に完成した、
と私は感じたりした。


昨夜、ネットで月刊『創』編集長の篠田博之さんが、
『皆、遠慮して言わないけど、『火花』が209万部ってどうなの?』と題された寄稿文を読み、
やがて微苦笑させられた。

無断であるが記事の前半部分を転載させて頂く。
          

《・・又吉直樹さんの『火花』の発行部数が209万部に達したという。
電車の広告ではいまだに「120万部突破」と書かれている。
広告を差し替えるのが追いつかないほどの勢いで増刷がかかっているのだ。
7月半ばの芥川賞受賞発表までは60万部強だったから、半月で100万部以上の増刷がかかったわけだ。

いま出版界は深刻な不況で、特に文学とノンフィクションのジャンルは本が売れないから、
業界がこぞって『火花』ヒットさせようとしたのはよくわかる。

特に芥川賞はこのところ、受賞が話題になることが多いから、今回も関係者はいろいろ考えたのだろう。
その結果、予想をはるかに上回るベストセラーが誕生したわけだ。
業界の多くの人がほっとしたし、これが起爆剤になって少しでも出版界が活性化すれば、と思ったことだろう。
          

でも、どうなんだろう。
そのブームはいまや独り歩きしてしまっているし、こういう現象って本当に出版界にとって良いことなのだろうか。
出版界ではこの10年程、「メガヒット現象」と言って、特定の本に売れ行きが集中し、
それ以外は本や雑誌がさっぱり売れないという状況が加速している。
今回の現象はそれを象徴する事柄だ。

お笑いの世界でもブームが訪れては翌年にはそれが消えていくという現象が続いているが、
『火花』のブームも「お笑い芸人が初めて芥川賞受賞」という話題性が、
普段本を読まない人にも関心を抱かせる要因になっているのは明らかだ。

購買動機が「話題を消費する」ことだから、『火花』の売れ行きが爆発的であっても、
それが他の文芸書に波及していくとは思えない。

『SPA!」8月11・18日号の「文壇アウトローズの世相放談『これでいいのだ!』」で文芸評論家の坪内祐三さんが
こう語っている。

「今回の芥川賞に関しては、周りのはしゃぎっぷりは見苦しいね。
『週刊文春』のグラビアでさ、選考委員の島田雅彦や山田詠美たちが又吉さんを囲んで嬉しそうに写ってたでしょ。
あれはサイアク。芸能と文学は五分と五分のはずなのに、あれを見ると文学が芸能に負けちゃってるんだよ」

「芸人が獲ったってだけで、こんなにみんなはしゃぐなんて、
今回の芥川賞で、いよいよ文学が滅びたなって感じがするんだよ。
少なくともオレの考えてる文学は滅びた感じがする。又吉さんの作品が文学なだけに、それが際立つよね。
文学的な作品が芥川賞を獲って、それで文学が滅びたってところがいいよね」

断っておくが、又吉さんの『火花』が作品としてだめだと言っているのではない。
それを文学として評価したうえで、今回の騒動については「文学が滅びた」と言っているのだ。
          

この何年か、出版界では「良い本が良い本だという理由だけで売れる時代は終わった」と言われている。
映像化によってブームを作り出すとか、何かの賞を受賞して話題になるとか、
そういうプロモーションを行っていかないと、良い本でもヒットは望めないという状況なのだ。

文藝春秋にプロモーション局が設置されたのは2012年だ。
そのプロモーション主導で作り上げたミリオンセラーが阿川佐和子さんの『聞く力』だった。
いや別に阿川さんの本が、中身がないのにプロモーションで売ったと言っているのではない。
でもあの本がミリオンセラーになっていったのを見ると、マーケティングとプロモーションの勝利だという印象は否めない。

最近は、本は「一部の売れる本とそれ以外の本」に大別されると言われる。
文藝春秋も新潮社も、ごく一部のメガヒットとなった本の売り上げで書籍部門全体を引っ張るという構造が定着しつつある。
特定のメガヒットとなった本を除くと、書籍部門が対前年比マイナスだったりするのも珍しくない。

文藝春秋がプロモーション局を作ったり、新潮社が「映像化推進プロデューサー」という妙な肩書のスタッフを置いて、
文芸作品の映像化を意識的に働きかけたりしているのはそのためだ。
何らかの仕掛けによってベストセラーを作り出すというのを、意識的にやっていく、それが当たり前の時代になった。
同じ作家の作品でも、映像化などで話題になったものとそうでないものとでは部数に極端な違いが出たりする。

今回の『火花』の芥川賞受賞や、それを機に一気に何十万部も増刷をかけ、
「100万部突破」というニュースによって話題を加速していくという手法は、『聞く力』で成功したやり方だ。
文藝春秋も幾つかの経験を経て、プロモーションがうまくなっているといえる。

その手の手法としては、ドラマ化・映画化はもちろんだが、何かの賞をとらせて話題を作る、
あるいは年末のいろいろなランキングに作品をすべりこませ、それを宣伝に使っていくなど、
大手出版社ではそれが当たり前になりつつある。
          

戦後、日本の出版界は一貫して右肩上がりの成長を続け、
経済的な不況に陥っても本だけは読むというのが日本人の特性と言われてきた。
出版界にとっては、牧歌的で幸せな時代だった。

しかし、その出版界は1990年代半ばをピークにいまや落ち込む一方だ。
本が売れないと言われるなかで、ヒットを出すには何らかの「仕掛け」が必要になった。

その意味では『火花』は幾つかの仕掛けが完璧に功を奏した事例だろう。でも、
それが100万部を超え、200万部を超え、という異常なブームになってしまうと、喜んでばかりはいられない気もする。
作品の消費のされ方が、お笑い界のブームや、健康本が一過性でブームになってしまう経過とよく似ているのだ。
これって出版界にとって健全なことなのか。

救いなのは、こういうブームのなかで、当事者の又吉さんが決して浮かれていないように見えること、
あるいはこの現象を冷静に受け止める空気もまだ残っていることだ。 ・・(略)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私のつたない読書歴としては、純文学の世界に関して、
瀬戸内寂聴さんが晴美と明記していた1955年(昭和35年)の頃、
『純文学の(単行)本は3000部程度で、これ以上は何かしら加味されたもの・・』
後年に私は、このような意味合いの言葉を学んだりした。

まもなく石原慎太郎さんが『太陽の季節』で芥川賞を受賞された1955年(昭和35年)、
起爆剤ように社会現象として波及し、時の人となり、
出版業界はやがて日本の高度成長と共に活性化し、隆盛の時代となった。

これ以前、前年に芥川賞を『 白い人』授賞された遠藤周作さんは、
授賞も平穏で、授賞したから出版社から特別な注文はなかった、と私は後年読んだりした。


昨今、出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。


そして数か月前、私が衝撃を受けたは、1996年に『家族シネマ 』授賞された柳美里さんが、
インタビューした記事の中で、
《・・多くの作家が経済的に困っている状態ということですか、と問いに、
柳美里さんは、「書くことだけで食べている作家は30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、
かなりリアルな数字だと思います。
ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。・・》

こうしたことに私は動顛させられた。
                    

そして私が勤めていた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。

こうした中で、音楽業界、出版業界も堅実に利益を出して発展する為には、
世界の他分野の主力な巨大企業でも、徹底したマーケティングが実施されているので、
文化的な出版業界、音楽業界、一部の突出したことが現象がでている実態は、
私はやむえないことと思っている。

そして一部の突出したことが現象は、ネットの社会でも露呈しているが、現状である。

今回の又吉直樹さんの『火花』が若き人が買い求められたと知り、
これを機会に若き人の多くが小説を読み、本を買い求めて下されれば、と私は念願している。


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鴻上尚史氏が創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言、と若き日に敗退した私は確信し・・。

2012-10-04 15:44:09 | 真摯に『文学』を思考する時
私は遠い昔、東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。

そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した身である。

この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とかこの当時は大手の音響・映像のメーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。

そして、このレコード専門会社の情報畑、管理畑など35年近く奮戦して、
2004〈平成16〉年の秋に、定年退職となり、その後は年金生活をしている身である。


先ほどパソコンを開き、トップページとして【YAHOO! JAPAN】を設定しているが、
たまたま【雑誌】コーナーを見たりしていたが、
この中のひとつの見出しに、《 脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること! 》
と明記され見出しを見て、思わず読んでしまった・・。

そして私は恥ずかしながら鴻上尚史(こうかみ・しょうじ )氏に関しては、
無知であったが日本の劇作家・演出家と知り、
舞台の戯曲、テレビの脚本、小説、エッセイを書いてきたとお方である、と学んだりした。

たまたま私は読み終わった後、まぎれなく創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言である、
と若き日に敗退した私は確信を深めたりした・・。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121004-00000500-sspa-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==【雑誌】
       <==【週刊SPA! 】<==鴻上尚史『脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること!』☆

そして創作者をめざす諸兄諸姉に氏から最適な助言である、と確信を深めている私は、
ネットに表示されたのは読みづらく、あえて改行を多く転載させて頂くので、
ご興味のある方は読んで頂きたい、と熱望する。
《・・
        鴻上尚史『脚本の書き方のポイント…基本はとにかく完結させること!』

★鴻上尚史「ドンキホーテのピアス」

しこしこと、10月30日から始まる虚構の劇団『イントレランスの祭』の台本を書いています。
書いては気分転換を求めて、ツイッターを眺めたり、無理して書き込んだりしています。
「どうしたら脚本を書けるんですか?」という質問をツイッターで受けました。

「先輩は『とにかく終わらせることだ』とアドバイスをくれるんですが、
最後まで書けないんです」と文は続いていました。
「とにかく最後まで終わらせること」というのは、一番基本のルールです。
どんなに傑作でも、途中で終わっているものは評価の対象にはなりません。

多くの作家志望の人達は、途中まで書いた作品を抱えているはずです。
すべて、途中で「面白いとは思えなくなった」とか「アラが目立って前に進めない」とか冷静な判断力が働いた結果です。

書いている途中から「おおっ、すごいぞ!これは傑作だぞ!」なんて感激している人がいたら、天才かアホです。
たぶん、99.9999%アホでしょう。
書けば書くほど、いろんなアラが目立つものです。
この発見が、作品を書き続ける推進力を弱めます。

そういう時は、確信を持って、そのアラに目をつぶります。
なぜなら、それが本当にアラなのか、物語上必要な“ゆるみ”なのかは、物語が完結してみないと分からないからです。

作品は、どんな形であれ、最後までたどり着いて初めて、何が必要で何が必要じゃないか分かります。
逆にいえば、最後までたどり着かないのに、駄作か傑作か判断のしようがないのです。

と書きながら、やはり、途中で行き詰まることはあります。
物語がにっちもさっちもいかなくなる場合です。
「台本の書き方レッスン」の本を出すと10年以上前から言っていますが、まだ書けていません。
えらいこってすが、ちょっとだけここに書きます。

■物語に必要な「目的」と「障害」

物語が行き詰まった場合、「目的」のレベルなのか、「障害」のレベルなのかを、まず見極めます。
「目的」のレベルというのは、つまり、あなたが今書こうとしている登場人物は、
この時点で、「どんな具体的な目的を持っているのか?」ということです。
じつは、「具体的な目的」がない登場人物は、動けません。
「地球を救いたい」といくら念じていても、「だから具体的に何をしたいのか?」ということがない人物には、
具体的にやることはありません。
ただ、祈るか心配するだけです。
それでは、ドラマは生まれないのです。

あなたが書こうとしている物語も、じつはもう「目的が実現している」場合や
「目的が矛盾している」場合や「目的が抽象的すぎて何をしたらいいか分からない」場合があります。
それを整理し、明確にするのです。
具体的な目的が多すぎて行き詰まるということもあります。
やりたい目的に順番がついてないので、登場人物は何から始めていいか分からず動けないのです。

「障害」のレベルというのは、その具体的な「目的」の実現を阻むために、ナイスかチャーミングか意外か切ないか、
とにかく心動く「じゃまするもの=障害」があるかどうかを見極めることが大切です。
じつは「障害がない」場合や「障害が抽象的すぎる」場合や「障害が簡単に乗り越えられる」場合などがあります。
今、この人物は何がしたくて、でも、何のせいでそれが実現できないのか--ということを常に明確にするのです。
もちろん、大前提として「そもそもこの人物は何がしたくて、何がそれを阻んでいるのか?」という物語全体の設定は大切です。
ですが、その大きな設定の中で各場面では細かな「目的」と「障害」のぶつかり合いが求められます。
それがドラマであり、前に進む力なのです。

そして、「目的」と「障害」が明確になっても、
どうしてもシーンが浮かばない場合は「ここで主人公は何らかの方法で迷宮を脱出して」と書いて、次に進むのです。
細かなことは大切ですが、それは最後まで完成した後に考えることなのです。

とにかくどんなにぶさいくな形でもいいから、最後まで書き終わらせること。
それは完成ではなく、やっと執筆が始まる瞬間なのです。

そこから全体を見直し、本当の意味で作品を書き始めるのです。

週刊SPA! 10月4日(木)14時0分配信
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

このような氏からの創作者をめざす諸兄諸姉に最適な助言、と私は深く確信しているので、
ぜひ今回の氏の助言を参考に、創作活動に励んで頂きたい、と若き日に敗退した私は切望する。

もとよりこうした思い私の心の根底には、私は敗退した身であり、
たまたまこの記事に接して、創作者をめざす諸兄諸姉に少しでも氏からの助言に学んで頂きたく、
高齢者となった私としては、若き時期に挫折した体験を若い人たちに繰り返してほしくなく、
あえて投稿した次第である。

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清水良典・著『あらゆる小説は模倣である。』の紹介文を読み、敗退した私は 苦笑し・・。

2012-09-02 17:37:22 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞を読み、ひとつの小さな記事に微苦笑させられた。

13面の【文化】面において、恒例の『本よみうり堂』の中のひとつに、
『文庫新書』のコーナーがあり、最近に発刊された文庫本、新書本の何冊か紹介している記事がある。

今回は4冊の本が紹介された中で、
《 『あらゆる小説は模倣である。』 清水良典著 》
と題されたタイトルに瞬時に魅せられて、紹介分を読んでしまった。

《 村上春樹がデビュー作の翻訳を許可しないのはなぜか。
  英語にしてしまうとある米作家の作品を踏襲していることがわかってしまうからだとと著作者は推測する。
  ほかにも寺山修司、芥川龍之介などの事例を元に「模倣」と「盗作」の境界線を提示し、
  作家志望者に対して「巧みに模倣する」ことを勧める。
  最終章では実習課題も。
                (幻冬舎新書、800円)》
              
このように記載され、私は若き日に映画・文学青年の真似事をして敗退した身でも、
思わず苦笑させられてしまったのである。

人は誰しも、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。
或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたり、
或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者には到底なれないと自覚させられ、創作者にあこがれるが、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。

従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。
或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。


私は1955(昭和30)年の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。
そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
川端康成の影響を感じられるが、何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
もとより同世代は、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍していたが、
私は明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社でご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。
氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・
私の経験から言うと、
作家志望者のほとんどが実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。
ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。
・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言である。


そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだのである。

若き日に私のが、たとえ純文学の新人賞を得ても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などにありつければよい方だろう・・。
そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。


このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


ここ10数年の出版業界の不況を読書好きな私は憂いたりしている。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年の10月で読売新聞社・主催の講演会で、
発言されたことを思い重ねている。

《・・
私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、
源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。

しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。
目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだんもちきれなくなっている。
(2009年12月3日 読売新聞)一部を引用
・・》

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

こうした中でも、創作家は烈風の時代の中に於いて、
一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感のためか、敬意し絶賛してしまう深情がある。

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小説家になれなくてよかった、と齢ばかり重ねた今、苦笑して・・。

2012-08-27 13:38:00 | 真摯に『文学』を思考する時
私は1955(昭和30)年の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953(昭和28)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
我が家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

私は地元の小、中学校を卒業した後、
初めて都心の高等学校に通い、満員電車に乗り、都心の新宿の情景を観ながら、通学したりし、
都心の中学校を卒業した同級生と交流を深めながら、都心の空気に満喫したりしていた。

このような下校のある日、私は生家の最寄駅より、トボトボと歩いて帰宅する時であった。
近くの旧家が田畑を売り払い、新たな10数軒の家並みを観たりすると、
幼年期の頃の思いを重ねたりすると、愛惜が増したりした・・。

この後、ぼんやりと変わらないものは・・と思ったりしていると、
作曲家のモーツァルト、ショパンが浮かび、幾たびか戦時をあり、祖国の領土も憲法も変わっても、
確かに現世の人々に時代を超えて聴かれている事実に気付かされたのである。

芸術家かょ、と思いながらも創作される人に、あこがれ魅了させられた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、
初めて習作した。
私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
川端康成の影響を感じられるが、何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞していたが、
脚本家の橋本 忍さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
もとより同世代は、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍していたが、
私は明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

そして純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

その後、やむなくサラリーマンに転職する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
何とか大手の民間会社に中途入社して、まもなくレコード会社が新設され、
私も移籍の辞令を受けて、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。


私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだのである。

たとえ私の場合、まぐれて純文学の新人賞を得ても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多いカルチャークラブの文藝講師などにありつければよい方だろう・・。
そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。


このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


そして私は、この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然といる。

こうした方の前では、創作家の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感のためか、敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。

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作家の素質と創作のエネルギー、作家・曽野綾子さんの御著作より、つたない私でも深く学び・・。

2012-07-19 12:19:29 | 真摯に『文学』を思考する時
昨日の午後のひととき、私は本棚に向った時、単行本の並んだ列の上に、
一冊の雑誌があったので、取り上げた。

そして総合月刊雑誌のひとつの『新潮45』の2008年11月号であったので、
どうして古い雑誌が保管していたのかしら、と思ったりした。
手に持った私は、この雑誌の中に栞(しおり)があったことに気付き、
このページを開いた・・。

そして曽野綾子さんの『作家の日常、私の記事』と題された寄稿文で、
この中の第二章の「シンナーとミルフィーユ」の一部に於いて、
私は赤いポールペンで線を引いていた・・。

《・・
文章を書く作業は、「ミルフィーユ(千枚の葉)」というお菓子の名前が示すように重層的な構造を持っている。
根本のところでは、一重ずつ意識した自己の真実を重ねて行くことが必要だが、
表現はただ現実をそのまま述べればいいということではない。

表現はそれを効果的に伝えるために
ほんとうの意味で充分に技巧的でなければならない。
つまり虚構も真実もないまぜということだ。
最低限の嘘と底抜けの真実を承認できない人は、作家にはなれない。

しかし作家にとって、長い年月書き続けるという純動な作業を可能にするには、
充分に醸成された私怨だということはできる。
ユダヤ人として生きる私怨、
障害を持つという私怨、
戦争によって生を脅かせされた私怨。
なんでもいい。
この世に私怨を持たぬ人などないだろう、と私は思う時がある。

すべての私怨が、なまの臭気を失うほど充分に熟成した時、
初めてそれは継続的な創作のエネルギーになるという素朴な過程が、
私の場合にも当てはまるように思うのである。
・・》

私は年金生活をしている67歳の身であるが、日常の大半は、
随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

定年後は、特に愛読しているのは塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、阿川弘之、高峰秀子、
各氏の作品に深く魅了され、この著作された人たちを主軸に購読してきている。

私が初めて作家・曽野綾子さんの作品を読んだのは、
講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集からであった。

この文学全集は、確か1965(昭和40)年の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であり、
大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であった。

これ以前の私としては、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んでいたが、
この『われらの文学』は、この当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集に寄り、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第16巻として『曽野綾子、北 杜夫』が、
1966(昭和41)年5月に発刊されて、
私は初めて曽野綾子さんの『たまゆら』、『遠来の客たち』を含む8作品を初めて精読した。

これ以来、ときおり読んできたが、私はサラリーマンの多忙時期に重なったりし、
ここ5年は見逃してきた曽野綾子さんの作品を購読している。


私は1963〈昭和38〉年に大学に入学したが、この少し前の頃から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた体験も加わり、
これが原因で翌年に大学を中退し、シナリオライターをめざして養成所に入所し、
アルバイトなどをしながら、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、講師の知人のアドバイスを頂き、小説の習作に移り、
契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、文学青年のような真似事をして、
こうした中で純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌としては『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合月刊雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。

この当時の私は、アルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。

その後、何とか民間会社に中途入社したく、コンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
この当時としてある大手の音響・映像メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
まもなく一部門の音楽のレーベルが外資元の要請で、レコード会社として新設され、
私も移籍の辞令を受けて、その後35年近く音楽業界のあるレコード会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。

このように私は民間会社を定年退職するまでは、何かと屈折と劣等感の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。

あたかも満天の星空の中で、片隅に何とか目を凝(こ)らせば見えるぐらいの星のひとつのように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、特技はなく、かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、
といった楽観にもなれず、いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した・・。

私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をして、あえなく敗退した時期もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章の表現力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、構成なども配慮したりしている。

私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が遺され随筆の『方丈記』等があるが、
この方の数多くの遺(のこ)された中のひとつに準じる随筆を綴れれば、本望と思っている。

そして私の死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かな随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、
と思って頂ただければ幸いという思いがある。

このような思いが、私としては拙(つたな)いなりに秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日少なくとも一通は投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ誰しも光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影を余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。

このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
私にとっての年金生活は暇、安楽というのは死語である。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
定年後はブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、と深刻に考えたりすることがある。

こうした私なりに、秘かな野望が挫折した時、
数多くの拙〈つたな〉い投稿文が残して、涙を浮かべて振り返った時、
のちの想いになることだけは確かだ、と思いながらも日々投稿文を認(したた)めている。


このような思いを秘めている私は、今回、改めて作家歴50年の曽野綾子さんより、
作家の素質と継続的な創作のエネルギーを再読しながら学んだりした。

そして、何よりも創作をされて文筆で生計をめざしている若き諸兄諸姉、
曽野綾子さんの名言のひとつが、何かと参考になれば、という思いで私は今回あえて長く綴った。

尚、この曽野綾子さんの『作家の日常、私の記事』の連載が終り、
単行本として、今年の4月20日に於いて、『堕落と文学 ~作家の日常、私の仕事場』(新潮社)と題され、
発刊されている。
そして私も、買い求めて精読したひとりである。

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阿川尚之さんの寄稿文『優れた作家は文章のみで・・』、言霊を信愛する私も微笑み・・。

2012-05-14 08:10:51 | 真摯に『文学』を思考する時
昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
思わず私は、そうですよね、と共感させられながら、読了後に感銘を受けた記事が掲載していた。

9面の【文化】面の週間定例の『本よみうり堂』があるが、
この中に月次の定例記事の『空想書店』があり、
今回は慶応義塾大学の阿川尚之(あがわ・なおゆき)教授が寄稿されていた。

氏は数多くの作家の解説文も綴られ、私も多く読みながら幾たびか感銘を受けた優れて文を書かれる方で、
もとより氏の父上は作家・阿川弘之さんで、妹君はエッセイストの阿川佐和子さんである。

氏は港から観える船を見ることが好きらしく、
こうした地点で書店を開くことを空想していることなどを綴っている。
この後、
《・・
けれども店主が一番大事にしているのは、船や船旅を描いた小説や詩集である。
優れた作家は文章のみで、生き生きと船を描く。
文章を読めば船が好きであるとわかる。
(略)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

この後は、過ぎし時代に船が隆盛した時代に思いを重ねて、愛惜を綴っている。

そして恒例の推薦作品の『店主の一冊』として、
氏は北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を選定し、
《船に乗って海に出たい。外国に行きたい。
少年の私にそう思わせた本。
潮騒と風の唸(うね)り、溶岩のうねりのような湧き立つ波頭。これが海だ。》
と記している。

私は読みながら、作家・北 杜夫・著作の『どくとるマンボウ航海記』を思いだしながら、
文章だけて確固たる情景、心理描写などを的確に表現させていた作品、と改めて感じたのである。

そして紀行作家・宮脇俊三さんが中央公論社の編集時代に、
北 杜夫さんが作家としての地位を確立する前に、幾たびか勧誘して『どくとるマンボウ航海記』を書かせたことは、
読書好きな人たちでも、今や伝説となっている。

そして宮脇俊三さんは、後年に『ザ・文章設計』第14号で1988〈昭和63)年6月に、
『文章と写真と』と題して綴られている。

《・・
「若い精神科医が水産庁の調査船に乗って、アフリカ沖からヨーロッパのほうへ行っている。
筆のたつ人らしい。小説も書いている」

という情報が入ってきた。昭和34年の春のことだった。
当時の私は出版社に勤めていた。
そして、外国旅行は高嶺の花の時代だった。

その「小説も書く若い精神科医」が帰国するのを待ちかまえて、私は航海記の執筆を依頼した。
その際、旅行中のたくさんの写真も見せていただいた。
珍しいものばかりだった。
写真もふんだんに入れた本にしょう、と私は思った。

半年ほどで原稿が完成した。
その出来ばえは期待をはるかに上回っていた。
眼を見はるほど自由闊達で伸びやかな、若い心が躍動するような文章にはユーモアさえ溢れていた。

その文章に魅了された私は、すっかり満足し、写真を挿入することなど念頭から消えてしまった。

翌年の春、写真なしの外国旅行記という当時としては珍しい本が出版された。
が、文章の魅力が読者をとらえ、たちまちベストセラーになった。
北 杜夫・著『どくとるマンボウ航海記』である。

編集者として思わぬ幸運に調子づいた私は、「世界の旅」全10巻というシリーズを企画した。
既刊の外国旅行記を地域別に集めるというシリーズである。
写真も各ページごとに挿入することにした。
旅行記には写真は欠かせないのが編集の常道であった。

第一回の配本は目玉商品として『どくとるマンボウ航海記』を収めた。
こんどは写真が何十枚も本文に割って入った。

ところが、刷り上がった見本に眼を通しているうちに、私は愕然とした。
写真不要、いな邪魔! せっかくの文章の魅力を減殺さえしているのである。

『世界の旅』シリーズに写真を挿入しょうとの編集方針がまちがっていたとは思わない。
しかし、他の収録作品の著者にたいしては失礼にあたるが、
第一級の紀行文には写真など無用にして無縁なのだ。

そういえば、内田百の『阿房列車』に写真はいらない。
『おくのほそ道』に写真を入れたらナンセンスだろう。
文章とは写真などとは次元のちがうところで成立する精神の作用なのだ。

と深く思い知らされた私は現在の職業は「旅行作家」。
すでに20冊もの本を出させていただいたが、写真入りの本は、やむえぬ事情により1冊を除けば他にはない。
文章の作用は写真なんぞ遠く及ばない、という私の心意気なのである。
(略)
・・》
注)著者の原文より、あえて改行を多くした。


私は中小業の民間会社を35年近く勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作を少し体験し、幾たびか校正したりしてきたが、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

しかし拙〈つたな〉い投稿文でも、その時の心情を素直に綴れば、幾年か過ぎた後、
のちの想いになることは確かだ、と思い原則として日々投稿文を認(したた)めている。

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映画『ドクトル・ジバコ』の原作者ボリス・パステルナーク、創作者の発想の根源には・・。

2012-05-02 11:17:07 | 真摯に『文学』を思考する時

私は昨日の昼下り、居間にある映画棚より、ビデオテープを取りだして、
デビット・リーン監督の『ドクトル・ジバコ』(1966年=昭和41年)を居間で観たりした。

私は洋画の分野としては、この監督の数多くの作品に敬愛しているひとりなので、
名作の数々を繰り返して鑑賞しているが、昨日はこの『ドクトル・ジバコ』を5度目かしらと思いながら鑑賞した。

もとよりこの『ドクトル・ジバコ』の原作者は、
ロシアおよびソ連の詩人・小説家のボリス・パステルナーク(1890年~1960年)である。

ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説であるが、
この当時、アメリカとソ連の冷戦下の時代に、1957年に作品は完成したが、
ロシア革命を批判する作品であると考えられたために、本国のソ連での公刊を拒否された。

そして、密かに国外に持ち出され、1957年にイタリアで刊行され、
世界的に知られることになり、世界の文学史上はもとより、社会的に大きな事件として報道された。

そして今や伝説となり、以下は多くのメディアに報じられている。
翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、
KGBとソ連作家同盟による反対運動の末、
受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは
『母国を去ることは、死に等しい』と言い受賞を辞退した。

そしてソ連の共産党は、この『ドクトル・ジバゴ』の作品は、
『革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである』と非難した。
この当時『社会主義革命の輸出』をしていたソ連政府にとっては、
『ロシア革命は人類史の大きな進歩である』という見解に疑問符をつけることは許しがたいことであった。

やがてパステルナークは1960年の肺癌による死去されたが、
パステルナークに対する反対活動はソ連の国際的信用を傷つけることとなった。
そしてパステルナークは今日までロシア文学界に於ける主要人物であり、
さらに、パステルナークが始めた反体制活動は、
アレクサンドル・ソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、洗練され、拡大していった。

その後、この作品がソ連で刊行されたのは、1987年のことである。

こうした歴史に翻弄されたパステルナーク、そしてこの作品が、
映画に於いては、脚本担当として劇作家のロバート・ボルトが、
原作の小説よりジバコとラーラの愛の軌跡に焦点を絞り、
ロシア革命の動乱の中で、翻弄されていく、純粋な男の悲劇を完成させている。


私は映画雑誌の講談社が発売した『週刊 20世紀シネマ館』全50冊を私は10数年前に購入したが、
この中で『ドクトル・ジバコ』の作品が取り上げられていたのを読んで、
原作者の創作の発想を知り、読了後に動顚し、敬服させられたのである。

この『週刊 20世紀シネマ館』の中に、定例の特集の【シネマ物語】のコーナーがあり、
《 詩人パステルナークが愛した実在の『ラーラ』》
と題されて、綴られていた。

無断であるが転記をさせて頂く。
《・・
1960年5月30日の深夜、
ノーベル賞作家ポリス・パステルナークが世を去った。
その傍(かたわ)らにいた一人の女性こそ『ドクトル・ジバコ』のヒロイン、
ラーラのモデル、オリガ・イビンスカヤである。

第二次世界大戦直後の1946年、
56歳のパステルナークは、20歳以上も年下のオリガと恋に落ちた。

詩人は妻と別れ、オリガと同棲したが、
オリガは《反革命詩人》の愛人ということで、強制収容所に送られた。
オリガは収容所でパステルナークの子を流産し、4年間を過ごす。

この体験と、オリガへの深い愛情を、パステルナークは小説『ドクトル・ジバコ』を綴り、
世界中を感動させたのだった。
・・》

私は恥ずかしながら原作の翻訳も読んでいないが、この作者の第二次世界大戦後の体験を
第一次世界大戦、そしてロシア革命の時代を背景とした壮大な物語に、
創作者としての発想の根源を作品として結実させたことに驚いている。

創作者は小説家はじめとする人は、
脳裏に幻想をどれだけ豊かにした上、創作し、作品を完成させるかの力量に、
圧倒的に感銘したのである。


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作家・南木佳士(なぎ・けいし)氏の発言の一部に、私は考えさせられ、苦笑し・・。

2012-03-06 11:27:08 | 真摯に『文学』を思考する時
過ぎし3日前、たまたま私は読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
【本よみうり堂】のコーナーに於いて、作家・南木佳士(なぎ・けいし)氏のデビュー30年に伴い、
読売新聞のインタビューに対しての発言を読んだりしたが、
この発言の一部に、果たして筆一本だけで作家の生活は成り立つかしら、
或いは現在、作家をめざしている若き諸兄諸姉に、
多少なりとも意欲などを削(そ)ぐなどの危惧を与えるのではなかろうか、
と思ったりし、ここ数日、私は考えさせられた・・。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20120301-OYT8T00828.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==《デビュー30年 南木佳士さん…表現の欲を越えた悟り》☆

この中で、作家・南木佳士氏の発言の一部に、
《・・
「小説を書き始める根底には、『自分がここにいます』と外に向けて発信したがる過剰な自意識がある。
でも、その『ほかの人と自分は違う』と表現したい欲のために自分は具合を悪くした。
それからは、存在するだけで意味があると思うようになりました」
(略)
「自宅の前は、かつて田んぼでした。
 体調を崩した私は半日で病院を終えて家に帰り、
 原稿を書いていると窓の向こうで、農家が作業をしていた。
 あちらが本当の仕事だな。書くことに特権的な意味はないとつくづく思うようになりました」
・・》
このように発言されて、特に後半部分の発言に、霊感のような感銘させられたが、
前半部分の《・・外に向けて発信したがる過剰な自意識がある・・》
に関しては、もとより創作者の作家はもとより、映画の脚本家、画家、音楽の作詞・作曲家などは必要不可欠であり、
まして、ここ10数年はネットのブログなどで、内容の質が問われない誰でも発信できる状況下である。

もともと作家の場合は、商業ジャーナリズムの状況下の中で、筆一本で妻子を養う家庭生活の中で、
確かな作品を発表するのは理想と思われるが、
特に純文学の世界では稀なケースとなっているのが、昨今50年の実態と思われる。

やむなく大学の教師、氏のように医師と両立させるか、
或いは余技のように随筆を綴り、何とか筆一本で家族を養ってきた阿川弘之、遠藤周作・・氏などがあり、
または丸山誠二氏のような稀なスタンスで、
この間に作品を発表してきているケースもある。

このように私は若き頃に文学青年の真似事をして、あえなく挫折し、
やむなく35年ばかり民間会社に勤めて定年退職し、年金生活の身であるが、
ここ数日、氏の発言の一部に、大いに考えさせられたのである。

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作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』の書評文を読みながら・・。【再掲載】

2012-01-26 12:02:21 | 真摯に『文学』を思考する時
☆--------------------------------------☆
           おことわり
私は一昨年の2010年1月10日に於いて、上記の文をこのサイトに投稿したが、
昨今、殆ど毎日のように数10の方たちにお読み頂くことがあるので、
古き投稿文に対して少し驚きながら悦んでいる。

異例であるが、今回は再掲載し、改めて多くのお方にお読み頂きたく、あえて再掲載をする。
再掲載に伴い、少しの訂正、大幅に加筆をした。
☆--------------------------------------☆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。

作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)の書評文であった。

無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。

《・・
「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。

古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。

ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。

ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。

日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。

しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。

誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆【みすず書房 公式ホームページ】<== 荒川洋治・著作 『文学の門』 ☆


齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。

このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。


定年後の今でも言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。

私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を重ね、
旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。

もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などと違い、編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。

私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多い。

文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力を頼りに、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。

こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。


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高峰秀子さんに私の初夢でお逢いし、私は叱咤されて、言葉もなくうなだれて・・。

2012-01-03 10:11:01 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

昨夜は家内と家内の母と共に、ささやかな酒宴が終わり、布団にもぐったのは11時過ぎであった。

どうした訳か解らないが、一昨年の2010〈平成22〉の年末に高峰秀子さんの死去が公表されていたが、
この高峰秀子さんが私に向い、
『あんたさぁ・・本を読んでいる?
映画青年も文学青年も挫折した・・あんた・・何をしているのょ・・』
となぜかしら60歳ぐらいの高峰秀子さんが私に言った。

『随筆を書きたくて・・ブログで散文の習作を重ねていまして・・』
と私は緊張しながら高峰秀子さんに応(こた)えた。

『あんたねぇ・・風の噂で聞いたりしているが・・
最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明〈かもの・ちょうめい〉が遺〈のこ〉随筆の『方丈記』のような、
随筆のかけらをたったひとつ綴れれば、本望らしいと聞いたりしているわょ。

そして死後の数百年を過ぎた頃、文愛人の一部の方から、
あの時代に短かき随筆をたったひとつ遺(のこ)した人もいた、と思って頂ただければ望外の思いである、
と友人に言ったりしていることなども、聞いているわょ』

『・・』

『でもねぇ・・人は誰しも望みは持っているが・・
天上の神々から与えられた才能・・そしてたぬまない努力の果てに・・
何とか果たせることもある厳しい世界なのょ・・
あんたは・・才能もないし・・努力も欠けているわょ』
と高峰秀子さんは私を突き放つように言った。

『・・』

『あんたたちの知っている作家・瀬戸内寂聴さんが、講演などで明言していたじゃないの・・
《・・
私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます・・》
このようなことを言っていた、と私でも記憶しているわよ』

『・・』
私はうなだれて返す言葉もなかった。

『いいわねぇ・・たとえ随筆の世界でも同じょ・・
あんたは年金生活の中で、あくまで趣味として散文を綴り・・安楽な生活を過ごすべきと思うわょ』
と高峰秀子さんは微苦笑しながら私に言った。

『でも・・』
と私が言った後、なぜか高峰秀子さんは私の前から消えた。


このような初夢を私は見たが、どうして亡くなわれた高峰秀子さんが・・
と私は今朝のひとときに、ぼんやりと思ったりした。

たったひとつ思い当るとすれば、
昨年の12月初旬に、松山善三、高峰秀子ご夫妻の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を購読した。
そして同時に、久々に『芸術新潮』の12月号を買い求めた。
特集記事に《没後一周年特集》として、
《高峰秀子の旅と本棚》と題された記事を私は精読した。

この特集記事のひとつに、作家・斎藤明美さんが、
『まさに”食う”ように』と題された寄稿文があり、私は圧倒的に感銘を受けた寄稿文であった。

最終章の部分には、
高峰秀子さんは、ひたすら読書を重ねる根源は、
劣等感を克服するために、たえず本から学び、生きることだった、
とこのような意味合いの綴りを作家・斎藤明美さんが記載され、
私は読みながら、涙を浮かべた・・。


私は高峰秀子さんに関しては、知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりであり、
たった一度だけお逢いできたことがあった。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの昭和の20年までの名作を観ることが出来たのである。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていたのである。


このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、私は東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に云った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画・文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私は中小企業のサラリーマンに身を投じた・・。

その後、いつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
このお方の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。


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五木寛之・著の『わが人生の歌がたり』、私は若き日に文学青年の真似事を敗退した頃を思い馳せて・・。

2011-11-11 23:03:15 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
主庭の雑木が観える居間の中央に机を置いている。

2004〈平成16〉年の秋に定年退職した私は、この机にパソコンを置いて、
パソコンが故障したり、国内旅行で自宅不在でない限り、ブログの投稿文を綴っている。

この机にあるパソコンに向って綴っているが、
私の座っている椅子の後方には、少し大きな本棚が二本あり、愛読している単行本を並べている。

先ほど、後ろを振り返り、たまたま下段の右側を見ていたら、
作家・五木寛之(いつき・ひろゆき)氏の『わが人生の歌がたり』(角川書店)シリーズの『昭和の哀歓』、
『昭和の青春』、『昭和の追憶』の三冊が並んでいた。
そして、偶然に目にした本に微苦笑をした。


私は遅ればせながら、昨年の2010〈平成22〉年の春先に購読した作品である。

この本のシリーズの概要は、本の帯に解説されている通り、
《五木寛之の歌語り、NHKの「ラジオ深夜便」で話題のトークが本になりました!》
と明記されているが、
私はNHKの「ラジオ深夜便」を聴いたことがなく、無知であった。

読みはじめて感じたことは、作者の人生の歩みと共に、
その当時の流行(はや)った歌への思いを語る、と判ったが、
私がラジオから歌を聴いて感じた思いと作者の思いの落差を感じ、微苦笑を重ねたりしたが、
教示されることが多かったのである・・。

もとより作者は1932(昭和7)年9月生まれのお方であり、
私は1944(昭和19)年9月生まれであるので、世代も遥かに上のお方の上、
たとえ幼年期さえまったく環境の違う身であるので、
この歌はそのように思われたのでしたか、とページをめくりながら、
その時代の空気を学んだりしたのである。


私は著作者の五木寛之氏に関しては、
少し複雑なこだわりのような気持ちが10数年前の頃まであったことを、
恥ずかしながら告白する。

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は映画に少年の頃から熱愛して大学を中退し、映画青年の真似事した後、
文学青年の真似事した時期があった。

この当時の私の読み物は、小説の単行本はもとより、
月刊文芸雑誌として、純文学の『文学界』、『新潮』、『群像』を読んだり、
中間小説としては『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読していた。

この中の『小説現代』に於いて、1966(昭和41)年の当時、
新人応募コンクールの『小説現代・新人賞』があり、五木寛之氏の『さらばモスクワ愚連隊』が選定された。

私は何より斬新な新しい時代の発想力、そして確かな筆力で、
読者を最後まで読まさせる力の秘めたお方、と瞬時に感じながら、圧倒される思いで、
ため息を重ねながら精読したのである、
新人賞の選考委員のひとりの中間小説の大家で柴田錬三郎(しばた・れんざぶろう)氏は、
辛口の選評をされる方であるが、この『さらばモスクワ愚連隊』の作品を絶賛した言葉を重ねていたのである。

その後、五木寛之氏は、『蒼ざめた馬を見よ』を発表されて、
1967(昭和41)年に直木賞を受賞され、
まぎれなく中間小説界に、新しい旋風をまきおこしたことは、周知の通りである。

この当時の私は、純文学の新人募集に投稿をしていたが、最終選考に残れず、落胆を重ねていた時であった。

その後、五木寛之氏は、確か『新潮』だったと思われるが、
『黄金時代』という題名であったと記憶しているが、大学時代のご自身のことを綴られた内容であった、
とおぼろげながら記憶している。


私はアルバイトをしながら文学青年の真似事をし、明日の見えない状況に苦悶し、
結果として、30代になった頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、
とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむなく人生軌道を修正し、この当時も民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
何とか大企業に中途入社する為に、
ひとつの手段としてコンピュータの専門学校に入学したのは、
1969(昭和44)年の24歳の時であった。

そして一年ばかりソフト学科を学び、
この当時は、大手の音響・映像のある会社に、知人の尽力も得て、何とか中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の4月であった。

その後、この会社の一部が外資系レコード会社として独立し、
私は転属させられて、その後は管理系の情報、経理、営業、管理畑など35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした。


この間、本屋に寄ったりし、遥か雲の上のような存在となった五木寛之氏の作品は、
ときおり躊躇(ためら)いながら買い求めてきたが、
私が熱愛している作家の作品のように、漏れなく時系列で読むことはなかったのである。

遠い存在・・眩(まぶ)しいようなお方・・この人の前では敗残者のような思い・・
このようなわだかまりのあり、素直に受け止めるできなかった50歳の前後まで、
私の根底にはあった。


このような少しばかり複雑な思いを五木寛之氏の作品に感じていたのであるが、
昨今のここ15年ぐらいは、こだわりも霧のように立ち消え、
読みながら多々教示を受けたりしている。


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『ネットと文学』、3年前の新聞記事を読み返し、ネットで作家として生計をするには・・。

2011-09-18 22:50:55 | 真摯に『文学』を思考する時
私は日中のひととき新聞記事などを切り抜いたA4のケース箱を脇机から取り出して、
古き記事は破棄しょう、と見ていた時、
読売新聞の2008年10月15日に於いて、『文芸』欄で掲載された『ネットと文学』の記事を
読み返し、しばらく考えさせられたのである。

この記事は、金巻有美・記者により記載された記事であり、無断ながら引用させて頂く。

《・・
日中韓の3国の作家や詩人、文芸評論家らが集い、語り合う「第1回 東アジア文学フォーラム」が、
先月29日から10月2日までの4日間にわたって、韓国・ソウルで行われた。
3国の作家らは、ネット社会における文学の役割といった共通の問題意識を持ちながら
活発に議論を交わした。
・・》
という序章であった。

《・・
いずれの国の作家も言及したのが、
1990年代以降のインターネットの普及とネット文学についてだった。

日本では10代の女性を中心携帯電話のサイト上で
小説を発表する「ケータイ小説」が人気を集め、書籍化されたものはミリオンセラーとなっている。

中韓でも、「ケータイ小説」はまだないものの、
インターネット上で小説を発表し、そこからデビューする作家が出ている。

〈略〉

こうした状況の中、「作家が特殊な職業や体験を取材して書いても、
そのリアリティーは当事者がブログに書き込む証言にあっさり乗り越えられてしまう。
何が現代の、未来の小説の肝となるべきか考えなければならない」
とネット時代を生きる作家の悩みを素直に語ったのは、
近著の『決壊』でネット社会への問題意識を題材に作品を執筆したばかり平野氏(啓一郎)。

誰でもが書き手となることができるネット社会で、
「趣味が多様化し、社会が機能的に分化する中で、
どのような社会的な合意、共通性を確保していくのかというところに、
文学がかかわる余地があるのではないか」
と述べた。


これに対し、韓国の(若手作家のリーダー的存在と知られている女性作家)殷氏は、
「ブログは生々しく、特異なことが書かれているが、『観点』が欠けている。
作家は人間と世の中を解釈し、観点を示すのが小説の役割。
その意味で作家の仕事は多くなった」
という考えを示した。

「ネットは文学にとって危機なのか、チャンスなのか」
という問いを立てた中国の許龍錫氏は、
「平等で自由なネット空間の文学を通じて、
逆に文学の大衆化が達成され、文学領域を広げる機会になる」
とネット文学が現在の文学に新風を吹き込むことへの期待を語った。

さらに、ネットでひともうけをたくらむ子供たちを描いた『インストール』で、
高校時代にデビューした綿矢(りさら)氏は、
過去の名作や投稿サイトをネットで読んできた体験から、
「インターネットはその特性にあった独自の形式を見つけ、
ネット文学と従来の文学は、住み分けを図っていくのかもしれない」
と展望。

長編『犬身』をネット上の連載という形で発表していた松浦(理英子)氏も、
「安易な読み物がはんらんする不安がある一方で、
小説の自由度が増したことを喜んでいる作家も少なくない」
と述べ、
各国の作家からは現状を肯定的にとらえる意見も相次いだ。


一方で、
「私はインターネットもメールもやらないし、
紙に書く文学が廃れるとも思わない」
と語ったのは中国の雷抒雁氏のような詩人もおり
・・》

以上、長々と引用させて頂いたが、要旨は上記の通りである。
注)金巻有美・記者の書かれた原文に、あえて改行を多くした。


私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、シナリオや小説の習作をしていた時期もあった。

映画のシナリオライターになりたくて、ある芸能専門養成所の演出科コースに入所し、
講師の計らいで、児童劇の映画に出演したり、
総合月刊雑誌の連載記事の下書きのアルバイトをしている時、
ある新劇の方より、映画の世界で飯を食べて行くのは益々大変なので、
創作の世界だったら、小説を書かれたら、と暖かいアドバイスを頂いた。

その後、私は契約社員で警備員などをし、小説の習作し、
純文学、中間小説の新人賞の応募を重ねたが、結果として最終の当選作には至らなかった。

確固たる根拠もなく、ただ自身の感性と感覚を頼りに創作の習作を重ねたが、
果たして、30代で妻子を養う家庭生活を想像した時、
整然とした人並みの生活を営む自信がなく、やむなく24歳で断念した。

そしてサラリーマンで中途入社する為に、コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、
ある大手企業に何とか中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の事業本部のひとつに、音楽事業本部があり、
この中のひとつが外資レコード会社として、新たに設立されて、私も異動させられて、
35年近く勤めて定年退職を迎えた拙(つたな)い身である。

この間、数多くのサラリーマンと同様に多忙な期間に於いて、
純文学、中間小説を読む機会が激減し、勤務分野に係わるビジネス専門書、雑誌が多かったのである。
そして、ときおり小説、随筆、現代史、歴史書を読む程度だったので、
1975〈昭和50〉年以降の小説の数多くのは、殆ど未知である。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活に入ったのは、
せめて死ぬまでには何とか随筆形式で、
数百年過ぎたのちの文学の愛好家からも、確かな珠玉の散文を遺(のこ)された人、
と慕われるくらい、たったひとつの散文を綴りたい、と思ったからである。

夢ばかり大きく、40年近く創作の感覚から離れていたが、思いばかりつのったのである。

そして、まもなくブログの世界を知り、
私は文章の特訓に幸いとばかり、日記、随筆形式で、殆ど毎日数通は投稿してきた。

石の上にも3年、と古人からの伝えがあるが、
無念ながら特訓期間は、既に丸6年は過ぎ、今日に至っている。


このように努力もなく、才能に乏しい私であるが、
たまたま『ネットと文学』の上記の新聞記事が読み、思考させられたのである。

私は原稿用紙等に書かれても、或いはインターネットでも公表されようが、
結果として書物とされるか、ネット上で掲載され留まるか、重視するタイプである。

私は若き方から見れば、齢ばかり重ねた66歳の身なので、
本屋、古本屋で魅了された書物を選定し、活字で読むひとりである。
3年前頃に偶然に、ネットの『青空文庫』のサイトを見ていた時、
何となく違和感を感じ、途中で止めたりしたのである。

私は綿矢りさら・女史の小説は、読んだことはないが、今後は女史の発言通り、
ネット文学と従来の文学は、住み分けを図っていく、
と感じ深めている。

しかしながら、誌上の世界は有料、ネットの世界は無料が圧倒的に多いのが実情である。

誌上は単行本、新書本、文庫本、文藝雑誌などは、
もとより編集者の怜悧な視線、出版社の意向で、
創作者も鍛えられ、一部の方は成長して作家として生計は成り立つ。

ネットの世界は、安易に発表の可能な世界なので、
ともすれば独りよがりの作品に陥りやすいのである。
ときたま私は精読する限り、この中の一部には心の深淵まで描いた作品も有り、私は動顚させられ、
プロの作家並みとして驚くことがあるが、果たして持続した作品を公表できるかは、疑問である。

このような心情を深めているので、作家として生計を求めない人は、
ネットで寡作の作品を公表する方は、ネットは有力な発表機会となる。


このようなことを3年前に記事を読み返しながら、ぼんやりと考えたりしている。


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作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【下】

2011-08-27 16:40:11 | 真摯に『文学』を思考する時
【・・この頃の私は独身であった上、アルバイトをしながら文学青年の真似事をしていたせいか、
社会人の一員にも中途半端な身でもあった。
こうした体験をしていたいか、夫婦の機敏な深淵を描いた『静物』(1960年)の作品は、うわべしか理解していなく、
作者自身が練馬区の住宅街から東京郊外の多摩丘陵に新居を構え、その周辺の情景、
家族がこの地に馴染んでいく牧歌的うつろいの『夕べの雲』(1965年)に素直に魅了されたのである。

しかし私は庄野潤三氏の文学には、この程度であり、
むしろ同じ第三の新人と称される遠藤周作、阿川弘之、安岡章太郎、北杜夫などの各氏の文学作品に魅せられる方が多く、
他の世代の作家の数多い作家に圧倒的に魅了されていた。


私は1970(昭和45)年の春、ある民間会社の大手に何とか入社できて、
文学青年の真似事を断念して、遅れた社会人として私なりに清進した。

私はサラリーマンをしていたが、ときおり他の作家の小説、随筆を本屋で見かけると、
購入して読んだりしていた。

1988(昭和63)年の春、本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
私は読みながら強く魅せられたのである。
作者のあとがきの後半にに明記されている通り、
《・・
「インド綿の服」が『群像』に載ったのが昭和56年10月で、
「足柄山の春」が昭和62年10月だから、まるむ6年たった。

長女一家が南足柄市へ越して行ったのは「インド綿の服」の出る前の年の春であるから、
長女一家からいえば、雑木林のなかの家で新しい環境に馴染みながら過した最初の7年間の生活が物語の背景となっている。
はじめは夫婦と三人の子供で出発したものが、途中から子供となった。

             昭和62年12月      
                         庄野潤三
・・》
注)作者の原文にあえて改行を多くした。


作者のご夫妻が、ご長女一家が南足柄市の雑木林の多い中で、新居を構えて、
たくましく日々を過ごされるを交流を描写されるのであるが、
私はご長女の感性に魅せられたのである。

そして作者自身が多摩丘陵で新居の生活をはじめた昭和30年代のなかば頃と思いを重ねて、
私も1978〈昭和53)年の春に実家の近くに新居を構え、苦楽の日々も体験したので、
ご長女一家の日々を秘かに応援団のような心情となり、
心酔しがら精読したのである。

この後、私は庄野潤三氏の本を見かけるたびに、購入し、愛読したのである。

私は1988(昭和63)年の春、40代のなかば、
本屋の棚に庄野潤三氏の『インド綿の服』の単行本を偶然に見て、
ほほ20年ぶりに庄野潤三氏の作品に読みながら、強く魅せられたのである。

この後の私は、『世をへだてて』(1987年)、『誕生日のラムケーキ』(1991年)、『鉛筆印のトレーナー』(1992年)、
『さくらんぼジャム』(1994年)、『貝がらと海の音』(1996年)、『ピアノの音』(1997年)、
『せきれい』(1998年)、『野菜讃歌』(1998年)、『庭のつるばら』(1999年)、
『鳥の水浴び』(2000年)、『山田さんの鈴虫』(2001年)、『うさぎのミミリー』(2002年)、
『孫の結婚式』(2002年)、『庭の小さなばら』(2003年)、『メジロの来る庭』(2004年)などを愛読して、
サラリーマンを定年退職したのである。


『インド綿の服』を読んだ後の私は、『世をへだてて』の単行本にめぐり逢え、
庄野潤三氏の病院内の闘病、その後のリハリビを過ごされる状況を精読しながら、私の人生観に影響を受けたりした・・。

この単行本の帯に明記されているが、

《突然襲った左半身麻痺・・
 脳内出血の大病を克服してここに綴る

 生と死をさまよう中での
 幻想と幻覚
 そして
 よみがえる生命への歓びと
 新たな観想  》

と記載されて概要であるが、もとより作者の当人の想い、奥様、
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家の暖かな支援と思い、
病室で共に闘病した人たち、担当医師・・
こうした交流が静流の中で、圧倒的な熱い思いが伝わってくるのである。

その後の『誕生日のラムケーキ』以降の作品には、
老いていく自身と苦楽を共にされた奥様の淡々とした日常生活・・
ご長女、ご長男、ご次男のそれぞれの一家との情愛、
ご近所の方たちの交流が描写・・

私は遠い親戚の一族を見るような思いで、この人生の歳月の流れを感じたり、
思いを馳せたりし、
私にとっては、まぎれなく人生の教科書と愛読したのである。

人生は労苦が多く、ほんの安息な日々を享受し、それぞれの生きがいを
その人なりに見出していくのであるが、
私は定年後の人生の指針として、庄野文学から多く教示させられたのである。


私は庄野潤三氏のご逝去の知り、私の二十歳過ぎから読んだ庄野作品を思い浮かべて、回想したのであるが、
私は父親を小学二年の時に死去されたので、庄野潤三氏の人生に思いを馳せると、慈父のような存在の人であった、
と確信を深めたりしている・・。


私は氏のご冥福を祈りながら、
少なくとも『静物』、『夕べの雲』、そして『インド綿の服』、『世をへだてて』を読み、
愛惜のひとときを過ごそうとしている。
・・】

このように私は庄野潤三氏のこ逝去を知り、投稿していた。


私は作家の死を知るたびに、その作家の遺(のこ)された作品は、
愛読者から心の片隅に永遠に残るものである、と深く思っているひとりである。

こうした私の思いは、創作者の作家としての立場からも、
敬愛している作家の曽野綾子(その・あやこ)さんが、
読売新聞の『時代の証言者』に於き、曽野綾子さんご自身の連載25回目の最終の結びに、
《・・文学碑や文学記念館は私の好みじゃない。
作品が1冊か2冊、誰かの心に記憶されれば望外の光栄です。・・》
と作家としての名言を2010〈平成22〉年9月27日の朝刊の紙上で発言されている。

私は作家としての曽野綾子さんの信条を、そうですよねぇ、と好感している。


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作家・庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の数々の発刊された本、古本屋で見かけて・・。【上】

2011-08-27 12:24:37 | 真摯に『文学』を思考する時
私は昨日の日中、ある駅前のスーパーに買い物に出かけた。
この駅前に近い商店街の脇道の奥まった所に、古本屋があると知ったのは、
三週間前で、いずれ訪ねてみょうとしていた店であった。

私は遅ればせながら高校時代に読書に圧倒的に魅せられて、
50年は過ぎているが、年金生活の今も読書が最優先の趣味となっている。

こうした中で、本屋の単行本、文庫新書本、文庫本を眺めて購読したり、
ときには古本屋に行き、読んでみたい本に偶然にめぐり逢えた時は、
小躍(こおど)りしたくなる心情を持つことが多いのである。

このように何か良き本はないかしら、と心に秘めて、古本屋に入店した。
文藝評論、小説、近現代史などの本が多い中、
偶然に亡き作家の庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)氏の単行本が8冊並んでいて、
私は懐かしげに背文字のタイトルを見つめたりした・・。

そして庄野潤三氏の愛読者のひとりが、古本屋に放出されたのかしら、
と思ったりした。


帰路、長い下り道を歩きながら、作家・瀬戸内寂聴さんが、
何10年前に作家・円地文子さんから、
作家は生きている時だけよ・・亡くなってしまったら数年で忘れられるわよ、
と言われた、と私は何かの文藝雑誌で読んだことを思い重ねたりした・・。

私は帰宅後、庄野潤三氏の遺された数多くの作品に思いを馳せながら、
2009年9月24日に、このサイトに於いて、
【 敬愛していた作家・庄野潤三氏が逝去されて・・。】
と題した投稿文を読み返したりした・・。


【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
一昨夕、敬愛しているひとりの作家の庄野潤三氏が逝去されて、
呆然となり、とうとうお亡くなりなった、と心情にかられた・・。

この後、ネットで時事通信社、毎日新聞社、産経新聞社を読んだり、
昨日の朝は読売新聞の朝刊も読んだりしたのである。

私は庄野潤三氏の逝去ニュースに関しては、
毎日新聞社の基幹ネットの【毎日jP】が最も好感したので、
無断であるが、掲載させて頂く。

《・・
       訃報 作家、庄野潤三さん死去 88歳

9月22日15時34分配信 毎日新聞

「静物」や「夕べの雲」など日常生活を静かな筆致で描き、
「第三の新人」を代表する一人として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日、老衰のため死去した。
88歳。

(略)

大阪市生まれ。九州帝大東洋史学科卒業後、海軍予備学生として出征。
復員後、島尾敏雄らと同人誌を創刊した。
中高教師、朝日放送勤務などのかたわら「舞踏」「恋文」などを発表。
1955年、平凡な暮らしにひそむ危機をとらえた「プールサイド小景」で芥川賞受賞。
詩情豊かに生活の細部を描いて、安岡章太郎氏や吉行淳之介、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた。

夫婦の亀裂を描いた「静物」(60年、新潮社文学賞)は戦後文学の名作に数えられる。
その後も「夕べの雲」(65年、読売文学賞)、「絵合せ」(71年、野間文芸賞)、「明夫と良二」(72年、毎日出版文化賞)など
人生の機微を追求する家庭小説を書いた。
一方で「浮き燈台(とうだい)」「流れ藻」など見聞に基づいてストーリーを構成した作品も好評に迎えられた。

「ガンビア滞在記」(59年)、ロンドン紀行「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」(84年)、
脳内出血後の記録「世をへだてて」など、随想にも秀作が多い。

90年代後半からは自身の日常生活を題材に「貝がらと海の音」「庭のつるばら」などを主要文芸誌に書き継ぎ、健在ぶりを示した。
それは06年3月刊行の「星に願いを」に至っている。
「庄野潤三全集」(全10巻・講談社)がある。

父貞一さんは帝塚山学院を創設した教育者。児童文学作家の庄野英二さんは実兄。78年に日本芸術院会員になった。

▽作家、阿川弘之さんの話
 従来の私小説とは微妙に異なる、清純な家庭小説を多く書いた。
 子や孫を大事にする作風が心に残っている。やるべき仕事をやり終えた一生だったと思う。

▽女優、大浦みずきさんの話
 亡父(作家、阪田寛夫)とのご縁から公演を熱心にご覧くださり、
 もう一人の父親が見守ってくれているようで、心強く思っておりました。
 いつも優しく厳しい目で見てくださり、幸せでした。
 本名(なつめ)も芸名も付けていただき、名前に恥じないよう、一生懸命生きていこうと思います。
 心よりご冥福をお祈りします。

最終更新:9月23日0時49分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私が庄野潤三氏の作品を初めて読んだのは、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃である。
文学青年の真似事をしていたので、遅ればせながら、
『愛撫』(1953年)、『プールサイド小景』(1955年)、『結婚』(1955年)、
『ザボンの花』(1956年)、『ガンビア滞在記』(1959年)、『静物』(1960年)、『浮き燈台』(1961年)などを読んだりしていたのである。

この後、講談社から『われらの文学』と命名された全22巻の文学全集が、
1966(昭和41)年に刊行されて、
私は《声価高まる「若い」文学全集》と称せられたこの『われらの文学』を愛読していた。

庄野潤三氏の作品が配本されたのは、翌年の3月15日に於いて、
『われらの文学 13 庄野潤三』と刊行されて、私も精読したひとりである。

そして、私は改めて、庄野潤三氏の作品、
『静物』、『夕べの雲』(1965年)、『愛撫』、『プールサイド小景』、『相客』、『道』(1962年)、
『鳥』(1964年)、『秋風と二人の男』、『ガンビア滞在記』(1959年)を読んだりした。

そして、文藝評論家・江藤淳(えとう・じゅん)氏が解説を書かれていたので、
読みながら私は動揺したのである。

《・・
庄野潤三氏り文学の特質は「不安」である。
そして氏の技法の中核をなすものは「暗示」、もしくは「象徴」という手法である。
このふたつの交点から、光によって表現される闇、
もっとも日常的な描写によって表現される形而上的な虚無、
誰でもが体験している時間を横切る永遠、
といったような要素で組み立てられている氏の小説が生まれる。
・・
(略)
・・》
注)解説の原文をあえて改行を多くした。


私は江藤淳氏のこの解説の最初の部分を読みながら、
私なりにの読み込んだ庄野潤三氏の文学を、いかに浅かったかを思い知らされたのである。

・・】

                         (つづく)

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