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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

浅田次郎(あさだ・じろう)氏の真摯な文学者としての発言を学び・・。

2010-07-27 22:20:27 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
15面の『文化』面で、
小説家・浅田次郎(あさだ・じろう)氏が、新刊の『終わらざる夏』(集英社)について、
読売新聞社のインタビュー記事が掲載されていた。

この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
村田雅幸・記者が綴られた記事で、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
     浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない

「戦争を体験した方々が生きているうちに書かなければ意味がないと思いました。
歴史になってから書くのは無責任すぎる。
今しかないというタイミングでした」

浅田次郎さん(58)の新刊『終わらざる夏』(集英社)は、
玉音放送の3日後に、千島列島の先端の島で実際に起きた日ソ両軍の戦闘に材をとりながら、
戦争に巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された人々の姿を描く大作である。

終戦から65年。風化しつつある戦争の記憶に対し、
今を生きる小説家として何ができるのかと挑んだ、
新たな代表作と呼ぶべき渾身(こんしん)の作だ。(村田雅幸)


1945年8月18日、対アメリカ戦を想定して日本軍が駐留していた占守(しゅむしゅ)島に突如、
ソ連軍が上陸、激しい戦闘が始まった。

現代の日本人の多くにとって“知られざる戦い”であり、
それゆえ小説家にとっては格好のテーマとなったはずだが、
浅田さんは上下巻合わせて900ページを超える作品の中で、
戦闘の描写をわずか10ページほどにとどめる。

「僕は占守島の戦いを書こうとしたんじゃない。
それを素材に、戦争というものをできるだけ全体的に書きたかったんだ。
その時代、社会の背景というものを」


大半を占めるのは、戦争という巨大な波にのみ込まれた個々人の、切なる思いである。
45歳となり、もう召集はないと考えていた翻訳編集者の片岡、
高い志を持つ医学生の菊池、
金鵄(きんし)勲章に輝く歴戦の英雄・富永。

占守島へ向かうことになった3人の全く異なる人生を軸に、
動員計画を立てる参謀、赤紙を配る村役場職員、疎開中の子供、そしてソ連兵の物語までも織り込みながら、
戦争の残酷さ、人々の悲しみの深さを重層的に浮かび上がらせる。

浅田さんは言う。
「日本人は戦後ずっと戦争を誠実に見つめ直してきた。
それは素晴らしいことだが、65年もたつと、どうしても戦争のイメージは画一化される。
僕はそれ自体、風化だと思う」。

例えば、広島の原爆ではその年のうちに14万人が死に、
東京大空襲の死者は10万人にも上る、
というデータを知ることは難しくない。
「でも、その数字それぞれに生活があったということまでは、
なかなか思い至らない。この一人一人の思いを知ることが戦争を理解することになる」


そのために数多くの資料にあたった。
地方の医大の卒業名簿を見れば、ある年代の死者が極端に多かった。
軍医として戦地で死んだのだった。

新聞の地方版には、英雄に祭り上げられた兵士の記事があった。
疎開の資料、ソ連の戦争の歴史も調べた。
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。


「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」


そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。


占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。

そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」

(2010年7月27日 読売新聞)
       ・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100727bk03.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】 浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない ☆


私は作家・浅田次郎氏については、このサイトで8通前後は投稿している。

たとえば、昨年の2009年11月22日に於いては、
【 真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』】
と題して投稿していた。

【・・
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。

http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
☆ 浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)☆

氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。

もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。

この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。

このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。

《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。
(略)
当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。
(略)
さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。
(略)
私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
(略)
不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。

むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。

いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。

この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。

合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。

私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。
(略)
小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。

このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。

私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。

このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。

【・・
(略)
この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。

小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。

作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。

私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。

最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。

私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。

それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。

現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。

今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。

この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
1970(昭和45)年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。

今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。

三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】


このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。

【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。

この中で浅田次郎氏は、最後に、

《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。

安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。

私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。

家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。

家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。

こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。

日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。

このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。


私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。

尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。

この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】

私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。


このように投稿をしたりした私であるが、今回のインタビュー記事を深く拝読したひとりであるが、
何よりも教示されたのは、
《・・
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。


「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」


そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。


占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。

そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
・・》

もとよりノンフィクションとフィクションの違いを明言した上で、
《・・証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れた・・》。

そして、《・・
本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。

「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
・・》

こうした明晰ある発言に、氏の文学への熱く真摯な思いを深く読み、
私は幾度も読み返し、氏に敬意を重ねたりしたのである。

そして私は、作家・嵐山光三郎・著の『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)に於いて、
嵐山光三郎氏が平凡社の編集時代、三島由紀夫氏の言動が描かれて折、
こうした思いも馳せて、<
浅田次郎氏の文学に対する確かに真摯な発露をつたない私なりに受け止めたりしている。


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作家・川上未映子さんに寄る荒川洋治・著の『文学の門』の書評文を読みながら・・。

2010-01-10 13:43:28 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、何よりも魅了されたのは、
日曜日に於いて掲載される【本よみうり堂】の中のある書評のひとつであった。

荒川洋治・著の『文学の門』(みすず書房、2500円)を作家・川上未映子さんの書評文であった。

無断であるが、この書評文を書き写させて頂く。


「散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、
個人のことばは、だらだら無反省に書きつける場ではない。
疑問をもつたり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、
表現も、書く人も信頼された。
そのことが次第に忘れられてきた」。

古今東西の詩や小説や批評はもとより、
プロ野球やバライティ番組、電車の中で偶然に耳した会話から漢語からウクライナ短編集まで、
日常に見え隠れする言葉とのふれあいを通じて、
散文とはいったい何か、
現在において読み書きするとはどういった意味と可能性をもつのかについて、
とても丁寧に考えせられたエッセイ集である。

ネットが広く普及して、誰もが自分のことを快感だけを頼りに綴り、
またそれを読む機会が増えた。
表現は、自分が特別だと思いこむ自意識の慰めのためにあるのではなく、
他者を想像し、認め、思いやるための発明であり運動であったという事実が、
本書を読み進めるうちにゆっくりと恢復してくる。

ときおり紹介される詩や小説の一節は、
どれもそんな本質に触れるようなもので光り、胸を打たれる。

日々のくらしの中で自分はどんな言葉を使い、どんな言葉を読んでいるか。
いま世の中に満ちてある散文について考え、またそれを問うことは、
じつは正しく自分に、そして生活に向き合うことと地続きにあるのだと思う。

しかしどんな文章でもどんな話も
「どこかをめざしている。
沈んでいいものは、ひとつもない」。
ただ易しいのではなく、読者に語りかけるような「あたたかい」散文で書かれたこの魅力的な作品は、
それじたいが文学批評の構造をもっている。
生きているかぎり言葉に関係しない人はいない。

誰もがたくさんの「門」をくぐりぬけている最中で、
その奥になにがあるのかを自分の言葉で見つめ、考えるときがやってきた。

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


http://www.msz.co.jp/book/detail/07501.html
☆ 荒川洋治・著作 『文学の門』(みすず書房) ☆


齢ばかり重ねた私は恥ずかしい限りであるが、著作者の詩人・荒川洋治、書評された作家・川上未映子、
両氏の作品を読んだことがない。

私は遅ればせながら、高校時代に読書にめざめ、
映画・文学青年の真似事をしたく、大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら4年ばかり彷徨(さまよ)い続けた時期がある。

あえなく挫折後、人生の設計をやり直すためにサラリーマンの世界に入り、
民間会社に何とか中途入社でき、
あるレコード会社の管理畑で35年ばかり勤めた後、定年退職後は年金生活に甘んじている。

しかし言葉による力は、写真、映画、音楽などよりも遥かに力を秘めた世界であると信じて、
かたくなに50年近く思い続けているひとりである。

私は小説、随筆、ノンフィクション、歴史書などの読書を最優先しているが、
退職後のまもない時、たまたまブログの世界を知り、
久々に書くことに苦楽を体験をしながら、サイトに投稿文を旅行の不在でない限り、投稿して六年目を迎えている。

もとよりブログの世界は、新聞の投稿欄、総合雑誌の投稿欄などを含めて編集権がないので、
ある程度の自身に節度があれば、自在に投稿でき、公表できる世界である。

私は定年退職後の身過ぎ世過ぎの年金生活をして、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露として綴っているが、
心で思うこと、考えていることを文章化にする時、ただちに言葉をつむぐことは稀(ま)れであり、
つたない私は苦心惨澹とすることが多いのである。

文章修行の未熟かしら、と思いながら綴っているのが本音であり、
こればかりは年齢に寄る体験とは、関係はなく、
文才に乏しい私は、ひたすら努力の結晶と思いながら、悪戦苦闘しながら投稿文を綴っている。

こうした思いがあるので、偶然に読んだ荒川洋治・著の『文学の門』の作家・川上未映子さんに寄る書評文を
深く精読しながら教示され、魅了されたのである。


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吉村昭(よしむら・あきら)氏の『わが心の小説家たち』を読みはじめ・・。

2009-12-14 17:29:39 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
過日の7日、駅前に出て、家内から依頼された日常雑貨をスーパーで買い求めた後、
何気なし本屋に寄ったのである。

そして、新書コーナーで吉村昭・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)を偶然に手に取り、
パラパラと目次を捲(めく)ると、
第四章として《川端康成『千羽鶴』の美》と題される中で、
《小説は文章に尽きる》と明示されて折、
この短い課題に魅了されて、買い求めたのである。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%8C%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-001-%E5%90%89%E6%9D%91-%E6%98%AD/dp/4582850014/ref=pd_bxgy_b_text_b
☆ 吉村昭(よしむら・あきら)・著の『わが心の小説家たち』(平凡社新書)☆


私は昨夜まで大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいたのである。

もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、
私なりの関心があったので深く精読したのであった。

http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/31965493.html
☆大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)☆

そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。

銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。

かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。

こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。

私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。

このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。

この本に関しても、読書中にこのような思いであった。


昨夜の10時半過ぎから、吉村昭・著の『わが心の小説家たち』を開いたのである。

著者が敬愛している小説家について、文芸講演会を5回した内容を改めて一冊の本として、
公表されたのが今回の本となっている。

本の帯裏にある解説として、

森鴎外、志賀直哉、川端康成、岡本かの子、平林たい子、
林芙美子、梶井基次郎、太宰治。
読書好きな少年期、思い肺結核と闘った若き日々、
文章修行時代を通して、著者が敬愛しつづけた作家たち。
そして今も心に生きる彼らの作品の魅力を、
自らの小説執筆の実感とともに、鮮やかな語り尽くす。

歴史小説とは何か。文章とは何か。小説の命とは?
待望の吉村昭版の「小説入門」。

このように明記されていた。

氏の作品の多くは、謙虚で真摯に真っ向から挑む主人公の作品が多く、
氏の独自の視点から、改めて提示された小説家の数々の作品の底知れぬ魅力を教示を受けようと読みはじめている。

尚、私は氏の同世代の城山三郎(しろやま・さぶろう)氏の作品の方が圧倒的に読んでいたが、
私は氏の作品に関する限りは、『私の文学漂流』(新潮社、1992年刊行)をはじめとする10作品程度しか読んでいないが、
史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描く数多くの作品、と定評があり、
私もときおり思わずうなりながら感動していたが、行間から主人公に対する氏の暖かな視線を感じ取っている。




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冷たい雨の降る日中は、読書と散文を綴(つづ)り・・。

2009-12-11 17:08:05 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、4時半過ぎに目覚め、玄関の軒下で煙草を喫ったりしていたが、
夜半の未明時より雨が降りだし、日中は雨の一日です、
と昨夜の天気情報は報じていたのに、どうしたのかしら、と思いながら、
薄暗い中どんよりとした曇り空を見上げたりした。

私は居間に戻った後、洗面をし、煎茶を淹れたり、
新聞が配達される前にネットでニュースを見たりしていた時に、静かに雨が降りだしてきた。
この後、このサイトの投稿文を綴ったりしていた。
そしてネットで地元の天気情報を検索したら、
朝の6時は6度、昼下がりは9度、夜の6時は8度で雨の降る一日、
と表示され、平年並みかしら、と苦笑したりした。

このような冷たい雨の降る日は、買物と散策は取りやめて、
読書に専念しょうか、と自在でわがままな私は決意したのである。

昨日、買い求めた総合月刊雑誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読んだ後、
中断していた大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読んでいる。

もとより大村彦次郎氏は長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、私なりの好奇心から読んでいる。

そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。

銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。

かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。

こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。

私は『文壇うたかた物語』を半分ぐらい読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。

このような読み込みをすると、中々次ページに進めず、嬉しい悲鳴を心の中であげながら、
読んでいるのである。

そして目に疲れを感じたり、綴られている内容を深く思考したりする時、
玄関の軒下、主庭のテラスのはずれで、
小雨降る中、モミジの朱紅色に染められた情景を眺めたりし、思索する。

この後、私なりの心の発露として、日に数通ばかりの投稿文を認(したた)めているので、
どのようにしょうかと迷っている。


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作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【下-2】最終

2009-12-05 16:03:36 | 真摯に『文学』を思考する時
         第四章

私は定年後の自身の思いを綴る予定であったが、
先程、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
作家・瀬戸内寂聴さんが10月27日に千葉県・柏会場に於いて、
講演「強い心で、自分らしい生き方を」の三回目の連載を知り、深く精読したのである。

そして優先的にこの講演の内容を転載させて頂く。


(3)本や新聞を読まなきゃダメ!

本を読まなければ、人は成長しないんです。
本というのは脳の肥料です。
私たちがご飯を食べるのは、自分の体に対する肥料が必要だから食べるんです。
それと同じように、頭にも肥料を与えないと絶対だめになるんです。
ですから人間に生まれた以上は、本を読まないと脳は成長しないんです。

成長しないと分かっているのに、今の若い人たちは本を読まなくなった。
これは教育が悪いんです。
本を読ませようとしない。
面白い本を教えない。
本を読むとどんなに楽しいか、どんなに自分が成長するか
ということを教えない教育がずっと続いたんです。

目にみえるものしか信じなくなったんです、戦後の日本は。
戦争に負けて、焼け野原になり、まず家が欲しい、
着るものが欲しい、飾るものが欲しい……と、
目に見えるものを欲しがるようになりました。

目に見えるものが欲しいから、お金、お金、というふうになる。
物質偏重になって、そのため精神がお留守になって、脳の働きが鈍くなってきた。


今の国民は私たちの子どもの頃にくらべて、本当に知能が低下した。
しかしその危機にすら気がつかないで、こんなふうにダメになってしまったんです。
私の子どもの頃は頭の良さは世界でも1位といってもいいほど自慢していたんですけど、
今では東洋でもビリから何番目という感じでしょう。
非常に情けない状態です。
これを再生させるには、やはり食べるものも大事ですけど、
頭に、脳に栄養を与えることを奨励してあげなければいけません。

昔はろくに小学校に行けない子たちはたくさんいましたが、字を覚えることはできたんです。
どうやって覚えたか――。
新聞を読んで覚えたんです。
新聞の中に漢字が今よりたくさんあって、全部ルビがふってあった。
そのルビを読んでその漢字を覚えたんです。
だから昔の人は学校を出ていなくても文字を知っていたんです。
ひとかどの人物になったら、素晴らしい文章が書けた。
そういう人たちがいっぱいいた。

今ではろくに文章を書くことができない若い人たちがたくさんいますね。
非常に恥ずかしいことなんです。


テレビと違って、新聞は残るからいいんです。

私は5紙、新聞をとっているんですけど、同じ一つの事件でも新聞によって見方が違うんです。
社説を見ると分かります。
それから扱いを見ると分かります。

私のような商売をしているものは、新聞一つじゃ駄目なんですね。
この事件をどういうふうに見ているかということを並べてみて、
その中から自分はこれが正しいというのを選ばなければならない。

自分の考えにしなきゃならない。
だから新聞をたくさん読まなきゃいけないんですよ。
ホテルでも少なくとも三つは新聞を入れてもらってます。


テレビは、早く知るにはいいかもしれません。
この間の衆院選挙の時なんかは、当選した人、落ちた人の顔を見るだけで面白いですよね。
だからついテレビを見てしまいますけど、
じっくり情勢を考えるにはテレビでは素通りしてしまって駄目なんです。
新聞はじっくり自分で考える時間を与えてくれるんです。
そうやって考えることで脳は老化しません。

新聞が軒並み売れなくなる日が来るかどうか、分かりません。
という不吉なことを言って、私は謝礼をもらえないかもしれません(笑)。
世の中そういうものなんです。
新聞がなくなるような日が来たら、その国はなくなるでしょうね。

庶民の考えをすくいあげて発表するのが新聞でございます。
こんなに不景気になったからいろいろなものを削ろうと考えるでしょうが、
新聞から削ろうと考えるのはやめてください。
読まないでも新聞をとっているっていうのはかっこいいじゃないですか。
郵便受けからはみだしてるのかっこいいじゃないですか(笑)。

やはり人間は活字離れをしたらダメな気がします。

(2009年12月4日 読売新聞)


注)講演の記事としてここまで掲載されたすべてを転載させて頂いたが、あえて改行などを多くした。


私は読書を第一趣味として年金生活を過ごしているが、
このサイトの2005(平成17)年10月27日に於いては、
【文字・活字文化の日』と私のブログ・・♪】
と題して投稿している。


今朝、読売新聞を見ていたら、本日は『文字・活字文化の日』と綴られていた。
何故、この日がこうして制定されたのか解らないが、
多分、本日から11月9日まで読書週間にちなんで命名したと思う。

私は活字による文字を読む新聞、雑誌、小説、随筆、教養の歴史学、現代史などを読むのが好きである。

言葉から文字へと人々の営みの中から、
文明が生まれ、その中の一部として、文化が発生している。

綴る創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれの人々が受けとめ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
私なりの感性と感覚で創作者から導かれながら、その世界に思い馳せるこの魔力を高校生の時から愛好している。

私は伝える手段として、たとえばブログなどを活用して、文字のみで投稿し発信しているのは、
この理由に他ならない。

写真、飾りを付けられている方が多いが、私は今後も文字のみで表現する手段としたい。
私の綴づった内容が充分に伝わらなかった時は、私の文章修行が未熟であることに他ならない。


このような私なりの思考が根底にあり、何よりも読書は欠かせない日常を過ごしているのである。



         第五章

私が定年退職後、ただちに年金生活を過ごした理由のひとつとして、
このサイトに2009(平成21)年8月22日に於いて、
【 改めて、私なりのブログと自己存在感・・。】
と題して、あますところがないような心情で発露している。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨日、【『ネット検索、月間4775万人…6年で3倍・・』の記事、私は読んだ後は・・。】と題して投稿した。

そして、この投稿文の結文の前に、
【・・
私は退職後の年金生活で驚いたのは、
ブログの飛躍的な利用者の増加であり、私と同様に、心の思いを自己発信する人が多いことであり、
そして2007年6月より、【YouTube】に於いて、日本語版を開始し、
音楽のバンドラの箱が開けられた、
と思いながら音楽の曲が大半自在に聴くことができたことである。
・・】

と綴ったりした。
命題の検索の急増はもとより、私は日常にブログは欠かせない存在であり、
ときおり【YouTube】に於いて、音楽を甘受しているが、
昨夜の深夜に、私はとってはブログはどのような存在なのかしら、
と考え込んでしまったのである。

私は2004(平成16)年の秋にある民間会社を定年退職したのであるが、
まもない時、ブログの世界を知り、
あるサイトに加入して、2005年2月7日に於いて、
『ブログと自己存在感・・。』と題して、投稿していた。

【・・
ブログが昨今に急速で、加速されたかのように広がっている。
何故、これほど話題になり、注目され、利用されているか、
私が利用した理由を書き込めば、ひとつのヒントになると思ったりしている。

昨年の秋の定年退職の前後、私はホーム・ページを立ち上げようとしていた。

理由として、この星の下で生まれ、育ち、何を考えて、やがて死んでいくことに、
生きたいたことのひとつの証(あかし)を残していきたい、
と思ったのである。

ホーム・ページの場合は、原則として実名公表なので、
政治・外交・軍事・社会・宗教・文化等の公表に、
著名人でない上、これといった専門知識がない素人の私には、一種のためらいがあった。

私の好きな山川草木のよしなごとは書けても、
身過ぎ世過ぎの年金生活の日常を過しているので、文章にほころびが生じる、と思ったのである。

世の中の専門知識を有する学者の随筆は、
論文等、或いは大学教授としての前提で、一面の遊び、としても綴ることが出来るので、
私のような素人としては、こうしたためらい、たじろいがあり、
開設したところで、来訪者が少なく、
そのうちに自身が書き続けられるか、と自問したのである。

こうした折、ブログ、ブログに準じた簡素なホーム・ページのブログを知ったのである。

ブログの場合は、匿名が圧倒的に多く、ある程度の心の節度があれば、
公表できる利便性の要素が十二分ある。

新聞、雑誌の投稿には、それぞれの発行元の編集部などのの見解のもとで、
掲載が決められている現状であるが、
このブログの場合は、ある程度の節度があれば、何の制約も無く、
その方の自身の政治・外交・政治・軍事・社会・宗教・文化等の分野の思いでも、
自在に公表できる。

そして一旦発信されたならば、当人が削除しない限り、
この星の下で存在し、ある一面、怖いところも付随するが、
読まれるか、無視されるかは別問題として、確実に残るのである。

そして誰にしても、ある程度の知識があれば、日常生活を綴っても、
自己の存在感を提示できる世界がブログ、と思ったのである。

ここで思い出したのであるが、十五、六年前、腰痛が酷く、救急車にお世話になり
三度目の入院となり、徹底的に治療に専念しょうと観念し、
一ヶ月近く、入院していた時であった。

病室のベットに休んでいても、周囲の社会は順調に動いて、
自分の存在は一体どこにあるのか、ということであった。

私はこの時、シンガー・ソングライターの中島みゆきさんを熱愛していた時期で、この中で特によく聴いた曲がある。
ベットの中で、腰を牽引しながら、CDウォークマンで何度も聴いたりしていた・・。
慰め、救い、そして再起への励みを頂いた曲を転記させて頂く。


       『永久欠番』   作詞・作曲  中島みゆき

♪どんな立場の人であろうと
 いつかはこの世をおさらばをする
 たしかに順序にルールはあるけれど
 ルールには必ず反則もある
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

 100年前も 100年後も
 私がいないことでは同じ
 同じことなのに
 生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい
    街は回ってゆく 人一人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
    かけがえのないものなどいないと風は吹く

    (略)

    100億の人々が
    忘れても 見捨てても
    宇宙(そら)の掌の中に
    人は永久欠番
    宇宙の掌の中
    人は永久欠番

【 『永久欠番』 作詞、作曲・中島みゆき、 編曲・瀬尾一三、 唄・中島みゆき 】

この中島みゆき女史は、私にとってこの星の下での女神である確信し、
現在でも、希有な存在感を提示できる人であり、敬愛をしている。

・・】

このような歌詞の転載がもとより著作権に抵触するかは解からなかったが、
自己存在の証(あかし)の思いが強く投稿したのである。


私はこの投稿文を深夜に読み返し、自身の定年後の心の思い、揺れを振り返ったりした・・。


私は定年退職するまでは、屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に小さくても少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観視にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、もとより短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力、何よりの文章力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

そして多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


このような思いが、つたないなりに私は秘めたりしているので、
日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、
原則として国内旅行で自宅を留守にしない限り、毎日数通ぐらいは投稿している。

そして、何より肝要なことは、人それぞれ光と影を持ちあわしているので、
つたない私でも、ささやかな光、そして秘められた影があるので、
余すところなく綴るのが命題と思ったりしている。


このような身過ぎ世過ぎの年金生活をしながら、
言葉による表現、読書、そして思索の時間を過ごしたりすると、
年金生活は暇、安楽というのは私にとっては死語である。

長々と綴ったりしたが、最後に信愛している中島みゆき女史に敬意し、
『HAFE』、『エレーン』に続き、最も感銘している『永久欠番』を掲げることにする。

この『永久欠番』は、『歌でしか言えない』と題されたアルバムの中で、
六曲目に選定された曲で、1991年10月23日に発売され、
私の人生観に影響を受けた稀(まれなアルバムのひとつである。

【YouTube】に投稿されたお方の中で、特に魅了された方から拝借させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=720iyPtOQRc
☆【 『永久欠番』 作詞、作曲・中島みゆき、 編曲・瀬尾一三、 唄・中島みゆき 】☆


                             《終わり》



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作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【下-1】

2009-12-05 09:20:46 | 真摯に『文学』を思考する時
         第二章

ここで作家・瀬戸内寂聴さんが10月27日に千葉県・柏会場に於いて、
講演「強い心で、自分らしい生き方を」の内容を転載させて頂く。

もとより「創刊135周年スペシャルフォーラム」として、
「自分らしさ」「がんに打ち勝つ」「艶のある人生」の3つをテーマに、
8月から11月まで、全国10か所で開催してきた中のひとつの講演である。


(1)小説家への道

すべてが移り変わる世の中で、だんだん新聞が読まれなくなっています。
その中で、読売新聞は一番部数を誇ってまいりました。
私も2度ほど連載小説を書かせてもらいまして、
「たくさんの人に読まれるんだ」
といううれしさと誇りと気負いがございまして、一生懸命書いた覚えがあります。
最近は全然お声がかかりませんが…(笑)。

また、読売新聞は文学にたいして非常に熱心でありまして、
「読売文学賞」というのがございます。


私は小説家になる前に、福田恆存(ふくだ・つねあり)さんという、
その頃一世を風靡(ふうび)していた素晴らしい評論家と出会いまして、
福田さんの奥さんになったのが私の女子大の1年先輩。
非常に美しい人で、私も一方的にあこがれておりました。
その方が、卒業と同時に福田さんの奥様になって、私は卒業してすぐに北京に行きました。
私もその時は結婚しておりました。


福田恆存さんが新進気鋭の評論家だと知ったのは、帰国後です。
これはちょうどいいと思い、私が小説家になりたいからということで、
下手な小説を奥様を通して送りつけまして、
そしてモノになるかどうか読んでもらったことがあったんです。
当時、私は京都に住んでいたんですが、何かの間違いで、
その返事が私の徳島の実家に届いたんです。


その頃、母は防空壕(ごう)で死んでおりまして、
父は生きていたのですが病気で働けなくなって養生していたんですね。
退屈しているところへ福田さんからの手紙が届きました。
父は無教養で他人の手紙も平気で開けてもいいと思う古い人間で、
結婚している私のところへ男の名前の手紙が来たものですから、
怪しいと思って勝手に開けて読んでしまったんです。

すると、「あなたの原稿を見た限りでは、モノになるとも言えない、ならないとも言えない」
と書いてあったんです。
それを読んだ父が、晴美(旧名)の馬鹿が小説家になろうと考えているようだが、
この偉そうな先生のお返事によると……
「モノにならない」という方に重点を置いてとったようなんですね。
こんなやつに仕送りをする必要はない、というので、
それから私に仕送りをしてくれなくなったんです。

私はその手紙を見まして、「モノになる」という方に重点を置いて、
「やってもいい」と考えて小説を書くことにしたんです。


読売文学賞への思い

その福田さんが読売で文学賞をおもらいになったんです。
その時、私は東京におりまして、小説を書こうとしておりました。

私が文学少女の出来そこないみたいなものですから、それを知っておりまして、
福田さんが初めて読売文学賞をとる時に「いらっしゃい」と呼ばれたんです。
私もいそいそ出かけていきまして、読売文学賞なるものを見て、
「私もいつかあれをもらおう」
とうっとりと見ておりました。

会が終わり、楽屋で福田さんを待っておりましたところ、
小説家の阿川弘之さんが同じく文学賞をおとりになっていて、福田さんと2人一緒に出てきたんです。
そして3人で会場の近くの喫茶店に行ったんです。


福田さんは私を阿川さんに紹介してくださいました。
みんなが欲しがる読売文学賞をもらった偉い評論家と小説家がどんなことをするのだろうかと興味があるので、
私はじっと見ていたんです。
立派な紳士の2人は、私がそばにいることを忘れて、
「もらった副賞の中身を見ませんか?」
とニコニコして話しているんですよ。

家に持って帰るのが待ちきれないで、コーヒーが運ばれてくる前にその場で包装紙をむいて、
中から取り出してみると、万年筆だったんですね。
それを見せ合って、子どものような顔をして喜んでいたんです。

その時、読売文学賞の素晴らしさを身にしみて初めて知りまして、
そして「いつか私も」と誓ったんです。
その後、どうにか小説家になりまして……30年間、賞らしい賞をもらったことがないんです。

よく辛抱したなあと思います。
とにかく名前も知らないファンたちが私の小説を読んでくれて、
支えられて書き続けてこられたのだと思っています。
阿川さんも福田さんも偉くなっていかれましたが、
その頃には私も小説家の端くれとして同等のお付き合いができるようになっていったんですね。

いろんなことを教えていただき、いろんなことを情報交換し、年月が流れました。
福田さんはもう亡くなられました。
阿川さんはご健在ですが、私にとっては残り少ない同世代の作家ということなんですね。


私は自分に賞をくれない表彰式には行かないことにしているんです。
授賞式の案内が来ることはあるんですが、ほとんど行ったことがないんです。
読売文学賞もくれないから「誰が行くもんか」と思っていたんですよ(笑)。

ところが、そのうち私よりうんと若い山田詠美さんが受賞し、
同時に伊井直行さんももらったんです。
私が早くから認めていた作家さんで、好きな2人が賞をもらったので、
「行ってみるか」と思って読売文学賞に出たんです。
福田さんと阿川さんが受賞して以来なんです。
当時よりずっと賞は大きくなっており華やかになっていました。

その時、読売側からごあいさつがあったんです。
渡辺恒雄さんがおいでになって、読売文学賞がいかに立派な賞かということを話し出したんです。
「だいたい今活躍している作家で読売文学賞をもらわない人は一人もいない」
「読売文学賞をもらわないような作家はだめだ」
っておっしゃったんですよ。

それで私はムカムカッときましてね(笑)。
授賞式が終わり、雑談などになった時、
私は辛抱しかねて渡辺さんのところに歩いていって、
「わたくし、もらっていません!」って言ったんですよ。
「私は作家じゃないんですか?」と聞くと、
「あなたにはとっくにあげたんじゃないの?」と言われまして、おたおたして困っていました(笑)。
でも、今ももらっていません(笑)。

でも、私が思う才能のある作家はどんどん賞を貰って、
それを土台にして、ますますいい作家になっていますから、
読売文学賞は文学賞の中でも非常に権威のある、貰っておかなければ一人前じゃない、みたいな賞なんですよ。

ですからこの中にも将来小説を書こうと思っていらっしゃる方が何人かおられると思います。
やめたほうがいいですよ(笑)。

それでも、書こうと思っている方は、
いつか読売文学賞をもらいたいと思ってお書きになるのがいいと思います。
私も「今度はくれるかな」と思って、励みになりましたよ。

(2009年12月2日 読売新聞)



(2)小説家で食べていくことの難しさ

私は5月15日が誕生日なんですが、いま満87歳なんですよ。
数えだと今年のお正月で88なんです。

私は大人の小説を書く前に少女小説も書いていたんです。
だからその時間をいれると60年近くペン1本で食べております。
ほかのことで生きたことがありません。

私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、
源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。


私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
円地さんと同じように、私も源氏物語の現代語訳をやらせていただいたのですが、
円地さんのもの、谷崎潤一郎さんのもの、与謝野晶子さんの訳したものを机に並べて、
それと同じようにならないように訳したんですね。

ですからそういう風に3人を無視できなかったように、
これから訳す方は私の訳を無視して訳すことはできません。
私よりわかりやすく、より現代の人に魅力のあるように新しく訳すかということですけれども。
まあ、何も見ないで訳す方もいらっしゃるかもしれませんが、そういうのは売れません。


文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。

しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。


私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。
目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだんもちきれなくなっている。


新聞社も大変なんです。
今日(のフォーラムへの参加)はただ?(笑)。
さらにさらに、みなさんに新聞を読んでもらおうと思ってこんなことやっているんですよ(笑)。
もっと大変なのが出版社。出版社も本が売れなくなっています。

(2009年12月3日 読売新聞)

注)講演の記事としてここまで掲載されたすべてを転載させて頂いたが、あえて改行などを多くした。


現状、『小説家』と自称している方は、少なくとも5000人はいると思われるが、
筆1本で小説だけで生活をしている方は数100人ぐらいと思ったりしている。

ある程度の自身の感性と感覚が独創的と思い、小説をこよなく愛読している方の大半は、
一度は小説を書き発表して、人から認められたい、という欲望がある、
と私は思っている。

たとえば大学の文学部の国文科を学んだ人の多くは、このように欲求ずある、
と思ったりるが、殆どの人は数作品を創作されるが、やがては挫折する。

あるいは他分野で小説家を目指して、習作を重ねても、
自身の生活面で追われて、挫折するのも多いのである。

こうした中で、ごく稀な人だけが小説家として創作活動をされ、更に発表しつづけ、本が売れて、
筆1本だけで生活をされる小説家は、ほんのわずかな人である。

改めて、作家として筆1本だけで60年を生活されてきた瀬戸内寂聴さんの講演で発露された言葉は、
このように感じたのである。


         第三章

私も若き頃、映画・文学青年の真似事をして、その後は小説家を夢みたが挫折したひとりである。
私はこのサイトに於いて、このような心情を痛切であったが、懺悔のように発露して綴ったことがある。

今年の10月30日に於いて、
【  我が人生、ほろ苦(にが)く切ない青年時代は・・。 】
と題して投稿している。

【・・
(略)
私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=hzNZzMGeRQs
☆【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】☆



このような綴っているのであったが、
今の私は年金生活をして、このサイトに殆ど毎日のように散文として綴っているが、
こうした私なりの思考は次章以降に発露する。

                               《つづく》





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作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【中】

2009-12-04 15:49:03 | 真摯に『文学』を思考する時
          第一章

私は作家・瀬戸内寂聴さんから、書物を通して幾度も教示されきたので、
このサイトに於いても、数多く綴り投稿してきた・・。

たとえば、2005(平成17)年7月17日で、
【 こだわり・・。 】
と題して、投稿していた。

【・・
昨日の読売新聞で、『編集手帳』というコーナーがあるが、
色々と考えさせられた・・。

無断であるが、転記させて頂く。


瀬戸内寂聴。
村上春樹。
よしもとばなな。
いずれ劣らぬ当代の人気作家には、共通点がある。
文壇の登竜門といわれる芥川賞も、
流行作家への通行手形である直木賞も受賞していない。

昨年、19歳と20歳の芥川賞作家が誕生して話題になった時、
瀬戸内さんが本紙に寄せた一文は、
縁のなかった両賞への思いを語って印象が深い。

「この二つの有名な賞を受賞してなくても、
作家にはなれるという標本としての希少価値をひそかに誇っている」。

二つの賞が創設されて今年で70年になる。
第1回の石川達三(芥川賞)、川口松太郎(直木賞)以来、
受賞者の錚々たる顔ぶれがあればこそ、瀬戸内さんの言う無冠の「希少価値」も一層輝くのだろう。
    
     (略)

心ひそかな矜持を語った瀬戸内さんの言葉には続きがある。

「(芥川賞と直木賞の)授賞式には、
どんな好意を持っている受賞者がいても出席したことはないし、
これからも出席しないであろう」と。

すでに独自の文学世界を築き、
仏につかえる心静かな境地にいる人の胸にも、
小さなわだかまりを刻印する。
伝統の魔力だろう。


以上が新聞記事であった。


私が東京オリンピックが過ぎた翌年の頃、
このお方が、瀬戸内晴美であった頃、私はひとつの小説を友人間で絶賛した。

1963(昭和38)年に発表した『夏の終り』であった。
そして、この作家の『花芯』、『女子大生・曲愛玲』等を読んだりした。
確かに《瀬戸内晴美・初期全集?》あった、と記憶する。

そして、『・・本は3000部程度が、純文学の世界だし、
それ以上売れた場合は、文学評価と違った要素である』、と綴られていたので、
私はびっくりした。

この人の昨今まで、新聞記事のように、
ある程度の世界を築かれても、わだかまり、があるのには、驚きを禁じえない。

人は、幾つになっても、達観が難しい、と今更ながら考えさせられた。
・・】


この後は、2006(平成18)年6月7日に於いては、
【 時が過ぎて・・♪ 】
と題し、投稿していた。

【・・
家内と10時前に自宅を出て、駅前まで出かけた。

川べりの遊歩道を歩き、隣接した処は区立の公園となって、季節の花で彩(いろど)っている。

家内は歯科医院で治療を受けている間、
私は『ドトール』でアイス・コーヒーを飲みながら、持参した1冊の本を読み始めた・・。

過日購入した水上 勉、瀬戸内寂聴の両氏の対談集が主体の『文章修行』(岩波書店)である。

水上 勉・氏に関しては、推理小説を5冊ほど除けば、殆どを愛読している。
35年前頃、私は成城学園の住宅街の外れにある古本屋に行く時に、
車椅子に乗ったお嬢さんを彼は車を押しながら前方から近づいてきた。

私は愛読者のひとりの立場であったが、
敬愛の意味で、思わず目礼をした。
氏も面識があったかしら、と想いだすかのような表情で目礼をした。


瀬戸内寂聴・女史に関しては、初期の作品は愛読していた。
1967(昭和42)年頃まで、確か瀬戸内晴美の名で作品を発表されていた。

こうした2人に対する想い、文学に対する真摯な対談、
と思われたので購入した一冊の本であった。

『ドトール』でアイス・コーヒーを飲み、煙草を喫いながら、読み込んだ。

両者は純文学からスタートし、やがて中間小説で著名となり、流行作家になったが、
その後、純文学に回帰する過程、動機に冠する発言に、思わず涙ぐんだりした。

帰路、家内と遊歩道を歩いていたら、
サクランポウの樹木が多く植わっている処を通り過ぎる時、
風が吹いており、豆粒ほどのサクランボウの実がはらはらと落ちて来た。

遊歩道は赤紫色の実が数多く散乱していた・・。

水上 勉・氏は故人となり、あの世に行かれたが、
彼が残こされた作品は、私は今後も数年おきに読んだりするだろう。
・・】


昨年の2008(平成20)年6月29日らになると、
【 改めて、瀬戸内寂聴さんから、教示され・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
私は石原慎太郎、瀬戸内寂聴の両氏に寄る『人生への恋文~往復随筆~』(文春文庫)を読んでいるが、
両氏から人生の哲学のようなことを数多く学んでいる。

特に先程読んだ中で、瀬戸内寂聴さんの一節が深く心に残り、
温かみのある助言を頂ただけた、と私は感謝している。

私は瀬戸内寂聴さんとは、未知の人であり、
東京オリンピックの頃には、瀬戸内晴美の初期短編集を読み終え、
『夏の終り』の作品は、友人等に絶賛したひとりである。

その後、1945(昭和45)年に大手の民間会社に中途入社する時までは、
ある程度このお方の作品を読んでいたが、
その後は私なりに企業戦士の一員となり、このお方の作品から離れていた。

定年退職した後、水上 勉との共著の『文章修業』(岩波書店)で、
両氏の純文学の熱く深い思いを改めて学んだりしたのである。

このような決して愛読者とはいえない私であるが、
読んでいる一節に深く考えさせられ、限りない人生の助言を頂けた、
と思っているのである。


無断であり、引用させて頂ければ、

《・・
人間はひとりひとりがこの世に自分ひとりしか持っていない、
かけ替えのない個性と資質に、誇りを持って、世俗の常識に巻きこまれず、
わが道を独りでも行くという気概を失わないことが大切だと、
わたしもかねがね思っていました。

お釈迦さまの教えの中にも
「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
というのがあります。
わたしはの大好きなことばです。
・・》
「心に光を」ページ224から引用
注)原文よりあえて改行を多くした。

この一節の文章から、私は年金生活の4年生の身であるが、
残された人生の日々に陽光を頂いた、と思ったりしたのである。

そして、玄関の軒下で小雨降る情景を眺めていると、
ときには小雨は限りなく優しい、と確信を深めたりしている。
・・】


この後は、やはり昨年の2008(平成20)年9月19日におき、
【 40数年ぶりに、瀬戸内寂聴の小説を読みだし・・♪】
と題して、投稿している。


私は昨日の午後より、瀬戸内寂聴・著の『秘花』(新潮社)を読み始めて、
本日のひとときも読み、第四章の数ページで、小用の為にやむえず中断している。

私は民間会社を定年退職後、年金生活の身で、もとより能の素養がないが、
中世で能の大成者と知られいる世阿弥に興味を持ったのは、
東京オリンピックの頃からであった。


8月の初旬に3泊4日で、佐渡島に滞在旅行をする前、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』を遅ればせながら本屋で購入したが、
あえて私なりの流刑となった世阿弥の佐渡の時代を思いを馳せたく、
未読としていたのである。


私は東京オリンピックの開催された頃、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。

この当時の頃、瀬戸内晴美の『夏の終り』を読み終えて、
友人らに絶賛したりし、初期の作品の『女子大生・曲愛玲』、
『花芯』などの短編小説集を読み耽ったりしていた。

この後、『女徳』などで大衆文学を精力的に発表された後は、
私は瀬戸内晴美の小説から離れた。

私が25歳から民間会社に中途入社した後、
『美は乱調にあり』を本屋の店頭で見かけたが、タイトルの命名に魅了されたが、
購入する意志はなかったのである。

その後は、瀬戸内晴美は仏門に入った、と月刊総合雑誌などで知り、
私は有数の小説家なのにどうした心境なのか、と思ったりしていた。
そして、のちに晴美から寂聴と改名され、
私は少し寂しさを隠し切れなかったのである。


私は2004(平成16)年の晩秋に民間会社を定年退職をし、年金生活に入った頃は、
瀬戸内寂聴ご自身は、既に20年近く法話などされて、賞賛された人となり、
稀(ま)れな著名人となっていた。

私の年金生活は、身過ぎ世過ぎの日常であるが、
小説、随筆、現代史、歴史書などを読む時間を優先としているので、
本屋に寄ったり、ときおり古本屋を訪ねたりすることが多いのである。

数年前、本屋の店頭で、
水上 勉との対談集『文章修行』(岩波書店)を見かけ、購入し、
両氏の純文学の深い思いに、思わず涙を流したのである。

その後、石原慎太郎との往復書簡の『人生への恋文』(文春文庫)を読み終え、
瀬戸内寂聴の人生の軌跡を改めて知った上、日常の思いも知り、
数多くの人生の機敏を学んだのである。

ただ、このお方の真摯な数多く発表された中期、後期、そして近年作の小説は、
私は本の愛好家のひとりとし、無念ながら未読となっている。

尚、このお方の真摯な『秘花』を拝読を終えた後は、
単なる感想文でなく、大人の評論を掲載する予定である。



この後の私は、昨年の2008(平成20)年9月24日に於いては、
【 瀬戸内寂聴・著の『秘花』 】
と題して、評論形式として投稿しているが、
今回は、《序章》だけを再掲載する。


日本の中のひとつとして、瀬戸内山脈があるが、
50数年前に突然に隆起して形(かたち)づくられた山なみである。

ひとりの女性が小説家を目指し、少女小説や童話を発表されながら、
ひたすら純文学の世界を目標とされていた。

こうした折、純文学の雑誌に佳作を発表されたが、
文壇の有力な文藝評論家から、手厳しい批判にさらされ、
大衆文学を公表しながら、発表のあてない純文学の作品を書き続けていたのである。

そして、純文学のふたつの作品を発表され、
文壇はもとより、多くの文学青年・少女から高い評価を得て、
著名な文学賞を獲得した後は、地下水脈から溢れる泉水のように、
精力的に作品を発表され、次々と本が発刊され、またたくまに流行作家として地位を確立された。

こうした人気もあり、流行作家として確固たる人が、
突然に仏門に入り、修行しながら、作品を発表され、文壇以外の多くの人々を驚ろかせた。


その後、大衆文学を主軸とした流行作家を自ら捨て、再び純文学に回帰し、
岩手の天台寺で青空説法と称せられた法話をされ、
この寺の境内で、この方の法話と言動を多くの人たちに感動を与え、
うらぶれていた寺を再興させたのである。

そして法話はもとより、講演、随筆などで、各地の多くの人びとに、
心の救済、そして生きがいを導いたのである。

この間、文壇の大家の証(あかし)のひとつとされている『源氏物語』の
現代語訳の大作を発表されたりしていた。

そして、近年に文化勲章も受章され、数多くの国民から賞賛され、
現代に至っている。


このように平地に住む年金生活の無名な男は思って、
そびえる瀬戸内と命名された高き峰峰を眺めてきたのである。



私はこのような思いで、作家・瀬戸内寂聴さんを眺めてきたのである。

                              《つづく》



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作家・瀬戸内寂聴さんから、私は幾度も教示され・・。 【上】

2009-12-04 08:50:44 | 真摯に『文学』を思考する時
          序章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつのように読売新聞の朝刊を読み終えた後、
ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
思わず襟(えり)を正したのである。

【イベント・フォーラム
      瀬戸内寂聴さんが語る
         (2)小説家で食べていくことの難しさ

      読売新聞創刊135周年スペシャルフォーラム】

このように題された記事を偶然に見かけて、私なりに深く精読した後、
連載と知り、この第一回を探して、読み込んだりしたのであった。


【 瀬戸内寂聴さんが語る
           (1)小説家への道
               読売新聞創刊135周年スペシャルフォーラム】

と題されていたのであるが、


「創刊135周年スペシャルフォーラム」は、
「自分らしさ」「がんに打ち勝つ」「艶のある人生」の3つをテーマに9月から11月まで、全国10か所で開催してきました。
その中で、10月27日に千葉県・柏会場で行われた
作家・瀬戸内寂聴さんの講演「強い心で、自分らしい生き方を」の内容を
ご紹介いたします。


このような趣旨の一環として、作家・瀬戸内寂聴さんが講演の中で語った言葉と知ったのである。

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=17764
☆ 瀬戸内寂聴さんが語る (1)小説家への道  ☆

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=17765
☆ 瀬戸内寂聴さんが語る ((2)小説家で食べていくことの難しさ  ☆



私は幾度も作家・瀬戸内寂聴さんから教示されことをこのサイトでも数多く綴っている。


                             《つづく》




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【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《下》

2009-09-10 18:16:21 | 真摯に『文学』を思考する時
前回に続き、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、
この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(下)更新され続ける作家像

見え隠れする「私」

作家には、作者の分身を作品に登場させるタイプと、
自分の影を消すタイプがいる。

<風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩いてゆく人だった>
と、妻の津島美知子が回想した太宰は前者だ。

モントリオール映画祭最優秀監督賞に輝いた根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」、
来年公開の「人間失格」には、太宰の分身・苦悩の人がいる。


推理小説から古代史まで徹底取材し、歴史と社会の闇を追った清張はもとより後者だ。
「半生の記」のあとがきで
<いわゆる私小説というのは私の体質には合わない>と書いている。

しかし、そう簡単にも割り切れない。
太宰は1939年に結婚した後、
他人の日記をもとに「女生徒」「正義と微笑」などを創作した。
今秋公開の「パンドラの匣」(冨永昌敬監督)の原作も、「木村庄助日誌」をもとにした作品で、
結核療養所に入った少年の、死と背中合わせながら希望を失わない生活が生き生きと描かれる。
これまで脚光を浴びなかった1編だ。


冨永監督は中学生のころ「人間失格」など晩年の長編を読んで
「すぐ死にそうなことを書いて、たいして面白くないな」と思った。
ところが井伏鱒二作品をモチーフに長編デビュー作「パビリオン山椒魚」(2006年)を撮る際、
井伏と太宰の師弟関係を知り、
「黄村先生言行録」など太宰の中期作品の軽さと明るさに触れて「太宰を誤解していた」
ことに気付いた。
「キャラクターのキャッチーで、つかみやすいところは映画向き」という。
「演じてみたいと俳優をその気にさせる」


一方で、清張の私小説的側面に光を当てる動きも出てきた。
先月完結した「松本清張傑作選」(全6巻、新潮社)で、
直木賞作家の宮部みゆきさんが「月」「父系の指」「泥炭地」など12編を選んだ1冊。
副題は「戦い続けた男の素顔」だ。

苦労を重ねた父、学歴を克服しようと努力しても不遇だった下積み時代……。
<逃れられない宿命の悲しみと、つかみ得ない幸福への憧憬>(宮部さんの解説)などのテーマが通底し、
人間・清張の素顔がのぞく。

では、なぜ太宰のように苦悩する「私」を書かなかったか。
無名のサラリーマン、悪党や悪女、歴史上の人物などを作品ごとに登場させたのは
「自分のことを書くなら、それを虚構に発展させたい」
という小説観もあっただろう。

加えて宮部さんは
「清張には、自分も含めて一人の人間の存在は、小さく儚いものに過ぎないという断念、諦念があったからではないか」
と語る。
その断念、諦念こそ「圧殺される弱者を見過ごしにできない<追求者><告発者>松本清張の原動力にもなった」。
圧殺される弱者も、戦い続ける男も、実は清張自身だった。

そんな「私小説的作品であっても、ラストのどんでん返しでアッと言わせるのが清張の魅力」(宮部さん)とも言い添える。

太宰と清張。1909年に生まれた2人の作家像は、今もなお更新され続けている。
(おわり)

(2009年9月9日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は恥ずかしながら、宮部みゆきの小説は読んだことのない身であるが、
松本清張の作品としての確かな慧眼に思わず敬意をしたのである。

《・・
逃れられない宿命の悲しみと、つかみ得ない幸福への憧憬・・
清張には、自分も含めて一人の人間の存在は、小さく儚いものに過ぎないという断念、諦念があったからではないか・・
その断念、諦念こそ「圧殺される弱者を見過ごしにできない<追求者><告発者>松本清張の原動力にもなった。
・・》

私は数多くの読者と同様に、松本清張の発表した作品は半分ぐらいは読んできたと思うが、
いつも感じさせられるのは、まぎれもなく宮部みゆきの発言されたことである。
私は感じるだけで、的確に表現された宮部みゆきの批評眼は、優れた批評家でもある。

いずれにしても、太宰治、松本清張の両氏は、
各出版社で生誕100年称してイベントのように掲げられているが、
特に若い人に両氏の遺された作品の数々を読み、心の洗濯をされれば、
と齢を重ねた私は余計なことを思ったりしている。

そして、どの小説に於いても、少なくとも必ず一行は学ぶことがある、
と拙(つたな)い読書歴まもなく50年の私は確信している。


尚、私の綴った作家名は敬称を省略させて頂きました。


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【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《中》

2009-09-10 17:04:15 | 真摯に『文学』を思考する時
前回に続き、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、
この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(中)森鴎外、菊池寛…を敬愛

「読んで面白い」文学志向

松本清張は生前、太宰治について、わずかだが言及している。
1度は、日本推理作家協会理事長に就任し、
不動のベストセラー作家だった1963年から文芸誌「文藝(ぶんげい)」に連載した「回想的自叙伝」に出てくる。
朝鮮戦争の頃を回顧していう。

<私は相変わらず印刷屋の仕事を内職にし(中略)小説も文学も私には一切無縁だった。
会社で太宰治を語る者がいたが、私はこの情死で世間的に有名になった作家の作品を何一つ読んでいなかった。
のちになって太宰の小説で感心したのは「ヴィヨンの妻」と「津軽」であった>

それが1976年11月の座談会「松本清張・人生と文学を大いに語る」では、
太宰を物語性を失った私小説・転向文学の系譜に位置づけ、否定的な調子に変わる。
<転向小説にみる自己否定、人格否定が虚無主義にもなり、
戦後の太宰治の小説にもなり、坂口安吾らの傍流にもなったと思います>。


この二つの発言に挟まれた1964年、
中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。

当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。

容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
太宰は全集で1巻入った。


その直後の1966年、自叙伝の連載を単行本「半生の記」として出版する際、
清張は、〈太宰の小説で感心……〉の個所や、
三島について〈この作者のものを雑誌などでは一番に拾うようになった〉と書いた部分を削っている。
純文学への恨みではなかったか。


だが一方で、2人の文学的嗜好(しこう)は驚くほど似ていた。
清張が芥川賞受賞作「或る『小倉日記』伝」でモチーフにした森鴎外は、
太宰が最も敬愛した作家の一人で、生前の希望通り、
太宰の墓は、鴎外と同じ禅林寺(東京・三鷹)にある。

青春時代の芥川龍之介への傾倒も共通する。
注目すべきは、清張が「現実的な眼」「新鮮な着想」から
<芥川以上の才気>と評した戦前のベストセラー作家、菊池寛を、
太宰もまた高く評価。

太宰に師事した東京帝大生・堤重久に作家で誰が後世残るかと問われ、
「菊池寛が残ると思うね」と答えている。


清張は「自分も楽しみ、読者もまたそれを楽しむなら、純文学も大衆文学も無い」
という菊池の言葉を信条とした。


太宰もこう語っている。
<やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。
あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです>(「『晩年』に就いて」)。

太宰の評伝『ピカレスク』や菊池を描いた『こころの王国』の著者で作家の猪瀬直樹氏は、
「清張は、社会派と一括(くく)りにされるけど、
短編『部分』に鮮やかなように、日常にふとよぎる小さな驚きや疑問から、的確に観察し、心理描写している。
人間によって構成されている社会を見る視点がある」と指摘する。

太宰については「本当にいい小説を書くようになるのは結婚後。
『女生徒』『皮膚と心』『十二月八日』など、作品に生活がすーっと入ってくる。
そこから人間の心が見えてくる」。


清張には作家デビュー以前の、家族を背負った長く苦しい生活があった。
太宰は青春の文学的苦悩と彷徨(ほうこう)の果てに訪れた結婚生活で、文学を成熟させていった。

〈自分には人間の生活というものが、見当つかないのです〉という言葉を遺著「人間失格」に記した太宰は、
結婚した1939年に発表した短編「懶惰(らんだ)の歌留多」にはこう書いていた。
〈苦しさだの、高邁(こうまい)だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。
書け。落語でも一口噺でもいい。
(中略)働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである〉。

(2009年9月8日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
次兄が駅前の本屋から定期購入し、私は精読し、日本の近代・現代の文学として、
あますところなく読んだひとりである。
この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ三人で一冊の本として編集されてもよいのではないか、と思ったりしていたのである。

今回、編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。

私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。

三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。


私も森鴎外に関しては、夏目漱石、島崎藤村より敬愛ひとりであるので、
太宰治、松本清張の両氏の深い思いは知ったりしていた。
改めて、この行に微笑みながら読んでいたのである。

                             《つづく》



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【太宰と清張 生誕100年】を読みながら・・。 《上》

2009-09-10 15:58:15 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
9月7日より、3日間に及び【太宰と清張 生誕100年】が掲載され、私も精読したひとりである。

この記事に準じた内容が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
一日遅れで掲載されていたので、転載させて頂き、
私は読みながら感じ、思いを馳せたことを記載する。


《・・

【太宰と清張 生誕100年】(上)生の苦悩 交差する2人

太宰治と松本清張が今年、生誕100年を迎えた。
社会派推理の巨匠・清張のデビューは、無頼派・太宰の死の2年後。

活躍時期はすれ違い、作風も違うが、同じころ死の淵を彷徨った。
1909年生まれの2人を結ぶ“点と線”から、その文学を考える。


月給10円見習職人 ■ 仕送り月100円の学生

「金木(かなぎ)の殿様」と呼ばれた津軽の大地主の六男に生まれ、東京帝大在学中から文芸誌に執筆した太宰と、
高等小学校卒業後14歳で働き始め、
21歳のころ「生活のために、かねて夢として抱いていた文学を捨てた」清張では境遇は全く異なる。

「生まれてすみません」と苦悩する顔、「元気で行こう。絶望するな」(「津軽」)
と読者を励ます明るい顔の両極を揺れながら純文学を貫いた太宰と、
推理小説、時代小説、古代史ものからノンフィクションまで書いた清張とは作風も違う。

しかし、対照的な2人の人生は、奇(く)しくも2度重なり合っている。
最初は20歳のころ。
実家から月100円以上の仕送りを受け、芸者遊びもしていた旧制弘前高校生の太宰は29年、
「金持は皆わるい。金の無い一(せんみん)だけが正しい」
というプロレタリア独裁思想に染まり、最初の自殺を図る。

19歳になる年、月給10円の印刷所の見習職人になり、「最低に近い生活」をしていた清張も自殺を考えた。
「二十一、二くらいのときではなかっただろうか。
(中略)自分の前途、現在の境遇、そういうものに絶望を感じたからだったと思う」(「実感的人生論」)。

太宰が38歳で自殺したころ、清張もまた死の淵にいた。
当時、朝日新聞西部本社の広告部員だったが、出世の見込みはなく、
麻雀(マージャン)や将棋で気を紛らわす日々で、
「家族の多い家に帰るのがうんざりしていたし、外に出ても行き場がなかった。

もし、私にもっと直接的な動機があったら、あるいはそのとき自殺を企てたかもしれない」(「半生の記」)。
清張は、新聞社で働く38歳の男が学歴が低いことから将来を悲観し、
自殺を図る短編「背広服の変死者」を56年に発表している。

2人の生と死を分けたものは何か。
数度の自殺未遂、薬物中毒による精神科病院入院など波乱の青春を送った太宰は29歳で結婚。
体が弱く、召集されなかったが、戦火の下で、
「津軽」「お伽草子(とぎそうし)」など生を肯定する明るい小説を書き続けた。
しかし、没落貴族の女性の恋と革命を描いた「斜陽」がベストセラーになった戦後は生活がすさみ、
遺作「人間失格」では生きる苦悩をつづった。

このため、その死は、無頼派の象徴とされた。
これに対し文芸評論家の加藤典洋氏は
「何があっても生きていればいいという実存的考えと、
戦死した若者の純粋さへの後ろめたさとの分裂に持ちこたえられなくなった」と見る。

太宰は戦争末期の44年、小説「散華」で、玉砕する直前の若き友人から届いた手紙を紹介している。
〈無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます、この戦争のために。〉

戦争賛美から、掌(てのひら)を返したように民主主義万歳が叫ばれた戦後、
太宰の戦死者へのうしろめたさと社会の欺瞞(ぎまん)へのやりきれなさは高まり、
「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」と書くに至る。
48年6月、妻と3人の子を残し、東京・三鷹の玉川上水に愛人と入水自殺した。

かたや戦争中、朝鮮半島で衛生兵をしていた清張は、
「出征中は、晴れて家族扶養の義務から解放された。
逆に言うと戦後は、家庭が重くのしかかってきた」
と評論家の関川夏央氏は指摘する。

しかし清張は、その家庭の生活を創作の出発点にした。
50年に懸賞小説に入選したデビュー作「西郷札(さいごうさつ)」を書いたのは、
両親と妻、4子を養う「賞金欲しさ」からだった。

太宰が渇望した芥川賞を53年に受けた遅咲きの清張は
「時間が足りない。書きたいものがありすぎる」が口癖。
旺盛に執筆し、約1000点の作品を残した。
家族に見守られ、82年の生涯を終えたのは、太宰の死から44年後だった。

(2009年9月7日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
大学を中退し映画、文学青年の真似事をはじめた身であるが、
1944(昭和19)年の秋に農家の三男坊として生を受けた。
小学校に入学した頃は、本らしき書物は農協の定期雑誌の『家の光』しか記憶がないのであるが、
長兄、次兄は学力は優等生であった。

小学五年の頃に、都心から引越しされた近所の家では、
応接間に本棚が数本あり、私は無知ながら本の背文字を見て、ため息をしたりしたが、
もとより通信簿『2』の多い劣等性であった。

私が都心の私立高校に入学して間もない時、
授業が面白<感じられ、読書に目覚め、新潮社の文庫本を中心に読みふけったり、小説の真似事の習作も初めたりした。

映画、文学青年の真似事した二十歳過ぎには、
太宰治の数々の作品を読んだりしたが、家柄もよいくせに作品の行間からは泣き言のような感じが多く、
何よりも妻子を残して、愛人と心中するなどは、小説家以前の社会人のひとりとして、許せなく、
総花的には好きになれなかった若い読者のひとりだった。
後年になると、太宰の家は狂気の人もいて、太宰の苦悩の心中を学び、
私も大人の階段の生活を過ごし、改心し、優れた作品に感銘を受けたりした。

松本清張の作品には、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』を読み、優れた文学作品と感じ、
『点と腺』を初めとする社会推理小説と称せられた一連の作品からは、
人の情念の深淵を描き、何よりも不条理的な動機に感銘したりしていた。
そして、松本清張が貧しき生活の中で、学歴もなく、社会人となり、
家族を養いながら小説を書き上げ、
芥川賞を受賞するまでの軌跡を知り、私なりの感動と勇気を頂いたりしていた。


しかし、この頃は純文学、中間小説、大衆文学と小説の世界では暗黙に区分されていたので、
私は太宰治は純文学、松本清張の作品は『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』等を含めた5作品を除き、
中間小説の多作する圧倒的な人と余りにも無知なひとりでもあった。


                               《つづき》




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ふたたび、作家・遠藤周作に思いを寄せ・・。

2009-02-10 09:02:04 | 真摯に『文学』を思考する時
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
ここ1週間ばかり、平成8年(1996年)に亡くなわれた作家・遠藤周作氏のことを思索していた。

私は明日より、長崎・雲仙に8泊9日で家内と家内の母と共に3人で訪れるので、
旅先のひとときは独りで散策するので、
どの場所を観ようか、ここ三週間思いめぐらしていたのである。

こうした中で、長崎の外海(そとめ)地域に、『遠藤周作文学館』があると知り、
訪ねてみようかしら、と思ったりしたのである。


私は東京オリンピックの開催された時、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。

高校時代より読書に熱中し、なかでも小説に魅せられたひとりである。
なかでも新潮社、岩波の文庫本などを買い求め、乱読したりした。
そして、中央公論社が日本文学の全集を発刊され、
私は熱愛しながら、読んでいたのである。

この頃に私は、遠藤周作氏の作品を読み、殆どの作品を愛読し、
そして昭和41年(1966年)に新潮社より純文学書き下ろし作品のひとつとして、
『沈黙』を読み、
感銘を受けながら、作家に心酔していたのである。

この後、私は数年後に、サラリーマンの身となったが、
ときおり本屋で遠藤周作氏の新たな本を見かけると、
買い求めたりしていたのである。

一昨日、私は奥の部屋にある本棚から、
一冊の雑誌を見つけ、懐かしげに再読をし始めたのである。

別冊新評『遠藤周作の世界』(新評社)と題された季刊雑誌で、
’73 WINTERと明示され、昭和48年12月に発売された本である。

そして、私は少しづつ懐かしげに読んでいる。



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嵐山光三郎・著の『編集者諸君!』を拝読して・・。

2009-01-19 16:00:29 | 真摯に『文学』を思考する時
昨年の12月下旬、家内と札幌に4泊5日で滞在旅行した時、
市内を散策していた時、大型書店のチェーンとして名高い『JUNKUDO』を観かけたので、入店したのである。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であり、
読書好きなひとりであるが、
最寄の駅前の本屋には行くが、わざわざ人の多い新宿まで足を伸ばす元気はなく、
『紀伊国屋書店』より大きな『JUNKUDO』が出店したと数年前に知ったりしたが、
時代の趨勢かしら、と思うだけであった。

今回、たまたま旅行先の札幌で『JUNKUDO』を観かけ、
どの程度の品ぞろえの本があるか、ひとつの興味もあったりしたのである。
私の拙い読書歴からして、小説と随筆の本棚を眺めれば、
各分野の専門店は例外として、ある程度の本屋の様子が解かる、と思っている。

このような思いで、著作者別の『小説』棚、『随筆』棚を眺めていた時、
ひとつの本に目が止まったのである。
嵐山光三郎・著の『編集者諸君!』であり、
発行所は『本の雑誌社』で1994年7月20日 初版第一刷発行
と明記されていた。

私は作家の嵐山光三郎氏に関しては、ここ数年に愛読する作家のひとりであり、
街中にある本屋で見かけた時は、ためらわず購入しているが、
この本は見かけたことがなかったので、やはり大型書店は、と感心したのである。

私は無念ながら忘れてしまったが、どのお方かが、
小説・随筆にしろ本の中からは必ず一行は学ぶことがある、
と30数年前に読んだりしたことがあったが、
私は嵐山光三郎氏に関しては、作品を読むたびに多々教示され、
このサイトにも数多く投稿してきている。


今回の『編集者諸君!』についは、著作者の嵐山光三郎氏の『あとがき』で明記している通り、
『本の雑誌社』に連載した随筆を一冊の本に集約した本である。

私はこの中で、特に教示させられたのは、
【 西行は007である 】と題された随筆であり、
正月の三が日にしばしば読み返し、思索させられたひとりである。

無断であるが、引用させて頂く。

【・・
西行は天皇を守護する北面の武士であった。
皇居の北面を守る武士で、いまでいえば皇居警察にあたる。
天皇の権力が絶大な時代であったから、
警視庁公安幹部といったほうが正確だろう。


西行が出家したのは、保身である。
そのまま天皇親衛隊をつとめていれば、西行は必ず殺されていた。

天皇と上皇が争った保元の乱は到底乗り切れなかったはずである。
うまくわたり歩いて保元の乱を乗り切っても、
それにつづく清盛vs義朝の平治の乱は乗り切れるものではない。

西行の元同僚は、平治の乱までに、
ほぼ半数が戦死あるいは戦犯として斬首されている。逃亡した者もいる。

勝ち残った清盛(西行と同年齢の旧友)にしたところで、いずれ負けるのだから、
西行は、知人友人同僚のほぼ全員の死を見届けるのである。
西行はそれを予見していた。


西行は逃げたのである。
『山家集』の成果によって日本の名だたる歌人となったものの、
戦乱のさなかに死んでいった武士輩の仲間からみれば、
卑怯者であり、逃亡僧であり、一番ずるくたちまわった。

そのことを書いている人は一人もいない。
みな、西行に心酔しきっているためである。


西行は軍人であった。
軍人が戦争を前にして突如ぅ詩人にくらがえしたようなものである。
軍人でなければかっこうはつくが、軍人であるがゆえにぶざまである。
そのいらだちが西行を果てしない放浪へとさそった。


西行の研究家のみならず、古典文学研究家や愛好者がおちいる罠は、
時代の現実生活を見ない点である。
いちおうの知識はあっても、文学の世界を、
現実の世からかけはなれた秘密の花園としてしまう。

それは書かれた作品によって構築された作家の内面にすぎず、
まんまと書き手の手口にはまってしまう。
「時代は戦乱のさなかであり、京の都は血で血を洗う戦いの連続であった」
ぐらいで、
「その乱れた時代に背をむけ孤独の旅をつづけた」
というくらいの認識である。


たとえば、保元の乱のとき西行はなにをしていたか。
それについては「ひそかに見物していた」という記録があるくらいで、
鎌倉時代に書かれた『西行物語』にしたところで、そこのところはとんでいる。

西行は、葬儀にはよく出た人で、
上皇、天皇、皇后の葬儀には必ずかけつけている。
仕えていた徳大寺大臣家の葬儀、歌友の葬儀にもかけつけているから、
山の中に住んでいるとはいえ、世間の動きには敏感であった。
・・

西行は出家してからも、政治の枝葉末節にかかわっていたはずである。
仕える家が大臣家であり、鳥羽法皇や崇徳院との知己を得ていたことでも、
ただの歌人でないことがわかる。
清盛ももとの同僚である。
そういった血なまぐささから逃れようとしても、逃れられるはずがない。
放浪僧に化けた宮廷歌人であり、その底に軍人の意地が流れている。
世間をケムに巻く007のようなものだ。

西行の歌はめちゃくちゃうまい。

絶品である。死に方までもドラマティックである。
時代がたてばたつほど、その虚構の純粋さが光を放つ。
だからぼくは、
「まてよ」
と思うのである。

・・


注)作者の原文より、あえて改行を多くした。



私は短歌を詠む素養はないが、やはり西行の遺された歌の数々に魅せられ、
安田章生・著の『西行』、白州正子・著の『西行』、
上田三四二・著の『この世 この生 ~西行・良寛・明恵・道元~』など10冊前後を読んだりしていた。

今回、この本を拝読していたのであるが、
西行の生きた時代の現実生活の背景を怜悧に考慮しなければ、
西行自身の実像はもとより遺された歌の数々が視(み)えてこない、
という嵐山光三郎氏の明晰な評価を学んだのである。

嵐山光三郎氏はもとより國學院大學文学部国文科で中世文学を専攻され、
平凡社で『太陽』の編集長を歴任した後、
数々の温泉紀行、料理に関しても随筆を書かれる多彩なお方でもある。

今回の『西行は007である』の中で、
【・・
机の前には百冊近くの西行関係資料があり、
まずそれをざ-っと読むのに1年かかった。
それから枝葉末節を半年ほじくって・・】

注)作者の原文より、あえて改行を多くした。

このような真摯で凄冽なほどに題材に向われ、書き上げるお方であり、
何より平凡社に勤めた編集時代に、
多くの創作に携わる作家の表と裏を身近に観続けてきた側面が加わって折、
こうした西行に関し、現世に於き稀(ま)れな提示した渾身の随筆を書き上げる才気の人である。

この作家にあえて苦言を書けば、
タイトルは安易に付けられこともあり、綴られる文章に、ときおり遊びがある。
そして、かって作者は、『西行と清盛』を書かれていたが、
壮大な大河小説でも出来る題材を流したように書き急ぎ、
と惜しまれる小説だった、と私なりに感じていたのである。


このよう感じたりしていたが、
現世の作家の随筆などで、中味が濃い名文を書き上げ、私が感銘を受ける人は、
嵐山光三郎、角川春樹の両氏しか私は知らないのである。







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『蒼穹(そうきゅう)』という言霊に深く魅了され・・♪

2009-01-16 16:48:49 | 真摯に『文学』を思考する時
私が蒼穹(そうきゅう)という言葉を遅ればせながら知ったのは、
昭和55年(1980年)10月の初旬で、私が30代のなかばであった。

敬愛していた作家・立原正秋氏が亡くなり、
遺稿エッセイ集として立原正秋・著の『冬の花』(新潮社)から発刊されて、
私は発刊日を待ち焦がれて、買い求めた一冊である。

この中の随筆のひとつとして、
『旅から帰って』と題された随筆があり、私は初めて『蒼穹』という言葉を知り、学んだのである。

【・・
1日、思いたって浦上蒼穹堂を訪ねた。
有名な店ではない。蒼穹堂は私がつけた店である。
浦上満くんは繭山龍泉堂に五年間勤め、
日本橋の仲通りに独立して小さな美術店を開いた。
・・
たのまれて蒼穹堂の扁額を認めたが、
日が経つにつれて字が不安になってきたので、
それをたしかめるためでもあった。

・・』
立原正秋・著の随筆集『冬の花』から、『旅から帰って』よりP45の一部を引用

注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私は読みながら、蒼穹という言葉は、
作者が朝鮮半島で生を受けたのであるから、
大陸性の風土で、澄み切った蒼い空が空一面に果てしなく拡がった冬晴れるの光景を
思い浮かべたのである。

このような想像をしながら、私は亡くなわれて数が月の作家に愛惜を深めたりした・・。


この後は、平成8年(1996年)の4月に、本屋で『蒼穹の昴』と題された背文字に魅了されて、
本棚から取り出したのは作家・浅田次郎の小説の上・下巻(講談社)であり、
まもなく私はこの小説に夢中になった後、この作家の過去の作品を探し求め、
読んだりしたのである。


そして、平成11年の晩秋の頃、大型書店で偶然に、
金子 昌夫・著の『 蒼穹と共生~立原正秋・山川方夫・開高健の文学 ~』
という評論集を見かけたが、
殆どの作者の作品を読んだりしていたので、購入しなかったのである。
ただ、《透きとおった蒼空の動かしがたい美しさ》と本の帯に書かれていたのが、
心に残ったのである。


そして、昨夜、あるサイトの投稿文の詩を読んでいたら、
私は詩の世界は余り読んだことがないが、
私の知る限り、桁外れに才能を秘めた詩を読んだのである。

  『バラード』と題された詩で



市営グランドの柵を乗り越えたら
そこは満天の星々
ぼくだけの舞台に
またひとつ流れ星が堕ちてゆく
なにひとつ
歌の聞こえてこない市営グランド

寝そべって見上げれば
空も 
地球も
人間も
すべての生き物も
蒼穹の夢の欠片のような輝き

・・


私は、《寝そべって見上げれば・・》からはじまる一節、
何より《蒼穹の夢の欠片のような輝き》一節・・
この一節だけでも、私が感じ、感銘を受けた度合いは、詩人・宮沢賢治氏を遙かに凌駕している。


たまたま今朝のひととき、隠れた才能のある方の詩を再読し、
動顚するほどに感銘を受けたので、
改めて《蒼穹》に関して、このような形で私なりに綴ることができたのである。

尚、この作者の表現された詩は、このサイトにある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki






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『ネットと文学』に関する新聞記事を読み・・。

2008-10-17 15:12:07 | 真摯に『文学』を思考する時
私は民間会社に勤め定年退職後の年金生活の4年生の身であり、
まもなく5年目となる。

ここ数日は、読売新聞で15日に於いて、
『文芸』欄で掲載された記事を何度も繰り返して読んだりしている。

この記事は、金巻有美・記者により記載された記事である。

【日中韓の3国の作家や詩人、文芸評論家らが集い、
語り合う「第1回 東アジア文学フォーラム」が、
先月29日から10月2日までの4日間にわたって、韓国・ソウルで行われた。
3国の作家らは、ネット社会における文学の役割といった
共通の問題意識を持ちながら活発に議論を交わした。】

という序章であった。

【・・
いずれの国の作家も言及したのが、
1990年代以降のインターネットの普及とネット文学についてだった。

日本では10代の女性を中心携帯電話のサイト上で
小説を発表する「ケータイ小説」が人気を集め、
書籍化されたものはミリオンセラーとなっている。

中韓でも、「ケータイ小説」はまだないものの、
インターネット上で小説を発表し、そこからデビューする作家が出ている。
・・・
こうした状況の中、
「作家が特殊な職業や体験を取材して書いても、
そのリアリティーは当事者がブログに書き込む証言に
あっさり乗り越えられてしまう。
何が現代の、未来の小説の肝となるべきか考えなければならない」
とネット時代を生きる作家の悩みを素直に語ったのは、
近著の『決壊』でネット社会への問題意識を題材に
作品を執筆したばかり平野氏(啓一郎)。

誰でもが書き手となることができるネット社会で、
「趣味が多様化し、社会が機能的に分化する中で、
どのような社会的な合意、共通性を確保していくのかというところに、
文学がかかわる余地があるのではないか」
と述べた。


これに対し、韓国の(若手作家のリーダー的存在と知られている女性作家)殷氏は、
「ブログは生々しく、特異なことが書かれているが、
『観点』が欠けている。
作家は人間と世の中を解釈し、観点を示すのが小説の役割。
その意味で作家の仕事は多くなった」
という考えを示した。

「ネットは文学にとって危機なのか、チャンスなのか」
という問いを立てた中国の許龍錫氏は、
「平等で自由なネット空間の文学を通じて、
逆に文学の大衆化が達成され、文学領域を広げる機会になる」
とネット文学が現在の文学に新風を吹き込むことへの期待を語った。

さらに、ネットでひともうけをたくらむ子供たちを描いた『インストール』で、
高校時代にデビューした綿矢(りさら)氏は、
過去の名作や投稿サイトをネットで読んできた体験から、
「インターネットはその特性にあった独自の形式を見つけ、
ネット文学と従来の文学は、住み分けを図っていくのかもしれない」
と展望。

長編『犬身』をネット上の連載という形で発表していた松浦(理英子)氏も、
「安易な読み物がはんらんする不安がある一方で、
小説の自由度が増したことを喜んでいる作家も少なくない」
と述べ、
各国の作家からは現状を肯定的にとらえる意見も相次いだ。


一方で、
「私はインターネットもメールもやらないし、
紙に書く文学が廃れるとも思わない」
と語ったのは中国の雷抒雁氏のような詩人もおり
・・


以上、長々と引用させて頂いたが、要旨は上記の通りである。
注)金巻有美・記者の書かれた原文に、あえて改行を多くした。


私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、シナリオや小説の習作をしていた時期もあった。
芸能専門養成所の講師の計らいで、
児童劇の映画に出演したり、総合月刊雑誌の取材し下書きのアルバイトをしたり、
契約社員で警備員などをし、習作し、
純文学、中間小説の応募を重ねたが、結果として最終の当選作には至らなかった。

確固たる根拠もなく、ただ自身の感性と感覚を頼りに創作の習作を重ねたが、
果たして、30代で妻子を養う家庭生活を想像した時、
整然とした人並みの生活を営む自信がなく、
やむえず25歳で断念し、ある大手企業に何とか中途入社でき、
サラリーマンの身に投じたのである。
そして数多くのサラリーマンと同様に多忙な期間を過ごし、
定年退職まで35年間に及び勤めた拙(つたな)い身である。

こうした期間は、純文学、中間小説を読む機会が激減し、
勤務分野に係わる専門書、雑誌が多かったのである。
そして、ときおり小説、随筆、現代史、歴史書を読む程度だったので、
昭和50年以降の小説の数多くのは殆ど未知である。


私が定年退職後、年金生活に入ったのは、
せめて死ぬまでには何とか随筆形式で、
数百年ののちの文学の愛好家から、確かな珠玉の散文を遺(のこ)された人、
と慕われるくらい、たったひとつの散文を綴りたい、と思ったからである。

夢ばかり大きく、35年以上創作の感覚から離れていたので、
思いばかりつのったのである。

そして、まもなくブログの世界を知り、
私は文章の特訓に幸いとばかり、日記、随筆形式で、
殆ど毎日数通は投稿してきた。

石の上にも3年、と古人からの伝えがあるが、
無念ながら特訓期間は、既に丸4年を迎え、今日に至っている。


このように努力もなく、才能に乏しい私であるが、
たまたま『ネットと文学に関する』上記の新聞記事が読み、
思考させられたのである。

私は原稿用紙等に書かれても、或いはインターネットでも公表されようが、
結果として書物とされるか、ネット上で掲載され留まるか、
重視するタイプである。

私は若いお方から見れば、齢を重ねた64歳の身なので、
本屋、古本屋で魅了された書物を選定し、活字で読むひとりである。
過日、『青空文庫』のサイトを見ていた時、何となく違和感を感じ、
途中で止めたのである。

私は綿矢りさら・女史の小説は読んだことはないが、
今後は女史の発言通り、
ネット文学と従来の文学は、住み分けを図っていく、
と散文の世界をこよなく愛する私は確信している。


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