私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
15面の『文化』面で、
小説家・浅田次郎(あさだ・じろう)氏が、新刊の『終わらざる夏』(集英社)について、
読売新聞社のインタビュー記事が掲載されていた。
この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
村田雅幸・記者が綴られた記事で、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない
「戦争を体験した方々が生きているうちに書かなければ意味がないと思いました。
歴史になってから書くのは無責任すぎる。
今しかないというタイミングでした」
浅田次郎さん(58)の新刊『終わらざる夏』(集英社)は、
玉音放送の3日後に、千島列島の先端の島で実際に起きた日ソ両軍の戦闘に材をとりながら、
戦争に巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された人々の姿を描く大作である。
終戦から65年。風化しつつある戦争の記憶に対し、
今を生きる小説家として何ができるのかと挑んだ、
新たな代表作と呼ぶべき渾身(こんしん)の作だ。(村田雅幸)
1945年8月18日、対アメリカ戦を想定して日本軍が駐留していた占守(しゅむしゅ)島に突如、
ソ連軍が上陸、激しい戦闘が始まった。
現代の日本人の多くにとって“知られざる戦い”であり、
それゆえ小説家にとっては格好のテーマとなったはずだが、
浅田さんは上下巻合わせて900ページを超える作品の中で、
戦闘の描写をわずか10ページほどにとどめる。
「僕は占守島の戦いを書こうとしたんじゃない。
それを素材に、戦争というものをできるだけ全体的に書きたかったんだ。
その時代、社会の背景というものを」
大半を占めるのは、戦争という巨大な波にのみ込まれた個々人の、切なる思いである。
45歳となり、もう召集はないと考えていた翻訳編集者の片岡、
高い志を持つ医学生の菊池、
金鵄(きんし)勲章に輝く歴戦の英雄・富永。
占守島へ向かうことになった3人の全く異なる人生を軸に、
動員計画を立てる参謀、赤紙を配る村役場職員、疎開中の子供、そしてソ連兵の物語までも織り込みながら、
戦争の残酷さ、人々の悲しみの深さを重層的に浮かび上がらせる。
浅田さんは言う。
「日本人は戦後ずっと戦争を誠実に見つめ直してきた。
それは素晴らしいことだが、65年もたつと、どうしても戦争のイメージは画一化される。
僕はそれ自体、風化だと思う」。
例えば、広島の原爆ではその年のうちに14万人が死に、
東京大空襲の死者は10万人にも上る、
というデータを知ることは難しくない。
「でも、その数字それぞれに生活があったということまでは、
なかなか思い至らない。この一人一人の思いを知ることが戦争を理解することになる」
そのために数多くの資料にあたった。
地方の医大の卒業名簿を見れば、ある年代の死者が極端に多かった。
軍医として戦地で死んだのだった。
新聞の地方版には、英雄に祭り上げられた兵士の記事があった。
疎開の資料、ソ連の戦争の歴史も調べた。
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。
「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」
そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。
占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。
そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
(2010年7月27日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100727bk03.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】 浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない ☆
私は作家・浅田次郎氏については、このサイトで8通前後は投稿している。
たとえば、昨年の2009年11月22日に於いては、
【 真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』】
と題して投稿していた。
【・・
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
☆ 浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)☆
氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。
もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。
この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。
このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。
《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。
(略)
当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。
(略)
さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。
(略)
私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
(略)
不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。
むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。
いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。
この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。
合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。
私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。
(略)
小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。
このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。
私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。
このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。
【・・
(略)
この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。
小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。
作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。
私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。
最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。
私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。
それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。
現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。
今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。
この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
1970(昭和45)年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。
今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。
三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】
このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。
【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。
この中で浅田次郎氏は、最後に、
《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。
安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。
私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。
家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。
家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。
こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。
日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。
このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。
私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。
尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。
この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】
私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。
このように投稿をしたりした私であるが、今回のインタビュー記事を深く拝読したひとりであるが、
何よりも教示されたのは、
《・・
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。
「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」
そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。
占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。
そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
・・》
もとよりノンフィクションとフィクションの違いを明言した上で、
《・・証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れた・・》。
そして、《・・
本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
・・》
こうした明晰ある発言に、氏の文学への熱く真摯な思いを深く読み、
私は幾度も読み返し、氏に敬意を重ねたりしたのである。
そして私は、作家・嵐山光三郎・著の『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)に於いて、
嵐山光三郎氏が平凡社の編集時代、三島由紀夫氏の言動が描かれて折、
こうした思いも馳せて、<
浅田次郎氏の文学に対する確かに真摯な発露をつたない私なりに受け止めたりしている。
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今朝もいつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
15面の『文化』面で、
小説家・浅田次郎(あさだ・じろう)氏が、新刊の『終わらざる夏』(集英社)について、
読売新聞社のインタビュー記事が掲載されていた。
この記事に準じた記事は、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
村田雅幸・記者が綴られた記事で、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない
「戦争を体験した方々が生きているうちに書かなければ意味がないと思いました。
歴史になってから書くのは無責任すぎる。
今しかないというタイミングでした」
浅田次郎さん(58)の新刊『終わらざる夏』(集英社)は、
玉音放送の3日後に、千島列島の先端の島で実際に起きた日ソ両軍の戦闘に材をとりながら、
戦争に巻き込まれ、翻弄(ほんろう)された人々の姿を描く大作である。
終戦から65年。風化しつつある戦争の記憶に対し、
今を生きる小説家として何ができるのかと挑んだ、
新たな代表作と呼ぶべき渾身(こんしん)の作だ。(村田雅幸)
1945年8月18日、対アメリカ戦を想定して日本軍が駐留していた占守(しゅむしゅ)島に突如、
ソ連軍が上陸、激しい戦闘が始まった。
現代の日本人の多くにとって“知られざる戦い”であり、
それゆえ小説家にとっては格好のテーマとなったはずだが、
浅田さんは上下巻合わせて900ページを超える作品の中で、
戦闘の描写をわずか10ページほどにとどめる。
「僕は占守島の戦いを書こうとしたんじゃない。
それを素材に、戦争というものをできるだけ全体的に書きたかったんだ。
その時代、社会の背景というものを」
大半を占めるのは、戦争という巨大な波にのみ込まれた個々人の、切なる思いである。
45歳となり、もう召集はないと考えていた翻訳編集者の片岡、
高い志を持つ医学生の菊池、
金鵄(きんし)勲章に輝く歴戦の英雄・富永。
占守島へ向かうことになった3人の全く異なる人生を軸に、
動員計画を立てる参謀、赤紙を配る村役場職員、疎開中の子供、そしてソ連兵の物語までも織り込みながら、
戦争の残酷さ、人々の悲しみの深さを重層的に浮かび上がらせる。
浅田さんは言う。
「日本人は戦後ずっと戦争を誠実に見つめ直してきた。
それは素晴らしいことだが、65年もたつと、どうしても戦争のイメージは画一化される。
僕はそれ自体、風化だと思う」。
例えば、広島の原爆ではその年のうちに14万人が死に、
東京大空襲の死者は10万人にも上る、
というデータを知ることは難しくない。
「でも、その数字それぞれに生活があったということまでは、
なかなか思い至らない。この一人一人の思いを知ることが戦争を理解することになる」
そのために数多くの資料にあたった。
地方の医大の卒業名簿を見れば、ある年代の死者が極端に多かった。
軍医として戦地で死んだのだった。
新聞の地方版には、英雄に祭り上げられた兵士の記事があった。
疎開の資料、ソ連の戦争の歴史も調べた。
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。
「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」
そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。
占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。
そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
(2010年7月27日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100727bk03.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】 浅田次郎さん「終わらざる夏」 戦争、風化はさせない ☆
私は作家・浅田次郎氏については、このサイトで8通前後は投稿している。
たとえば、昨年の2009年11月22日に於いては、
【 真摯な文学青年に薦める本のひとつは、浅田次郎・著の『つばさよつばさ』】
と題して投稿していた。
【・・
ここ10数年、トップランナーのベストセラー作家である浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)を読んだ。
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784094084375
☆ 浅田次郎・著の『つばさよつばさ』(小学館文庫)☆
氏の《あとがきにかえて》に於いて、明示されているが、
JALの機内誌『SKYWARD』に連載されたエッセイを単行本に刊行された後、
著者が加筆・訂正と文庫化した本である。
もとよりJALの機内誌のことであるので、各国の旅先の情景、食べ物、人との出会い、
そして日本人の若者の海外でのはがゆさ等が、
著者の思いが満天の星のように綴られている。
この間に、著者は小説家として流行作家の先頭グループで精力的に数多くの作品を発表されるお方であるが、
これまでの創作者として途上、やがて流行作家となった時の戸惑い、そして現在の心境までが、
散見であるが発露されている。
このことは文学青年の方たちに大いなる教訓となるのが、数多く見られる。
著者の貴重な体験から明示していることであり、特に小説家をめざす諸兄姉に学び取ることも多いと思われ、
あえて紡ぎ糸を紬(つむぎ)のような形で再編集してみようと、私は思ったのである・・。
《・・
(略)
私はかって、新人賞に三十回くらい落選した経験があるので、
この仕事(引用者・文学賞の選考委員)には気合が入る。
一行もおろそかにしてはならぬと思う。
三十回も落ちたのは何かのまちがいだったと、今でも信じているからである。
(略)
当時私は雑誌のライター稼業に精を出していた。
小説家になりたいのだが、小説を書かせてもらえないのだから仕方がない。
(略)
さる出版社からケンもほろろにつき返された小説のボツの原稿が、
机の上に置いてあった。
(略)
私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
心の赴(おもむ)くままぶらりと旅に出て、鄙(ひな)びた温泉宿やリゾート地のホテルで、
甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
(略)
不遇の時代には生活と格闘せねばならず、
やがて冬を一気に抜け出すと、
たちまち膨大な仕事がのしかかって身動きもできぬようになる。
むろん中には羨(うらや)むべきマイペース作家がいるが、
それは一種の才能であって、羨んだところで真似のできるところではない。
いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
夜も眠らず原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標などは、
いかに無計画な作家でも受けるはずがないからである。
これは経験上、たしかになんとかなる。
この際の問題は肉体でなく、精神力である。
たとえば五本の連載小説を抱えてしまうと、
そこには五つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが構成する五つの世界がある。
多くの読者を得心させるエンターティンメントに、日常の退屈な些事(さじ)を書き綴ることなどは許されない。
すなわち、書くべき物語は血湧き肉躍る五つの嘘である。
合理的に考えれば、似たような作品を並べるという手はある。
しかしこれも一種の才能で、ひとつのジャンルを書きつないで恒久的な読者を維持するのは生易しい話でない。
私の場合は、(略)
少なくとも登場人物の人格が相互に侵食せぬだけの、
まったく異なった小説を同時に書くことになる。
(略)
小説家には小説を書くという本業のほか、さまざまな仕事が要求されるのである。
サイン会や対談、文学賞の選考委員やら授賞式の列席、
所属する日本ペンクラブや日本文藝家協会の活動、
テレビやラジオ出演、映像化や翻訳にまつわる打ち合わせ、
いやはやそのほかの雑事を挙げればきりがない。
・・》
注)原文の一部に、あえて改行を多くした。
このように著者の浅田次郎氏は、小説家としての心構えなどを発露しているのである。
私は単なる小説、随筆をこよなく愛する読者のひとりであり、
浅田次郎氏の作品は余り読んでいない。
このサイトで浅田次郎氏に関して投稿しているのは、
【 小説家・浅田次郎さんの一面・・♪ 】
と題して、2006年3月11日に於いて、投稿していた。
【・・
(略)
この4日間、私はⅠ冊の文庫本を読んだりしている。
小説家の浅田次郎・著の『待つ女~浅田次郎読本~』と題された朝日文庫のⅠ冊である。
作者が自作を語るのが載っていたので、購入した訳である。
私はこの作者の著作本を15冊保有しており、ごく普通の愛読者である。
最初に読んだ本は、『蒼穹の昴』であった。
偶然、本屋で見かけ、タイトルが素晴らしく、本を取り出した。
本の帯に書かれた内容を見て、購入した。平成8年の5月の頃だった。
私はこの作者に魅了して、その後は店頭で見かけるたびに、購入した。
それからしばらくして、短編集の『鉄道員』が発売され、
この中の『ラブ・レター』には、しばらくため息をした。
現在、作者の全てを読了してはいないが、15冊の本の中では、
長編は『蒼穹の昴』、短編では『ラブ・レター』が最も好きな小説である。
今回の文庫本は、作者を知る上で最も適した本である。
この中で、評論として、三島由紀夫・氏の文学について書かれている。
『寂寞(じゃくまく)の庭にて~三島由紀夫の戦場~』《初出『文学界』平成12年11月号》
と題され書かれているが、
1970(昭和45)年秋に作家・三島由紀夫氏が自裁された後、この後に数多くの作家、評論家が綴られていた。
今回の浅田次郎氏は、歳月が流れた後の有利さを配慮しても、
三島由紀夫氏にこれ程に明晰した評論は、私の知る限りない。
三島由紀夫氏に関心のある方は、ぜひご一読をお願いしたい、と思っている。
・・】
このように投稿していたが、この後2007年4月3日に於いて、
【 浅田次郎さんの語りに、思わず苦笑し・・♪】
と題して、投稿もあった。
【・・
昨日、『文藝春秋』5月臨時増刊号《~黄金の10年へ~》の中で、
小説家・浅田次郎氏のロング・インタビューを読んでいた。
この中で浅田次郎氏は、最後に、
《・・・
仮に僕がサラリーマンだとして、
会社を辞めて何をやってもいいといわれたら、たぶんずっと本ばかり読んでいるでしょうね。
安い温泉地を回って、本ばかり読んで過ごす。
それって最高の快楽ではないでしょうか
・・》
注)原文よりあえて改行を多くした。
私はもう一度深く読み直し、思わず苦笑した・・。
私は定年退職後の3年生の身であるが、日常は小説、随筆、歴史書、現代史などを読んでいる。
そして、ブログに綴ったりするのが、何よりの楽しみとしている。
家内と共通の趣味は国内旅行なので、ときたま国内の各地に旅行に行ったりしている。
家内の父が亡くなった後、家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり家内の母を誘い、3人で年に3回前後は、温泉滞在旅行として5泊6日前後の滞在している。
こうした温泉滞在の折は、私は数冊の本を携えて行く。
日中のひとときは、周辺の観光地を訪ねたりしているが、
夕暮れから寝付くまでは、夕食時を除き、殆ど本を開ろげていることが多い・・。
このような日常、旅先と本を読んでいる日々を過ごしているので、
私は浅田次郎氏の発言された言葉に、思わず苦笑させられたりしたのである。
私は浅田次郎氏の本は20冊前後しか読んでいないが、
短編としては『ラブ・レター』、長編としては『蒼穹の昴』に魅せられて、
好感している愛読者のひとりである。
尚、浅田次郎氏の文学に対する真摯な思い、
そして小説以外の評論、エッセイなどの真髄を触れたいお方には、
私は『待つ女』(朝日文庫)の一冊の文庫本で知り、多々教示されたので、
推薦できる本かしら、と感じたのである。
この中で、評論として『寂寞の庭にて~三島由紀夫の戦場~』を読めば、
どれだけ浅田次郎氏が文学に対し、熱き思いがあるかは解かるので、
特に文学青年の方達には一読して頂きたいと思ったりしている。
・・】
私は作家・浅田次郎氏には、この程度しか解からない浅学のひとりである。
このように投稿をしたりした私であるが、今回のインタビュー記事を深く拝読したひとりであるが、
何よりも教示されたのは、
《・・
しかし、戦争体験者へのインタビューだけは一度も行わなかった。
「小説家でありたかったんです」。
自分はノンフィクション作家ではない。
証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れたのだという。
そして理由がもう一つ。
「つらい記憶は誰もが語りたがらない。
それを代弁するのも小説家の務めでしょう」
そうして生まれた登場人物たちは、我々と変わらぬ普通の人々だ。
愛する人もいれば、将来の夢や希望もある。
その思いが絶たれていく様は、読む者に戦争の悲劇を我がことのように感じさせ、
強く心を揺さぶる。
占守島の戦いのことを知ったのは18歳、
三島由紀夫が自決した直後に、なぜ三島は死を選んだのかを知りたくて入った自衛隊でのことだったという。
そして本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
僕は『戦争とはこういうものだった』
と次の世代、未来に伝えることが小説家の使命だと思うんだ」
・・》
もとよりノンフィクションとフィクションの違いを明言した上で、
《・・証言に引きずられ、物語を作る力が奪われるのを恐れた・・》。
そして、《・・
本作の執筆には、「三島さんへの抵抗という意味もある」。
「文学者としての三島さんは尊敬する」。
だが、三島はペンを捨て、武器を取った。
「文学者がそこまでの『表現』をしてよかったのか。
・・》
こうした明晰ある発言に、氏の文学への熱く真摯な思いを深く読み、
私は幾度も読み返し、氏に敬意を重ねたりしたのである。
そして私は、作家・嵐山光三郎・著の『口笛の歌が聴こえる』(新潮文庫)に於いて、
嵐山光三郎氏が平凡社の編集時代、三島由紀夫氏の言動が描かれて折、
こうした思いも馳せて、<
浅田次郎氏の文学に対する確かに真摯な発露をつたない私なりに受け止めたりしている。
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