私は定年後に平素の買物担当となって、早や7年生となっている。
スーパーのパン・コーナーにも寄ることが多く、
ときおり紡錘形で底の平たいパンを見かけ、近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記され、
何となく気になるパンの一種である。
3年前の頃、このパン・コーナーで初めて見かけた時、
見惚〈みと〉れながら、懐かしさの余り、ひとつ購入した。
私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、この実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学し、
確か3年生の頃だったと思われる。
小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。
『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。
この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。
父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。
このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。
私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。
やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。
翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。
その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。
後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつの『こっぺパン』が一人一食相当分と知ったりした。
そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
1950〈昭和25〉年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
とこの当時は農家が多く、商店も少ない地域であったことを思い浮かべ、苦笑したりした。
3年前に、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。
遠くなったあの当時は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材などを含めて。パンを焼く技術を備えた高級なパン屋さんは、
1部の裕福な地域しかなく、
何よりも私も含め、多くの人は貧しかった時代であった。
今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、と感じたりしている。
或いは、ときおり私はアンパンを食べたりしている。
そしてスーパーで『こっぺパン』を見かけると、
ときおりあの当時の思いが甦〈よみがえ〉ることもある・・。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
スーパーのパン・コーナーにも寄ることが多く、
ときおり紡錘形で底の平たいパンを見かけ、近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記され、
何となく気になるパンの一種である。
3年前の頃、このパン・コーナーで初めて見かけた時、
見惚〈みと〉れながら、懐かしさの余り、ひとつ購入した。
私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、この実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学し、
確か3年生の頃だったと思われる。
小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私たち学童は、鉛筆、ノート、ゴム消し、下敷きなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。
『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。
この当時の私の実家は、農家だったので、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
或いは、ときおり小麦を精米し、粉状にしたのを父が『うどん』にし、母がゆで上げて、
家族そろって頂いていた。
父は私が小学2年の3学期に病死され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。
このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。
私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が、頻繁に購入しているのを見かけたりしていた。
やむなく私は誘惑に負けて、
母親に懇願して、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。
翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。
その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を1957〈昭和32〉年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。
後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつの『こっぺパン』が一人一食相当分と知ったりした。
そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
1950〈昭和25〉年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
とこの当時は農家が多く、商店も少ない地域であったことを思い浮かべ、苦笑したりした。
3年前に、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。
遠くなったあの当時は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材などを含めて。パンを焼く技術を備えた高級なパン屋さんは、
1部の裕福な地域しかなく、
何よりも私も含め、多くの人は貧しかった時代であった。
今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、と感じたりしている。
或いは、ときおり私はアンパンを食べたりしている。
そしてスーパーで『こっぺパン』を見かけると、
ときおりあの当時の思いが甦〈よみがえ〉ることもある・・。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村