夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

文愛人の私は、燦々の照らす真夏の日中のひととき、駅前に本を求めて・・。

2011-08-10 15:46:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


こうした生活をしているが、今朝いつものように読売新聞を見ていたら、
出版の広告として、本日10日発売の月刊総合雑誌の『文藝春秋』、『中央公論』が掲載されていた。

私は『文藝春秋』に関しては、1970〈昭和45〉年の春から、毎月買い求めているが、
『中央公論』は特集に関心した時は、購読しているのが、ここ40数年の習性である。

今回の9月号の『中央公論』の特集のひとつとして、

《 震災追悼企画
         震災犠牲者の遺したメッセージ 
                 この言葉と ともに 生きていく 》

と明記され、私は《 この言葉と ともに 生きていく 》という題名に瞬時に強く感性をゆすぶられ、
読んでみたい、と強く思ったのである。


私の近くのコンビニ店は、『文藝春秋』はあるが、無念ながら『中央公論』はないので、
駅前の本屋に行って買い求めようと決意したのである。

11時過ぎに自宅を出てたが、雲ひとつない青空で、陽射しは燦々と照らし、34度前後の中、
歩きだした・・。
長いストレッチ・ズボン、半袖のスポーツシャツ、ウォーキング・シューズで、
夏帽子を深くかぶり、そしてサングラスをしていたが、
たちまち汗が流れ、ハンドタオルで拭ったり、ときおり扇子で扇(あお)ぎながら、
少し遠回りの旧街道の蝉しぐれの中を歩いたのである。

20分後に駅前の商店街が見えて、やがて駅ビルの中にある本屋に入る前、
トイレの洗面所で顔を洗ったりした。
そして、いつものように新刊本、新書本、文庫本、雑誌コーナーを見て、
結果として、4冊を買い求めたのである。
本日発売の月刊総合雑誌の9月号の『文藝春秋』、『中央公論』、
そして『吉村 昭が伝えたかったこと』(『文藝春秋』9月臨時増刊号)、
新刊本のコーナーで偶然に見かけた佐野眞一・著の『されど彼らが人生 ~新 忘れられた日本人 Ⅲ~』(毎日新聞社)である。


この後、家内から依頼されて品をドラッグ・ストアー、スーパーに寄って買い求め、
帰路に向かったのであるが、
買い求めた本の内容を、あれこれ想像をしながら、真夏の暑い中を歩いたのである。

私は高校生になって遅ればせながら、読書に魅了させられたのであるが、
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、
書物から圧倒的に魅せられて、50数年となっている。
昨今は、ネットからみ多々読むこともあるので、活字中毒の一辺倒もままならなくなり、
苦笑する時もある。

このような私であるので、昨今は文愛人のひとりかしら、と微苦笑をしている。


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