私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、NHKのテレビのニュースを視聴し、
お盆を故郷(ふるさと)で過ごそうとする人たちで、高速道路の下り線の渋滞が始まり、
羽田空港の混雑が映し出され、
そして新幹線も、東京駅発の下りの混雑のピークも12~13日と予想される、
と報じていた。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、
家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。
私はサラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。
夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の半年を振り返ったり、今後の心の整理に良いのではないか、
と想像を重ねたりしていた。
実家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。
いずれにしても、せっかくの貴重な休暇の時、混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。
このように心情を思い馳せると、私はふたつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。
ひとつは、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』である。
私はこの歌を最初に聴いた時は、
若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。
と私なりに妄想させられてしまった・・。
この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。
私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。
私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、
長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむえず業界から去っていたりした苦い時代でもあったが、
昨今は愛惜を重ねて、この歌を聴いたりしている。
もうひとつの歌は、文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』である。
私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。
この頃の我が家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林が圧倒的に多く、
のどかな田園地帯であった。
このような心情を秘めている私は、
高度成長期より地方出身のお方達が、大都市で勤務し、生活されている方の大半の人々が、
夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。
もとより時代は大きく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の変貌に驚いたり、悲しみを覚(おぼ)えたりした。
地方出身のお方達も、生家の周辺の大きく変貌し、
帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。
このような思いをしていた私は、失われた故郷の情景、
そして過ぎ去った自身の時の流れに愛惜を重ね、
この時節になると、このふたつの歌が想いだされてしまうのである。
付記)『少年時代』・・作詞・井上陽水、作曲・井上陽水、平井夏美、編曲・星 勝、唄・井上陽水
『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
昨夜、NHKのテレビのニュースを視聴し、
お盆を故郷(ふるさと)で過ごそうとする人たちで、高速道路の下り線の渋滞が始まり、
羽田空港の混雑が映し出され、
そして新幹線も、東京駅発の下りの混雑のピークも12~13日と予想される、
と報じていた。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、
家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。
私はサラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。
夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の半年を振り返ったり、今後の心の整理に良いのではないか、
と想像を重ねたりしていた。
実家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。
いずれにしても、せっかくの貴重な休暇の時、混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。
このように心情を思い馳せると、私はふたつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。
ひとつは、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』である。
私はこの歌を最初に聴いた時は、
若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。
と私なりに妄想させられてしまった・・。
この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。
私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。
私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、
長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむえず業界から去っていたりした苦い時代でもあったが、
昨今は愛惜を重ねて、この歌を聴いたりしている。
もうひとつの歌は、文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』である。
私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
そして、少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。
この頃の我が家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林が圧倒的に多く、
のどかな田園地帯であった。
このような心情を秘めている私は、
高度成長期より地方出身のお方達が、大都市で勤務し、生活されている方の大半の人々が、
夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。
もとより時代は大きく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の変貌に驚いたり、悲しみを覚(おぼ)えたりした。
地方出身のお方達も、生家の周辺の大きく変貌し、
帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。
このような思いをしていた私は、失われた故郷の情景、
そして過ぎ去った自身の時の流れに愛惜を重ね、
この時節になると、このふたつの歌が想いだされてしまうのである。
付記)『少年時代』・・作詞・井上陽水、作曲・井上陽水、平井夏美、編曲・星 勝、唄・井上陽水
『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村