先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWポストセブン 】を見ていたら、
『 本当はコワい童謡『はないちもんめ』 残酷な人気者の取り合い 』
と題された見出しを見たりした・・。
私は東京の調布市に住む年金生活の74歳の身であるが、
今回の《・・『はないちもんめ』の童謡・・》って、 コワイ面を秘めているの・・
私は恥ずかしながら何かと無知なことが多く、 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥の古来からの名言を思いだして、
こっそりと記事を精読してしまった。
この記事の原文は、『女性セブン』の2019年9月26日・10月3日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の公式サイトの【 NEWポストセブン 】に8月25日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・本当はコワい童謡『はないちもんめ』 残酷な人気者の取り合い
体当たり取材が得意な『女性セブン』の名物アラ還ライター・オバ記者こと野原広子が、
ゆる~く世の中を斬る!
罪のない幼子に、なぜそこまでできる!
連日のように流れる幼児虐待のニュースに、胸がつぶれる思いをしている人は多いだろう。
子供同士のいじめも、もはや“悪ふざけ”で、すまされるレベルではない。
そう憤慨した後で、テレビやネットのなかった頃は、どうだったかと思うと、
それはそれで、暗澹たる思いになる。
思い起こせば、子供が虐げられた歴史は、今に始まったことではない。
先日、取材で地方を訪れた時、ちょっと薄暗い感じの路地で、4~5歳くらいの子供たちが数人、
『はないちもんめ』を唄いながら、遊んでいた光景を目にした。
いたって無邪気で、楽しそうな子供たちの姿に、
あぁ懐かしいなぁ、自分にもあんな頃があったなぁと目を細めたけど、
それと同時に、あれこれ思い出したことがある。
そう、誰もが子供の頃、なんの気なしに口ずさんでいた童謡の数々には、
実は、とってもコワい意味が込められていたことに。
もちろん、その多くはいわゆる“都市伝説”の類いで、尾ひれがついた話だとは思うけど、
あながち作り話で、すませるわけにはいかない気もする。
ほら、童謡のメロディーって短調で、どこか暗い響きがあるじゃない。
それがまた、コワさをよけいに演出するような気がするんだよね。
そこで今回は「本当はコワい(と私が思ってる)童謡」について──。
◆『はないちもんめ』(作者不詳)
〈 勝ってうれしいはないちもんめ 負けて悔しいはないちもんめ
隣のおばさんちょっと来ておくれ 鬼が怖くて行かれない
お布団かぶってちょっと来ておくれ お布団ぼろぼろ行かれない
お釜かぶってちょっと来ておくれ お釜底抜け行かれない
(鉄砲かついでちょっと来ておくれ 鉄砲あるけど弾がない)
あの子が欲しい あの子じゃわからん この子が欲しい
この子じゃわからん 相談しよう、そうしよう 〉
──庶民が貧しい暮らしを強いられ、子供は口減らしのために、都会に売られていた時代があった。
勝ってうれしい、とは「買ってうれしい」という人買いの気持ちで、
わが子の体重の一匁ぶんまで値段を負けて、
売ることになった親の気持ちが「負けて悔しい」と表されている、という説もある。
まだ日本中が、今よりずっと暗かった時代。
日が落ちる少し前から山影が黒く浮かび、いよいよ日没になるとあたり一面、漆黒の闇。
聞こえてくるのは、野犬の鳴き声くらいで、
深夜遅く、人の話し声が聞こえたりすると「何事だ?」と、母親の顔に緊張が走った。
すでに「人身売買」の時代ではなかったけれど、「人さらい」はいると思っていた。
イメージは、町の縁日に外からやって来たサーカス団やテキヤのお兄さん。
知らない男はみな、人さらいに見えて恐ろしかった。
茨城県の山麓に抱かれた城下町で生まれた私の子供時代は、『日本昔ばなし』そのもの。
童話『桃太郎』に、「おばあさんは川に洗濯に行き、お爺さんは山に柴刈りに」とあるが、
3、4歳の私は、明治25年生まれの祖母の着物のすそをつかんで、裏の川に洗濯に行った覚えがある。
若い母親は、木製の小さなハシゴを背負って山に行き、背丈より高く小枝を積んで帰ってきた。
女の子は全員、オカッパ頭。
冬は綿入れを着て、足元は下駄か運動靴か。
昭和35年くらいまでに地方で生まれた人は、同じようなものだったのではないか。
『はないちもんめ』は、小学校低学年までの遊びだ。
私の育った集落には、同級生の女の子が6人いて、朝は集団登校のために集まる広場で。
放課後は農家の友達の家の庭で、道具もいらないし、ちょうどいい遊びだった。
そこに上級生や下級生が仲間に加わって、長くなった列でする『はないちもんめ』は、
たちまち華やかな遊びになった。
だけどそのうち、この遊びがイヤになってきた。
「〇〇ちゃんがほしい」の「〇〇ちゃん」に真っ先に選ばれる子と、
そうでない子は、いつもいっしょなんだもの。
小さな集団の中での人気者の取り合いで、それを歌いながらする。
面白くない。
そんなある日のこと。
「はないちもんめ、やだ」と人気最下位の私が、思い切って言うと、
意外なことに人気ナンバー1の子が、「そうだね。やめよ」と賛同した。
取り合われる人気者も、残りものになる者も、
同じくらいイヤな思いをしているんだなと気づいたのは、その時が初めてだったと思う。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は幼年期は農家の三男坊として育てられる中、
兄ふたり妹ふたりの間にサンドイッチのように過ごしたが、男の児であったので、
童謡『はないちもんめ』、遊びは知らず、たぶん妹たちは近所の女の子と共に遊ばれていたと思われる。
今回、童謡『はないちもんめ』の歌詞に、このような残酷な事態の内容が発露されていたことは、
今回初めて学び、まもなく75歳になる私は、やむなく微苦笑をしたりした。
この後、私は童謡の『青い眼の人形』の歌を大変に誤解していた当時を思い馳せたりした・・。
私が1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
たまたま詩人、童謡の作詞家と名高い野口雨情(のぐち・うじょう)さんの遺(の)された作品を読んだりした。
そして大正時代の後期に『十五夜お月さん』、『七つの子』、『赤い靴』、『青い眼の人形』、
『シャボン玉』 、『こがね虫』、『あの町この町』、『雨降りお月さん』、『証城寺の狸囃子』などの
童謡の名作品を読んだりした後、 特に『青い眼の人形』に関して、
私の幼年期に聴いたりしていたが、 私は限りなく誤解して、解釈していたと気付き、思わず赤面した下を向いたりした。
私は東京の郊外に1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、この生家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、
その付近に小学校があり、 1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学した。
こうした中で、翌年の頃に、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、
幼年ながら鮮明に心に残った。
日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。
♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は アメリカ生まれの セルロイド
日本の港へ ついたとき 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
「わたしは言葉が わからない 迷子(まいご)になったら なんとしょう」
やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ 仲よく遊んで やっとくれ 仲よく遊んで やっとくれ
【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】
この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。
この当時の1952年(昭和27年)の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが、府中にある基地から都心に向けて走ってきた。
先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
そして偉そうな要人を乗せた大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの三台もスピードを上げて、疾走した・・。
こうした情景を見惚(みと)れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。
『チェ・・しんちゅうぐん(進駐軍)の連中・・・巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で、屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。
日本は1945年(昭和20年)8月15日に、世界第二次大戦のひとつの太平洋戦争に敗退した。
そして日本の戦争のの終結に際して、 ポツダム宣言の執行のために、
日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。
そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、
ひたすら恐れ慄(おのの)き その後の1952(昭和27)年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。
こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人は、もとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『チェ・・しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。
後年、1966年(昭和41年)の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情さんの『青い眼の人形』を調べた時、
1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、 私は動顚してしまった。
大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情さんは語っていて、
野口雨情さんは、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。
そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、
第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、 と知ったりした。
人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りで、遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。