夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

都心の郊外でも、今年初めての雪が舞い降り、78歳の私は・・。

2023-02-10 11:51:38 | 喜寿の頃からの思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む、78歳の年金生活の身で、
5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や73年となっている。

今朝、ぼんやりとテレビで気象情報を視聴していると、
今日2月10日(金曜日)は、関東甲信の広い範囲で朝から雪が降っていて、

内陸部を中心にすでに積もり始めています。

東京都心など広い範囲で積雪のおそれがあり、山沿いでは大雪となる見込みです。 
特に夕方の帰宅時間帯は交通機関への影響などに注意してください。 

このように報じられていた。

そして都心の積雪は、5センチと予測されいるので、
我が家も、おまけで7センチぐらいかしら、と私は思ったりした・・。

やがて私は、窓辺より庭に降る雪を見て、過ぎし年を思い馳せたりした・・。

         

私は今の住んでいる近くに生家があり、1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けて、
遥か70年前の頃は、この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。

私は地元の小学校に入学したのは1951年(昭和26年)の春であり、
初めての冬を迎えた時、こうした中で雪が降り、登校した・・。

私はゴムの長靴の中に、母か父の妹が未婚だった頃の叔母の助けを借りながら、
藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
ゴム長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。


小学校は、木造の二階建てであり、

教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があったりした。

この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、

薪(まき)が燃やされていた。

私たちクラスの学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、

番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


                              

この後、1955年(昭和30年)の頃から、

都会などに住んでいた御方たちが周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年(昭和32年)の3月であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に急激に大きく変貌した。

やがて1964年(昭和39年)に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に1回程度、15センチぐらいが降ったりしたが、

この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
             
           


こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると幾たびか北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。



                          
私たち夫婦の冬の旅路は、独自の周遊プランを旅行代理店に依頼したり、
或いは通販のクラブツーリズムの滞在型プランを利用して、
観光ホテル、リゾートホテル、旅館などに滞在して、周辺を歩き回ったりしてきた。


そして私たち夫婦は雪舞い降る山里の路、街の中を歩くことは30年を体験してきた。

          
過ぎし15年ぐらいは、こうした時に愛用してきた軽登山靴はマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの靴で、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの軽登山靴として、
お互いに滑り止めとして簡素なゴム製の金属製スバイク付いた品を装填している。


そして私は肌着の上に冬のスポーツ・シャツ、

ジャケット風の襟(えり)のあるフリース、そして防寒コートを着れば、
マフラーはフリースの襟が首回りまであるので不要となっている。

そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。



こうした中で、その地のお住まいの人たちと立ち話をしたりして、

その地の風土、文化を学びながら、
雪舞い降る時、そして雪晴れの時などの冬麗の圧倒的な情景に感動させられたりしてきた。




しかし時には風が烈風になると、1メートル先も視界が閉ざされた過酷な世界になるが、
わずかながら体験をしてきたが、お住まいの御方は日常生活の除雪などの重労働などを思い重ねると、
あくまで遊学の旅人の身勝手な思いでもある。

私たち夫婦の冬の旅路は、私のサイトのカテゴリー『旅』で、
つたない投稿文で記載してきたが、今回は省略する。


          

このような思いをぼんやりと思い馳せたりしたが、

やがて家内は、家内の母の長き介護で、疲れ果てて、
寒い地域の旅路より、暖かい沖縄地方の旅路を選定したりしてきた・・。

この後、家内は大病に遭遇して、体調は万全ではなく、
私たち夫婦は、雪が舞い降る旅路は、
2015年2月中旬の冬の紋別~サロマ湖~網走の遊学記』、
7泊8日が最後となっている。








そして私は、ときおり雪舞降る情景・・夢を見る時もある。
コメント (4)
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