私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
たまたま現役サラリーマン時代は、音楽業界のあるレコード会社に勤めていたので、
他社から昭和48年9月に発売された南こうせつとかぐや姫の『神田川』は、
私も好きな作品で、今でもときおり聴いたりしている。
このような心情のある私は、この記事に誘惑されるように記事を、
読んでしまった・・。
この記事は、TOKYO FMのラジオマン・延江 浩(のぶえ・ひろし)さんが、
関連の 無断であるが記事の殆どを転載させて頂く。
《・・・ (略)・・今回は前回に続いて、南こうせつさんと高円寺を歩いて話したこと。
* * *
「君たちには、ヒット曲がない」。
南こうせつとかぐや姫は、ディレクターから言われていた。
加山雄三だったら「君といつまでも」、そういう代表作が欲しいと言われ、
「僕らはフォーク。ヒットが目的じゃない」と反発した。
ある日、作詞家の喜多條 忠さんから連絡が入った。
「いい歌詞ができた」
電話で歌詞を聴き、手元のチラシ裏に書き取ると、メロディーが浮かんだ。
三畳一間の小さな下宿。
その下を流れる神田川、横丁の風呂屋。
マフラー代わりの赤い手拭い・・・。
誰もが知る「神田川」の世界は、喜多條 忠さんの学生時代の実話だった。
「LPのB面の曲なんだけど」とラジオでオンエアするなりリクエストが殺到、
オリコンチャートを駆けあがる。
「リリースは1973年の9月20日。すぐに1位に。
リスナーがヒットさせてくれたんです」
ラジオの深夜放送からは、何千、何万のフォークソングが生まれたが、
「神田川」は今も聴き継がれるフォーク史の傑作になった。
ジョン・レノン「イマジン」を例に、
南こうせつさんが「神田川」にまつわる秘話を教えてくれた。
1969年にウッドストックフェスが開かれ、ベトナム戦争が泥沼化。
そんな政治の季節の若者に「イマジン」が道筋をつけた。
ラブ&ピースが合言葉だった日本では、
セクト主義で暴力に走った学生運動が世間に見放され、
もう一度勉強し、多くの若者が大企業や官公庁に入っていった。
「転向と言われた彼らの心に、この『イマジン』が響いた。
彼ら団塊の世代の頑張りで、日本はGDP世界2位になった。
それは評価に値すると思う」
♪若かったあの頃 何も恐くなかった/ただ貴方のやさしさが 恐かった♪
「神田川」のサビを口ずさみながら、この部分の本当の意味を知ったのは
「神田川」を歌い始めて20年経った頃だったと、南こうせつさんが言う。
「ただ貴方のやさしさが恐かった」は、
頂点にある恋愛が解けてしまうのを、不安がる女性の心情と理解していた。
喜多條 忠さんは「それは違う」と。
「彼も早稲田で学生運動をしていた。
デモから下宿に帰ると、同棲していた彼女が何事もなかったかのように、
カレーライスを作ってくれた。
世間の騒ぎとは無縁の優しさに触れたら、自分がダメになる。
彼女の愛に埋没して、目標が見えなくなる。それが恐ろしい。
これが歌詞の真実だというんです」
「つまり、このサビは、男目線の言葉なんだよね」
と南こうせつさん。
「ジョンの『イマジン』も、ヒットを狙ったわけではない。
この曲もヒットさせようとか、そんな気持ちはどこにもなかった。
残る曲って、そういうもの」
日々の闘争と、彼女の安らぎの狭間に揺れた青春。
人はいつも温かい場所を求めるのだろうか。
闘争心を失う怖さを歌詞に滲ませた作品が、半世紀も歌い継がれている。 (略)・・
※週刊朝日 2021年10月15日号・・ 》
私は1964年に開催された東京オリンピックの時、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退して、アルバイトをしながら、
養成所に通い映画青年の真似事をし、
シナリオの習作をしたりしていた。
その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を喰(た)べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
やがて、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを3回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。
この間、何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年(昭和45年)の春、
この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
こうした中、まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、
外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。
そして制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
こうした中、私は音楽に関して、作曲より作詞の重要性を大切する習性があり、
他社から昭和48年9月に発売された南こうせつとかぐや姫の『神田川』は、
瞬時に魅了されたりした。
そして作詞された喜多條 忠さんの発想の根源は、
作詞家の阿久 悠さんの知人の上村一夫さんが、1972年3月より『同棲時代』を
双葉社『漫画アクション』において連載されて、社会ブームとなったりした。
このように私は思い馳せたりし、学園紛争後、挫折感や虚無感の中、
若き男女の信愛を、さりげない情景を現した優れた作詞と思い深めていた。
しかしながら今回、作曲家の南こうせつを通して、
作詞家の作詞された喜多條 忠さんの真意は、
《・・「彼(注・喜多條 忠)も、早稲田で学生運動をしていた。
デモから下宿に帰ると、同棲していた彼女が何事もなかったかのように、
カレーライスを作ってくれた。
世間の騒ぎとは無縁の優しさに触れたら、自分がダメになる。
彼女の愛に埋没して、目標が見えなくなる。それが恐ろしい。
これが歌詞の真実だというんです」・・》
このように私は作詞に秘められた秘話を学び、驚きながら、
あの当時の社会風潮を長らく思い馳せたりした・・。