今回は歌謡界の大御所、淡谷のり子の登場です。
アメリカで8年間邦人新聞社にいたという翁久允に誘われて、榛名湖畔のアトリエに居を構えようとしていた夢二は米欧の旅に行く気になってしまいました。当時夢二は「榛名山美術研究所」を設立する宣言をしていましたが、長年生涯にあって行けずにいた外遊とあって、支援者たちは画会を開くなどの協力を惜しみませんでした。
淡谷のり子も夢二と音楽会の旅をすることになりました。これはその当時を思い出して書かれたものです。
この一連のイベントで相当額が夢二の手に入ったのですが、一説によれば、夢二が外遊するとあって借金取りがどっとやってきて、ほとんど金を持たないまま船に乗ったということなので、これも”夢二式”というのでしょうか。
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
(注)本文は、『青春と読書』第20巻12号(1958年(昭和60年)(集英社)に掲載された「渡航前竹久夢二とまわった音楽界のことなど」です。
わたしの母が竹久夢二さんの大変なファンだったんですね。わたしが子供のころの時分から。ですから、わたしも夢二さんのことは小さい頃からよーく知っていまして、母の影響でしょうね、わたしも夢二さんの絵がたまらなく好きで、女学校の頃には夢二さんの絵をなんとなく集めていたりしていましたよ。その頃は、「夢二画描いたような人ね」というのが代表的な美人の形容でしたからね。
夢二さんの人気というのは大変なもので、浮き沈みなんてなかったんじゃないんですか、その当時から亡くなるまで、ずーっと。
それでわたしが上野の東洋音楽学校に入りまして、その頃セノオ楽譜というところから夢二さんが表紙の絵を描いている楽譜が出ていまして、わたしもそれでうたったりもしていたんですよ、『宵待草』とか『蘭灯』とかをね。夢二さんが詩を作って、多忠亮さんや本居如月さんたちが作曲して、それをわたしは歌っていました。
昭和4年にわたしは音楽学校を出ましたが、2年後の昭和6年ですか、夢二さんがフランスへ行きたがっているのだけれど、経済的に苦しいようだからその費用を作りだすための「夢二画伯外遊送別舞踏と音楽の会」をやることになったんで、わたしも出ないかというお話がありましてね。
わたしはその話を聞いて、夢二さんのために歌えるというので、それはもう嬉しかったですよ。
前橋や高崎と行ったところの何か所かでその会を開いて、そこであがったお金を夢二さんに持たせたんですね。その会が開かれる土地土地に夢二さんの講演者の方がいましてね、おそらく、その人たちもお金を出したんでしょうし、もちろん、わたしたちも無料出演ということで、そうして集まったお金を夢二さんに差しあげて、それで発たせたんですけどね。そのくらい集まったかは知りませんよ。でも随分な額になったんじゃないでしょうか。竹久夢二が来る、淡谷のり子が来るというんで、各会場ともそりゃもう大変な人が集まりました。
その音楽会の旅にはずっと夢二さんが一緒だったんですよ。夢二さんはその間いつも一生懸命絵を描いていましたね、墨絵だとかの。で、その絵を会場に展示して売っていたんです。だから旅の間は毎日お目にかかりましたし、何度か一緒にお食事もしました。
「夢二は、彼(夢二)の蟇口(がまぐち)を手にとると、一種の興味にはずみながら、無造作に口をあけて逆に、じゃやじゃやらひっくり返した。五十銭玉や十銭玉、五銭玉まで交じって紙幣の数々を並べてみると、漸(ようや)く二百何十何円何十銭しかないのだった。ほゝこれじゃ日米金百弗あまりだね。これぽっちの金をもって秩父丸のキャビンにおさまり、世界漫遊するんだなんて人物は、明治以来君一人かもしれないぜ、こりゃ君、記録(レコード)ものだと。しかし笑いながら、なに、どうせこれから一年あまり、二人は夫婦者かなんぞのように助け合いながら行かねばならぬ長い旅だ。」と翁久允は自著「出帆」に書いています。夢二はどうも資金を全部出発前に使ってしまったようですね。
その旅の途中のある日のことなんですが、わたしが墨をするお手伝いをしていましたら、夢二さんが「そこに掛けてください」と言って、わたしを椅子に掛けさせて、わたしをモデルに夢二さんが絵を描いたんですよ。でも、何に描いたと思います?それがお寺に行くと「過去帳」というのがありますでしょ、あれにわたしの絵を描いたんです。そしてその横に「私の絵の権利は全部のり子さんにあげます」と書いたんです。
それはまわりの人達やわたしの家の者も見ていまして、皆から「いいわねえ」ととてもうらやましがられましたけど、絵の権利がどうということじゃなくて、あの夢二さんに自分を描いてもらったということが、わたしはもう嬉しくて、嬉しくてね。
でも、それを持っていたら今頃は大変なことになったんでしょうけれど、戦災で焼いてしまったんです。とても残念でしたね。
そのほかにも夢二さんは黒じゅすに絵を描いて帯を上げるからという約束もしてくれたんです。
当時、夢二さんは四十七、八歳でしたか、わたしから見たらもういいおじさんなんですけどね、あまり喋らない人でとても女性関係の派手な人だなどとは思えませんでしたけどねえ。
「フランスに行くんです」
「フランスにいらっしゃるんですか、いいですね」
何度かそんな話をしましたけれど、アメリカへ寄ってそれからフランスに行く予定だったんでしょう。でも、アメリカにいらっしゃる時間が予定よりも長くなって、それからヨーロッパへお入りになった。しかし、間もなく病気になったんでしょうね。やがて日本へ帰ってこられて「帯をあげるから取りにいらっしゃい」という通知をいただいて、わたしは竹藪のいっぱいあるお宅に訪ねて行きましたけど、その時はもうご病気がずいぶんと進んでいたんじゃないのかしら、夢二さんにはお目にかかることもできませんでしたし、約束の帯もいただけなかったですからね。
夢二さんと会ったのは、本当にその音楽会の旅の間だけでしたから、それに夢二さんが旅の間もほとんど喋らない人でしたから、夢二さんとはそれほど深いお付合いがあったわけではないんですけども、小さい時から好きで好きでしようのなかった夢二さんのために歌い、その人と一緒に旅が出来、そのうえ、「幾つかの忘れがたい思い出が作れたということです。
わたしがお目にかかったあと、夢二さんがアメリカでどんな生き方をなさったのかは、とても興味があります。(談)
(注)淡谷のり子(歌手・1907~99)、1931年(昭和6)当時は24歳でした。
20代~30代の淡谷のり子(Wikipedia)