夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第23回「夢二画集のことなど」(小野忠重)

2025-02-02 13:11:54 | 日記

今回は、版画家の小野 忠重の文章です。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもあったようですが、1909年生まれなので夢二より25歳年下。夢二の通った早稲田実業学校を卒業しています。
ここでは、画家の中沢弘光と夢二と共同生活をした荒畑寒村からの聞き書きがありますが、17歳で上京したときの様子の断片がよく分かります。また、それ以降の出版物についても、印刷や装幀の面などから詳しく書いています。ここでは主要部分を抜粋しました。

本文は、特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)に掲載されたものです。
*『夢二美術館―春の贈りもの―』(1988.6.28)学習研究社より

(前略)

 『夢二画集』

(前略)

 さて、竹久夢二(明治十七~昭和九)のごく若い頃について、私の胸にこたえている聞き書が二つある。一つは画家中沢弘光(明治七~昭和三十九)さんの最晩年に私が訪ねた時のメモです。――「中学世界」の絵の選者だった頃、当時早実時代の夢二が投稿し、受賞したので、訪ねてきた。後には藤島(武二)に就いたようで、同門の有島(生馬)と彼は親しかった。夢二は一条成美のつぎの時代の人気を得た。夢二画集は女子学習院生のみんなが持っていた。院長の乃木大将はこれを持つなとしかったと、当時の図画教師岡野栄から聞いている。――とあり、もひとつは、平民社以来の社会主義者荒畑寒村氏(明治二十~昭和五十六)を、これまた晩年に訪ねた時のメモ、夢二との交渉は明治三十八年頃で、平民社に、なんのつてか、発送の手伝いなどで出入していた。早大文科の男(のちに「マルクス・エンゲルスを教えてくれた人」と夢二がかく岡栄二郎)と私と夢二は二、三ヶ月雑司ヶ谷鬼子母神近くの農家で自炊していた。絵をかきたかった夢二は、早実に籍をおきながら溜池の(白馬會)研究所に通ったりしていた。絵はがきの流行していた頃、画用紙をはがき大に切って絵をかき、早稲田辺の絵はがき店におろし、十日目位に集金して生活費にあてていた。一尺ぐらいに積んだ画稿を私に見せて、平民新聞に使ってくれという。これを堺利彦先生に見せたら、おもしろい、採ろう、という。しかし週間「平民新聞」は廃刊となり、後続の「直言」に出た。その「直言」も発行停止で、つづく「光」から日刊「平民新聞」時代に、これらのコマ絵や狂句、詩などが続出した(下略)――と。どうやら中沢→荒畑回想は荒畑→中沢の順で、投稿青年夢二の面影をのこすかのようです。

 だから『夢二画集 春の巻』の夢二の自序に――これ等の絵を掲載したる雑誌、女学世界、太陽、中学世界、少女世界、秀才文壇(下略)の編輯者諸子に謝す――があるのです。この稿のペンをつづける(八十五年)七月二十三日付、朝日新聞の記事、新人国記(東京都の演劇関係)にふと目がとまりました。――三橋達也の父は、木挽町の仕事場で、薄いツゲを貼った桜の台木に絵を彫っていた。自宅は銀座三丁目にあった。トッパン(凸版)技術が未熟な頃で、得意先は電通だった。ときどき朝日新聞の仕事がとび込んだ。急ぐ時は父が彫り上げた木版を持って、三橋は数寄屋橋の新聞社まで駆けて行った。製版技術が進むと、父は自宅で判子(ハンコ)を彫った――と。

私の知るかぎり、写真製版の亜鉛凸版(ふつうトッパンとよぶもの)は、明治十年代、二十年代、三十年代と試作益的なものがあらわれながら、写真版(アミ版)、原色版も成果をみせる明治末~大正期に、キリン血(drgon blood)とよぶインド海島産出の樹脂、写真製版の亜鉛凸版になによりの耐蝕剤を知るまで待つことになるのです。その間に行われる薄和紙の版下絵で彫りあげる木版の、用済みのものを夢二はもらいあるき、新z圧死の印刷所東京築作が必要となれば、工賃の安い彫師をたずねもしたのです。

投稿画青年夢二が、東光園薄幸の「ヘナブリ」誌(第二号から「ヘナブリ倶楽部」)にも関係し、みこまれて編集の責任を負い、表紙、口絵、挿絵、カットから附録の絵はがきまで受け持ち、文壇に詩・文を発表するのは明治三十八年十一月から三十九年三月までです。この雑誌の印刷所東京築地国光社の社長は、河本亀之助、夢二の自画版木収集の様子を知って、よろしい引受けた、となります。夢二最初の画集『春の巻』は、印刷所国光社かわるとことの出版社洛陽堂の開業宣言でもありました。ときに明治四十二年十二月です。

軽装(仮装)のくせに印刷効果はみごとで、そのものずばりな夢二画集の成功でしょう。四十四年九月の九版で総計九千部、四季計画の第二陣『夏の巻』が生れ(四十三年四月~四十五年三月八版)、これまた総計七千部となる。四季連刊は『秋の巻』、『冬の巻』が四十三年十月と十一月に完了するが、菊半截判または四六判で、画集『花の巻』、『旅の巻』と題したものが四十三年五月また七月に出る。四十四年二月に同じく『都会の巻』が出て、明治末樂王道の好評本夢二画集は感性となります。

 『桜さく島』から『三味線草』へ

昭和二十年三月の米軍空襲で焼け出され、私の夢二本はみんな灰となってしまい、戦後の杉並の住居で近所つきあいの画家、新海覚雄氏(明治三十七~昭和四十四)から、父君竹太郎翁の遺愛『桜さく島 春のかたはれ』を恵まれました。明治半期を思わせる絵入歌謡の和装本(十八×十二センチ)です。もっとも『桜さく島(国)』を題した画冊は、この四十五年二月本の前の、四十四年十月の『白風の巻』、またすぐつづく三月『紅桃の巻』が主宰の著編者を夢二年、自分をふくめ恩地孝四郎その他多数の筆をあつめて、「雑誌」として出ている(長田幹雄氏 竹久夢二著作目録「本の手帖」六十七年三・四月合併号)。

いま、これらと対照できないが、架蔵を見るかぎり、前後に例のない和装の単行本で――題箋(だいせん)を持つ表紙、裏表紙の間に、厚和紙二折の扉、その裏から見開き色木版「TUMABIKI」、その裏「暮れゆく春」の歌謡あり、以下コウゾ紙に歌謡(活版)と絵(木版)を満たしています。奥附の洛陽堂とならぶ印刷者名は、麹町飯田河岸の日英舎日下主計です。これは明治二十四年伊那生れで、明治の東京木版工武藤秀吉に学んだ彫師で、すぐこれにつづく洛陽堂夢二本『昼夜帯』(大正二年十二月)も手掛けている山岸主計とみられます。

もひとつ四六倍判本『桜さく国 紅桃の巻』(明治四十五年三月)の附録は『得度の日』と題した木版多色刷の二つ折ものでした。刀痕から、明治後半~大正期に洋画家の素描や水彩に迫真の彫技をふるった伊上凡骨(明治八~昭和八)の手によるものと見られます。この後まもなく開く、東京日本橋呉服橋東詰の夢二経営の絵草紙店港屋にならぶ人気商品、一枚絵の一つでした。

雑誌か単行本かまぎらわしいながら、『桜さく島(国)』の連刊は、夢二画集連刊で彼の身辺に寄った画家志望青年の集団に向けて、暫時ながら続いたのでしょう。その中で最も熱っぽい一人恩地孝四郎には、四六小判『どんたく』の表紙とカバーを案出させて、洛陽堂以外の最初の出版社、実業之日本社(同郷岡山出身の詩人有本芳水が編集長だった)から、大正に入るそうそう出します。そして『昼夜帯』(大正十二年末洛陽堂)、『草画』(大正三年四月岡村書店)、『草の実』(大正四年一月実業之日本社)、『絵入歌集』(大正四年九月植竹書院)と続き、新潮社版小唄集『三味線草』(大正四年九月初版 四六小判)が出て、厚表紙のなか、長くて八行、ほとんどは三~五行の本文活字組に凸版の絵入り、別刷はコロタイプ、巻頭の蔵書票にはじまる多色の木版(凡骨彫)あでやかに、首尾一貫夢二スタイルで、夢二装幀本のみごとな完成をみることができます。そして、夢二装幀本の珠玉中の珠玉、『山へよする』(菊半截カバー付)が生れるのは、大正八年そうそうでした。

大正三年十月呉服橋畔に開いた絵草紙店港屋は、東京の名店の人気をとりました。ここを訪れた女子美校生笠井彦乃との不幸な恋愛は、夢二に触れたどんな書物にも出ています。いわば、その結末の直前、夢二と逃避行の彦乃は病んで東京に連れもどされ、大正九年にはあの世の人となる。そのような時に書きつづられ、描きつけられた一篇の書冊が『山へよする』なのです。もとめられてもアト刷は出せなかったのでしょう。

というのは、前述の『三味線草』も大正九年十月の十三版本では、別刷が木版七点と変わり、帙(ちつ)が新装となります。そんな例は以後も多く、『夜の露台』は大正五年發月の千章館本(四六小判)で、見返木版、口絵、挿絵とも色刷六点ですが、大正八年三月に夢二本に春陽堂が加わった時、この本が選ばれ、大きさは同じ四六小判ながら、)帙入で面目一新、内容も詩が増補されます。

夢二は春陽堂が気に入ったらしく、『露地の細道』を大正八年三月、四六小判表紙木版函入本で、ここから出します。古い篇を集めていますが、この本文は朱ワクという二度刷、それに木版の挿絵が十一点です。このアト版があります。大正十五年十一月に出て、木版挿絵の十一点が全部変わります。本文中に風俗スケッチや古い仕切判(商店の領収印など)をセピア・インクで刷り込むという凝り方です。そんな風に夢二本は再版だからといって、独自な意匠が行われている。うっかりできない美術本なのです。(後略)

(注)帙(ちつ):書物を包むおおい

『直言』に掲載された夢二のコマ絵


最新の画像もっと見る

コメントを投稿