「花嫁人形」の画と詩で有名な蕗谷虹児は、父親の仕事の関係で行った樺太での放浪生活ののち東京に戻りましたが、友人らに連れられて菊富士ホテルの夢二宅を訪れました。1920年(大正9)のことで、夢二36歳、虹児は22歳でした。
夢二は虹児の持参した絵を見て雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介を紹介したことから、虹児は挿絵画家としてデビューすることになりました。この時点では「蕗谷紅児」と称していましたが、翌年、竹久夢二の許可を取り、「虹児」に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになり、『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになりました。(Wikipediaより)
夢二宅を訪れた時の様子を掲載した文章をご紹介します。
■蕗谷虹児
*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 夢二さんの画室」より
(注)本文は、蕗谷虹児が雑誌『令女界』に連載した、挿絵入り自伝小説「乙女妻」(1937年(昭和12)1月号~同年12月号11回目第一六巻第一Ⅰ号(宝文館)に掲載されたものです。東京・本郷の“菊富士ホテル”に暮す夢二を訪ねた一夫(虹児)のエピソードが綴られ、夢二の恋人お蔦(お葉)も文中に登場しています。
(そうだ、挿絵で身を立てると言う方法もあったのだな……)
一夫は、こう思い立つと、急に夢二さんに逢いたくなった。
(その頃、氏は本郷の菊富士ホテルにおられた。)
久しぶりに訪ねて行くと、
「来たね。」と氏は、静かに秋風のように笑った。
卓上には、楽譜の表紙のためらしい描きかけの絵が載っていた。
「春になったね。」
「ええ、僕は、春になると夢二さんに逢いたくなるんですよ。」
「なぜだい?」
煙草に火をつけて氏は椅子に凭(もた)れた。
「なぜだか、わかんないけど」
「なぜだか、わかんないけど―――かハハハ」
氏は、天井を仰いで煙草の煙を吹いた。
(夢二さんはいつ逢っても、一風変わった風態をしていられたが、この日は、紫紺(しこん)の袋頭巾のようなもので長髪を押えて、くち綿の、渋い八端(はったん)らしい地の丹前を着ていた。)
そこへ、お蔦さんが出て来た。
荒い派手やかな黄縞のお召に、繻子の昼夜帯を締めて、夢二さんが描く絵からそのまま抜け出して来たようなお蔦さんだった。
(こんな美しい人と一緒にいるので、夢二さんの絵はいつでも若いのだな……)
一夫は、お蔦さんの顔を見るたびにそう思った。
夢二さんは、絨毯の上へ描きかけの絵を置いて、そこへ胡坐(あぐら)をかいて描き始めた。
一夫は、椅子に腰を掛けたままその絵の仕上るのを見ていたが、見ているうちに、その画ペンの動きに魅せられて、甘やかな洋酒の酔心地のようなものを感じた。
敷じき物も窓掛けも、本棚も、卓子も椅子も、何処を見ても夢二式ならざるはないその部屋だった。
(夢二さんは、こんな綺麗(きれい)な部屋で、こんな綺麗な人と一緒に暮して、こんな綺麗な絵を描いている――倖(しあわせ)だな。)
一夫は、自分より二十年も齢上の夢二さんが、羨ましくなって来た。
「僕なんかにも描けるかしら――」
一夫が思わず言うと、
「挿絵をかい?描いてみたらどうだい。」
「描けるかしら――」
「好きなら描けるさ、――別にそううまい挿絵家も日本にはいないじゃないか――」
氏は、こう言って一夫に勇気をつけてくれた。
この二三日後に、一夫は、日米図案社の午休みの時間を利用して、T雑誌社を訪問してみた。
「何か御用ですか?」
編集長のT氏が、幸いに逢ってくれた。
「夢二さんが行って見よと言うので来たのですが、僕も挿絵を描きたいと思いまして――」
「ああ、そうですか、いままでどこかに描いた経験があるのですか?」
「ないのですが――」
「では、見本と言うようなものを持って来ましたか?」
「ええ。」
一夫が差し出したのをT氏は老眼鏡らしいその眼鏡越しで、一枚一枚、味わうように見てゆく――。
一夫は、その前の椅子にかしこまって、T氏の顎のところで、さっきから生物のように揺(ゆらめ)いている大きな瘤(こぶ)を、凝(じ)っと見つめていた。(完)
『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)
「花嫁人形」(1924年(大正13))
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