一郎達はカシムが着くまで空港近くのホテルで保護されていた
日本語学校が教師用に用意したマンションへ向かうはずだったのだが 犯人も逃亡中で再びの襲撃を警戒したのだ
一行がいる部屋へ向かうカシムの後を歩きながら 侍官長 アリブ・マシャールは眉を顰めていた
暗褐色の髪と瞳のこの青年は カシム王子より一歳年上だ
カシムが日本で暮らした数年は別として 絶えず彼の影のように付き添っている
彼の弟は警部をしている
カラム・マシャールはカシムより一つ年下の28才で カシムの母親違いの弟オルクと仲が良い
周囲に眼を配りながら 何が気にかかるのかアリブは分析していた その間もカシムは突進するような勢いで歩いていた 案内するホテルの支配人を突き飛ばしかねない
ノックなしでカシムは部屋のドアを開けた
入口に半ば背を向けた長椅子に若い男が座っている 彼はカシム達に眼をやり 少しおどけた そう今にも笑いだしそうな表情になる
今一人の男は うろうろ部屋を歩いていたようで 急に部屋へ入ってきた男達を見て顔をひきつらせた
女性二人は 侵入者と真正面に目が合う位置に並んで座っていた
長い黒髪の女性は顔色一つ変えず 肩までの長さの髪の女性は ただ目を見張った
最初に行動を起こし口をきいたのは 座っていた男だった
「ネットのエル・シャドゥール国情報で お姿は拝見しております カシム王子 そして侍官長 アリブ・マシャール氏 早々に お会いできるとは 思いもかけない光栄です 橋本一郎と申します
あちらに立っているのは 私の編集の小川翔太氏 こちらに座っているのは 高倉史織さん その横が私の妹 橋本亜依香です」
紹介を終えると 自分が座っていた椅子を勧めた
カシムはニヤリとした「でかくなったな 腕白坊主」
一郎も笑顔でこたえる「おかげさまで」
部屋を漂う緊張が解ける
カシムは気さくな笑みを浮かべた 「綺麗になったな 二人共 目が眩みそうだ
空港では恐ろしい思いをさせてすまなかった 今 調査させている」 ボーイが紅茶を運んできた
注ぎ終わるのを待って ボーイが部屋を出て行くと カシムはまた口を開いた
「事件の背後関係が分かるまで 安全の為 宮殿で暮らしてほしい
あなたがたを危険な目にあわせない為だ 不自由はあるだろうが 是非 受け入れてほしい お願いする」
一郎は快活に言った 「それは願ってもない 一度宮殿暮らしを体験してみたかったんだ で ハーレムはないの?」と片目を瞑る
女性二人は この場は一郎に任せる事に決めたようだ
様子を見ているようでもあった
「来てくれて嬉しいよ」 しみじみとした声で カシムが言った
暫くカシムは日本にいる自分の覚えている人間の消息を楽しそうに聞いていた
日本で暮らした数年はカシムにとって楽しい思い出だったから
まだ打ち解けない娘達と 王族の前で緊張するばかりの小川の間で 一郎は殊更快活に振る舞っている
些細な事件などおもしろおかしく描写してみせる
歓談ひとしきり
迎えの車の用意が整った連絡が入り 一行は宮殿へと移動することとなった
警備の人間も乗り合わせた 一見普通 実は小型戦車並に戦闘能力もある車内に落ち着くと 「エル・シャドゥール国の始まりの伝説をご存じだろうか?」
そしてカシムの深い声が話を紡ぐ
遥かな昔 十字軍の遠征で 病気となった王族はアラブ側へ捕らえられる
自由の身になりたくば そなたの身内の美女中の美女を寄越せ
知らせが届き慌てふためく王族の宮殿は 先の王の娘で 余りの美しさに修道院で育てられたヴィアレーヌに 白羽の矢を立てた
黄金の髪 くちなしの花色の肌
朝露を浮かべた薔薇の花弁の唇
光の具合で色変える青緑色の瞳
たおやかにして華やか 毅然とした優雅さを湛えた高貴なる姫君はイスラムへと 船で運ばれる
修道院育ちの姫には 見るもの皆珍しく 旅の間 商人から異国の言葉を教わる
聡明な姫であった
彼女は 人質の王族が無事帰国すれば 神の教えに背こうとも 死のうと決めていた
死出の前の物見遊山
そんな姫の姿を遠くから見守り恋心募らせる若き王子がいた
ザラク 鷹の目を持つ王子
姫に危害が加えられないよう警護の兵を率いている
嵐の夜 続く船酔いから弱り 高熱を出した姫を 秘蔵の薬で看病するうち態度には出さぬが ザラクの心は燃え上がった
姫もまた若き異国の青年の武骨なしかし優しさと真心に
彼を慕うようになる
二人は誰が見ても似合いの一対であるのに
恋を語らうことは許されない立場だった
だが姫を望む年寄りの欲深で好色な王
姫の抱く嫌悪感
―あの人が 思いのままになぶられるのか!
ザラクは 国を捨て去ることを決意し 姫をさらって逃亡した
「あなたを国に返してさしあげる 自由の身に」
そう誓うザラクへ姫は告げた
「あなたが わたくしの国です」
追っ手と斬り結び逃げる二人を 同じように信じる神は違えど恋におちた者達が 付き従い 守り
放浪の末 彼らは自分達の国を築く 豊かな緑の泉ヴァイラあるリヴァンの町を首都として
カシムが語り終えると アリブが言った
「残るザラク王子の肖像にカシム様は そっくりなのです」
そして車は宮殿に着いた