奥津嶋神社の年越祭なのだが…
朝、仏さまに手を合わせ、昼に年越祭のお手伝いをして、夕刻にはクリスマスツリーの前で一杯…『おやじぃ』の宗教観なんてその程度のものである。神さま仏さまに『お願い』したところで、何かを解決していただいたという記憶もないし、期待もしていない。ならば、神仏に何故手を合わせるのか?「清純無垢の一瞬を求めんが為」…我が親父の吐いた誰か知らぬが高僧のものらしい言葉を思い出す。手を合わせている一瞬だけは、人が憎らしいとか、妬ましいとか、そうした感情から解放されるんだってさ。(しかし、お金が欲しいとか、出世したいとか、ブツブツ邪念を申し立てる輩は存在しますけれどね^^;)
集落の若い衆が持ちこたえられないという理由で、集落の行事として催される年間行事のひとつであり、かつては宗教的な扱いから寄付で運営が行われていましたけれど、今では自治会費から予算を支出しております。(宗教的な要素は極力排除し、『神社』は集落内の和合の象徴である…と立派な大義名分を付けてくれた先輩がいたようである。)コロナ禍で、子どもたちへのモチの振る舞いが中止され、役員だけによる祭礼となってしまいましたが、集落役員を卒業した『おやじぃ』は、お客人(宮司、崇敬者、生産組合長)に餅を提供しましょうとお節介役を買って出たのでありますよ。あわよくば、振る舞いを復活させようなんてなぁ(笑)
甘いモノで飲んでも太らない^^;
さて、モチ米、ダイコン、長ネギ、セリを持ち込んで、雑煮と納豆餅で酒飲みオヤジたちには十分である。子どもたちは居ないから、あんこ餅は悪戯である(歳を重ねると甘いモノに手を出すオヤジたちも現れる^^;)役員たちは拝殿に上がり、公民館で調理をする『おやじぃ』は「祝詞(のりと)」というものを考えていた…「天つ罪・国つ罪祓い給え、清め給えと申さくぅ~。」…ところで、「天つ罪(あまつつみ)」って何だぁ?耳から入ってくる「祝詞」の文言だから『余つ罪(有り余る罪)』と聞いていたのだけれど、どうやら「天つ罪」とは、農耕を妨害する(例えば、畦畔を壊したり、水路を埋めたりという)人為的な七つの行為を指しているようである。(Wikipedia情報)
なるほどねぇ…原始共産社会(狩猟・採集文化)から、農耕文化に移行する頃から、人々には争いごとや貧富の差、妬みが芽生えたようである。そんな自分たちを「祓給え、清め給え」ってかぁ!「神社は集落和合の象徴」という理屈もうなづける^^; 今年はねぇ、田んぼ(収量、米価)も良かったし、きゅうりも価格が高値安定の一年でした。天変地異を神さまにお願いしたところで避けられるものではありませんが、さりとて、人智だけでは避けられない自然災害もある。収量・単価も努力だけでは叶わない。残るところのモノは、一年を安寧に過ごせたという「感謝」の気持ちだけでありますよ。「お願い」しても叶わないけれど、「感謝の気持ち」だけは捧げる…これなら神さまも『楽』でいいわねぇ^^; でもなぁ、小さくても大きくても「感謝の気持ち」を持ち続けることが出来たなら、世界に争いごとは無くなるのではなかろうか?なんて安易な発想をする『おやじぃ』がいましたとさ(笑)
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