本の題名『放火殺人~日本人の親子関係がつくるパニック障害』
著者 坂口由美
出版日 2024.12.
心の病は、脳の働き方がつくり出しています
「鬱病」とか「分裂病」という心や精神の病理は、誰でも知っています。薬を飲まないと「人格」が見る影もなく一変してしまうというイメージで捉えておられる人もいるかもしれません。「分裂病」ならば、人と向かい合って話している時に、自分の頭の中の妄想のイメージを中心に言葉を言い表すので、正常な対話が全く成り立たない、という病像です。また、「鬱病」ならば、「働く」「学校に行く」と口では言いながらも、口とは裏腹に全く行動しない、無気力になって悲観的な心配ごとばかりを止め処もなく喋る、といった病像です。しかし、心や精神の病というモノは、時代とか社会の変化にともなって病像もまた変化するものです。
心や精神の病は、時代とか社会ごとに変化します
社会というものが、自分の目の高さに見えるときには、「心や精神の病像」も、誰の目にもおかしいと実感されます。これまでの日本では、「良い学校に行けば、良い会社に入れる」というように、社会が「自分の目の高さ」にもよく見えていて鮮明にイメージされていました。「ニート」とか「フリーター」といった社会問題の言葉があります。「良い学校に行けば、良い会社に入って一生、安全に、安心して暮らせる」と誰もがイメージ出来ていた時代と社会では、ニートもフリーターもいましたが、いつの間にか「どこかの学校」に行けて、民間の資格も取得できて、数年間、我慢して働くと200万円くらいの貯金もできました。こういう軌道にどうしても乗ることが出来ずに、生活保護の生活を受けざるを得ない人が「心や精神の病の人」でした。また、表面は、なんとか仕事に参加できていても、頭の中にモヤモヤと気になることを抱えていることを、覆い隠すことができなくなった人が「心や精神の病の人」でした。こんな時代と社会は、「物づくり」といって、「物」を商品に作り出すことが「社会なるもの」のイメージの中心にありました。
健康と病気の境界がハッキリしなくなっている理由
「物づくり」という生産が大きな会社、中くらいの会社、小さい会社の財政を潤わせていた社会は、仕事に参加できているか、いないかのボーダーラインが明確だったのです。「物」というのは、人間の生活にどうしても必要な消費の「材」です。人間の生活から「物」が無くなることはありません。だから、今も、毎日、目の前に「物」はどこからか、送られて来ます。日本のどこかから、やってくるのではありません。海外の生産コストの安い地域から運ばれて来ています。日本でつくられた「物」は、海外の市場で流通しています。「社会」というものが目の高さではなくなりました。見上げるほどに高くなっているのです。今の日本は、「目に見えない商品」「手に直接、触れることが出来ない商品」をつくる時代と社会に変わっています。すると、「心、精神の病」と「健康で健全」ということの境界がハッキリしなくなっています。「学校に行けていない人」は、いつかどこかで社会参加は可能だという期待がもてなくなっています。
病気を病人に移植する現実
日本の社会問題の事例から分かりやすくご説明します。
病院で、「病気の腎臓」を別の患者に移植し続けていた、という問題があります。移植した医師は、記者会見で「どうせ捨てる腎臓だった。これは、ごく普通の医療としてやった。気が楽だった。なぜ悪い?」と述べています。病院の責任者も「法に抵触しているとは言えない」と話しています。ここでは、「病気の腎臓を移植して、病気を治すとか、先行き多少でも健康の回復が望めるのか?」という社会的な利益が抜きにして語られています。すると「普通の医療」とは治療のことではなかったのか?という目的も立ち消えになります。経済社会が高度に、抽象の次元に発達すると、「行動はある。しかし内容が無い」ということが起こりがちです。今の日本の経済社会は、「物づくりの時代」の社会的な利益や価値が変化しています。この事件の当時は、「物を何個、生産したか?」「物づくりのために、何時間、労働したのか?」が行動の内容でした。また、社会的な利益であって、価値そのものでした。「病気の腎臓移植」もこのような利益や価値の考え方でおこなわれています。心の病をつくる脳の働き方に基づいて言いますと、「右脳・ウェルニッケ言語野」の「触覚の認知」によって「患者の病気と治療をおこなうこと」が「医師の身体活動」に結び付けられています。同化していて、一体化されています。おそらく、今、自分の目の前にある腎臓は耐久年数は限度だろう。それよりは、もう少し耐久年数の長い腎臓に交換すれば、破綻をいくらか先延ばしにできる、というイメージが思い浮かべられました。こういうイメージは視覚のイメージです。「右脳・ウェルニッケ言語野」は触覚を認知するだけです。「視覚のイメージ」は思い浮かべません。そこで、「右脳・ブローカー言語野の3分の1の記憶の中枢神経」を借りて、「触覚」を視覚的にイメージします。これが「クローズ・アップ」です。「物づくり」とは、この「クローズ・アップ」がいつも鮮明であることが「能力」の到達点です。
右脳・ブローカー言語野の「3分の2」の抽象の視覚のイメージがないのです。
ここには、「健康とは何のことか?」「治療するとは、どういうことをいうのか?」という言葉やその文脈のイメージは思い浮かびません。これは「右脳・ブローカー言語野」の3分の2の記憶の中枢域に記憶されて思い浮かぶものです。だから「病気の腎臓を移植して、なぜ悪い?」「法には少しも触れていないと思うが」という弁明の言葉が言い表されます。「これは、ごくごく普通の医療行為だ」と信じて疑う余地のないものと主張されるのです。病気は治っていないし、治る方向もたどっていないので、これは「鬱病」のモデルです。また「病気を治すこと」というのが医療の定義だとすると「普通の医療行為である」と話す言葉は、「分裂病」の乖離した美化のイメージとなります。しかし、新聞の報道を見る限りでは、誰も「正しくない行為だ。是正せよ」とは言っていません。「双方の患者の合意が得られているのか?」を調査せよ、というものでした。これは、日本の社会全体が変化している経済社会の現在の社会的価値や利益というものを明確に規定できていないことを意味しています。
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