もう知る人も少なく、現品としても存在しないだろうと思っていたら、なんとネットで1000円で売られていた。南九州がまだ台風銀座だった昔である。停電と言えばローソクが当たり前で、懐中電灯などという便利なものは記憶にない。まして、中学生が携帯性のある発電機など手にはいるわけもない。前回のブログ「イモムシ・マスク」に書いた「燈火採集」でひと晩中照らす光源は、このアセチレンランプしか思いつかなかった。
黒灰色の粘土のような炭化カルシウム(カーバイド)を入れた容器の上に水タンクがあり、水滴を滴らせることで発生するアセチレンガスを燃焼させる。スクリューバルブで水滴の量を調整することで炎を加減し明るさを変えることが出来るという、単純な構造である。明るく光量も多いため、かつて炭鉱や灯台などで用いられていたが、現在でも狩猟や、ケービング(洞窟探検)や、漁業等で使用されていると知って驚いた。
灯りに寄ってくる虫たちを捕える燈火採集と並んで、もう一つこのランプの想い出がある。
福岡市の東南部から太宰府に連なる三郡山系。当時の鞍手郡、嘉穂郡、筑紫郡にまたがる屏風状の山並みである。博多駅からローカル列車に乗り、篠栗駅を起点に登り始め、若杉山(678m)―ショウケ越(520m)―砥石山(826m)―三郡山(937m)―仏頂山(869m)―宝満山(800m)そして、西鉄太宰府駅に至るおよそ20キロ、ほぼ7時間かけて縦走する、私のお気に入りの健脚向コースだった。
手元に昭和33年、高校卒業の年に買ったガイドブック「九州の山」がある。定価200円、初版を昭和32年に「しんつくし山岳会」が出版した、当時最も身近に愛用された登山ガイドブックであり、今も版を新たにしながら読み継がれている。昭和46年に買った9回目の改訂版も私の手元にある。この時の定価が500円。13年間で2倍半となった値段を、当時の日本経済の高度成長と物価上昇に照らすと、やたらに懐かしい。
ザックの中で何度も雨に濡れ、変色してぼろぼろになっているが、九州各地の山に登った記録が汚い字(自嘲、今も汚い!)で克明に記されており、私の青春の山歩きの想い出がいっぱい詰まった宝箱である。
それによると、三郡縦走の記録は昭和31年から昭和37年までに12回。(昭和38年に大学を卒業して福岡を去ったから、その後の記録はない。山歩きから遠ざかる歳月が長く続いた。)若杉山から宝満山までの時間を見ると、初めのうちは4時間45分かかっていたのが、やがて慣れるとともに4時間、3時間半と短縮され、最も健脚を誇った頃には2時間40分という記録が残っている。これが私の最速記録だった。
この時、宝満山頂から荒々しい岩の石段の道を太宰府駅まで50分で駆け下った。通常は1時間50分ほど掛かる道である。誘って同行した友人T君は、初めての縦走の過激なスピードに懲りて「もう、君とは登らん!」と本気で怒った。若気の至りである。しかしその彼とは、その後も何度も一緒に山を歩いた。懲りない友人である。
昭和33年8月の5回目の欄に、「夜間縦走」と記された時間記録とメモが残っている。「篠栗駅出発午後8時30分、宝満山午前4時30分」…それだけで途中の記録がない。これには訳がある。
「悪天候をおして挙行。若杉にて雨に遭い一時断念。山頂付近に野宿を覚悟するも、やがてガスが晴れ、雲間から漏れる月光の下を歩く。ずぶ濡れの為、休むも寒気甚だしく、また不眠による過労に苦しむ。山で苦しんだ経験では、最もひどし。文字通りよろめき歩き、まことに苦しむ。しかし、下界の灯りの波、星の光芒は忘れがたい。Kと二人。」と負け惜しみのメモを書いている。実は、縦走の間、記録を取る余裕さえなかったということである。
歩きながら眠り、気が付いたら何度も尾根道の灌木の中に転がって眠りこけていた。宝満山頂で日の出を待つ間、歯の根も合わぬほど寒さに震えていた。8月2日、真夏の夜である。(K君は、後に熊本大学の工学博士になった。)
この時、ずっと二人の足元を照らしていたのが、このアセチレンランプだった。ヘッドランプで歩く今とは、まさに隔世の感がある。そして私の体力も……隔世の感がある。
この朝、太宰府は11.4度と、この秋一番の冷え込みとなった。寒がりの蟋蟀庵ご隠居が「春が来たら起こしてくれ」と言ってベッドにはいる冬が、少し足どりを速めたようだ。
(2012年10月:写真:昔懐かしいアセチレンランプ)
※写真はネットから借用。