蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

想い出の舞台

2014年06月02日 | つれづれに

了海「俗名中川三朗兵衛さま。了海奴が、悪逆を許させ給え。」
実之助「恩讐は昔の夢じゃ。手を挙げられい。本懐の今宵をば、心の底より欣び申そう。あな嬉しや嬉しや。喜ばしや。」

 豊後・耶馬溪の山国川沿いに穿たれた144mの隧道。諸国遍歴の旅の途中に立ち寄った僧・禅海が、鎖で辿る断崖絶壁の難所で人々が命を落とすのを見て、ここに隧道を掘って安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって資金を集め、ノミと槌だけで30年の歳月をかけて掘り抜いたといわれる。
 菊池寛が僧・了海という名前にして「恩讐の彼方に」という小説に書き、後に「敵討以上」という三幕物の戯曲にした。冒頭は、その最後のセリフである。

 小学校5年「ミツバチ学校」という劇が、私の初舞台である。頭に針金をくるくると巻いた触角を立て、背中にボール紙の羽を背負って舞台を駆けまわった。
 6年。筒井敬介の「バンナナと殿様」を、時代劇の鬘や衣装は大変だからと「バンナナと王様」と書き換え、王冠と腰蓑で済ませる舞台を作った。そして、出来るだけ出演者を増やす為に、放送劇を流しながら舞台で無言劇を演じる脚本に仕立てて、出演者を倍にした。私の初脚色(?)である。

 中学校では、毎年クラス対抗の演劇大会が開かれる。1年の時に、菊池寛「敵討以上」の第三幕第二場を切り取り、「青の洞門」と題して舞台に掛けた。私の役は、父・中川三朗兵衛を当時市九郎と名乗っていた家来の了海に討たれ、その敵討ちに了海を追ってきたが、懸命に鑿を打つ姿に刀を振り下ろせずに、やがて共に鑿をふるって隧道を掘り上げることになる中川実之助だった。9クラス中3位に終わったが、ガリ版刷りの脚本の表紙に、美術の教師が感動的な蝋燭を描いてくれた。今も大切な宝として残してある。
 2年。男クラとなって女性が出ない脚本を探し回った。さんざん本屋を探し回って、やっと巡り合ったのが倉田百三の「俊寛」だった。(歌舞伎の「俊寛」には千鳥という女性が出てくる。)清盛の使者として都から平判官康頼と丹波少将成経の赦免状を運んでくる丹左衛門尉基康が私の役だった。必勝を期したが、3年の女クラが演じた岡本綺堂の「修善寺物語」に1位を持っていかれて2位。
 3年。関口次郎の「乞食と夢」は、当時としては本邦初?と言われたほど知られていない脚本だったが、主役3人は皆乞食。その中でも盲目で年寄りの乞食という悲惨な役をもらった。今年こそ、と意気込んだがあまりにも汚い舞台に、見事な女形を演じた隣のクラスの菊池寛「時勢は移る」に又もや首位を奪われた。

 高校3年。文芸部で小説や詩を書きながら、「時には自分たちでも演ってみたいね」という事になり、芥川龍之介の短編3つを組み併せて「羅生門」という戯曲に仕立てた。私の役は、恋人を盗人に略奪される哀れな男。初めて舞台で抱き合うラブシーンに、野次と冷やかしが飛んだ。

 大学2年。文芸部で同じ衝動に駆られて、フランスの作家アルベール・カミュの「正義の人々」でテロリストの詩人を演じた。ロシア革命の引き金となったセルゲイ大公暗殺を実行したテロリスト集団の不条理に悩む姿を描いた作品だが、此処でもラブシーンがあった。(さすがにキスシーンは、ただの抱擁に変えたが。)
 正義のために大公の馬車に爆弾を投げたが、「奪った命には、命で償わなければならない」と、自ら断頭台に上っていく詩人。今も忘れることができない好きな役だった。
 時あたかも60年安保闘争の渦中である。連日、昼間は労働者と組んでデモ行進と機動隊との抗争を繰り返し、夜は大学で芝居の稽古という1ヶ月が続いた。東大生の樺美智子が抗争の中で死んだ。その時の安保条約締結を強行した首相が岸信介。その孫が、いま日本をじわじわと右傾化しつつある。怖ろしい現実である。

 了海、俊寛、羅生門の老婆を演じた友は、もう彼岸に渡った。テロリストのリーダーを演じた友も、日航機の羽田沖逆噴射事故で帰らぬ人となった。友が次第に喪われていく。

 博多座6月大歌舞伎で、中川実之助を中村翫雀が演じる。想い出をいっぱい込めた、楽しみな舞台である。存分に声掛けを楽しむことにしよう。
 その初日の朝、昨年より6日遅く、平年より2日遅れて北部九州も梅雨入りした。
                 (2014年6月:写真:「青の洞門」脚本)

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